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記事No.4242に関するスレッドです

知覚と思考 / ubik0101
この世界の裏側は何だろう・・・見たい・・・どうしても見えない・・・そうだ・・・この光、風、樹、鳥の鳴き声その裏側は自分なんだ・・・じゃ・・・この自分がなくなれば、世界はなくなる・・・で・・・この自分の裏側は・・・ない、が沸騰してる?

ない、がクシャミをした。ない、が風邪をひいて。ない、が発熱した。ない、が回復して、カレーを食べた。ない、がみゃーみゃー言って庭を走り廻っている。ない、が羽をひろげて青空を飛んでる・・・どーしたんだろう何の神秘も消え失せた・・・ずーと世界の奥で、ない、と、ある、は同義のように見えるこの日常。見る、聞く。光、風が吹きます。

で。この世界の裏側は何だろう・・・どうしても見えない・・・そうだ・・・この光、風、樹、鳥の鳴き声その裏側は自分なんだ・・・で・・・この自分が、ある、から世界は、ある・・・じゃ・・・この自分の裏側は・・・ある、 が収斂してる?

続きます。

No.4241 - 2013/02/03(Sun) 09:08:55

Re: 知覚と思考 / ubik0101
この庭には、モズが暮らしていて、地面から樹の枝に跳ねるように飛ぶのを見かけます。この冷たい風。明るい光・・・見る、聞く、触る、思考する・・・満開の水仙の群生・・・青空に乱舞する飛行機雲・・・知覚とは、どこかに基点、基準があるわけではない差の認識です。

なんでもいいのですが、たとえば慈しみとか、喜びは、差の認識です。が、その差の背景、自分、には、どこにも基点、基準があるわけではありません。

そのあるとかないとかもない、なんでもないもない・・・ない、に偏った説明をするならば・・・空に、喜び、悲しみ、善悪、鳥、猫、気温、体温が差として浮かんでる、そんな感じです。これは知覚の風景です。

続きます。

たぶん、ムカデの類でしょう。玄関の前のトネリコの枝の先端に、モズが刺したのだと思います。

No.4242 - 2013/02/05(Tue) 18:43:19

Re: 知覚と思考 / ubik0101
これは、たぶん蛙です。サルスベリの枝を青いビニール紐で結んで姿を整えようとしてて見つけました。
No.4243 - 2013/02/05(Tue) 18:46:52

Re: 知覚と思考 / ubik0101
これは、アシナガバチでしょう。あちこちに刺して、忘れてしまうのでしょうか。庭を飛び回り、樹の枝に止まっては、シッポを縦に振ったり回転させたりしています。
No.4244 - 2013/02/05(Tue) 18:54:32

Re: 知覚と思考 / ubik0101
すこし寄り道です。もしかして、なんの基点、基準もないから、たとえば慈しみと憎しみは対に、暖かいと冷たいは対に。善と悪。優と劣。平和と暴力。そんな必要はどこにもないのに、なにかとなにかは程度の差として認識されることもあるでしょう。

それは、そう認識するその人の状態を現す、と見ることもできます。それは基点、基準が、どこにもないので基点、基準を設けたいという状態で、自分は不安だぞ、と不安感を知覚してるわけではない不安かもしれません。

ついでに。なにかの行動、発言、思考が、わたしは、自我です。わたしは欲望です。わたしは嫉妬です、偽善です、依存です、自縛です。と、名刺を差し出し、自己紹介しながら、現れるばかりではないので、自分を探究しようとするなら、そこで見える行動、発言、思考だけではなく、その奥の気配、名刺の裏を探ることが、役に立つと思います。

たとえば欲望その対象は、車、家、地位、銀行貯金、名誉であったりするとして、それぞれの人によっても、年齢によっても、時代によっても違うでしょう。とすると、それはなんでも構わないということで。つまり対象には何の問題もなくて(車、家、地位、銀行貯金、名誉に何の問題があるでしょう)。その人の状態が欲望です。

そのような欲望は人が、対象を求めてるだけではなく、そうしてる、その自分を知ろうとしてることとしても機能させることができます。また欲望は選択でもあり、選択が問題と言われ、無選択が薦められたりもしますが、そうではありません。選択、無選択に何の問題があるでしょう。

なにか問題があるとしたら、その状態、その何だかの問題がある、その自分です。たとえば、欲望、自由、不自由、善、悪・・・対、程度の思考・・・そのことには何の問題もない思考に関わり囚われながらも人は、その、その自分・・・その自分もまた何の問題もないかも知れませんが・・・を求めるのです。また、たとえば何かが欲しいという思考がなくても人は、その状態なら、その状態、欲望です。

また、ほかの人から見た、この自分の印象、ほかの人の裏を探ることは、総て空想です。そうでなく、この自分の裏を探ること・・・それは自我でなければできないことですが・・・それは自分が不完全だと認めることなので・・・おそらく自我と気が付きたくない自我が最も嫌うのが、その探究です。

そんなことにかまわず自分で自分に切り込むなら、探究に、どんな哲学も、宗教も、師も不要です。これも何度でも言いますが、ここに自分の行動が自分にわかる、自分の発言が自分に聞こえる、自分の思考が自分でわかる。これ以上の秘密はありません。

続きます。

No.4245 - 2013/02/10(Sun) 15:59:21

Re: 知覚と思考 / ubik0101
そ、いえば。この前、自転車に乗ってる人が、横断歩道を横切ろうとしている通行人に向かって、ぶつかるほどには危なくないのに・・・危ないっ、と叫び怒っていました。その怒りの、あれこれの理由が考えられはします。

ひとつには、この自転車に乗ってる俺を無視するな、ここに自分は、ある、と主張してるのかもしれません。そうだとして、ほんとうに、自分は、ある、で問題解決です。この、ある、は知覚の領域にはなく、それで決着すれば・・・あるいは、ある、でありきれば・・・日常では、ない、と同義です。

続きます。

ふと思いついて、なつかしの喫茶店ナポリタンをつくってみました。けっこう、いけます。

No.4246 - 2013/02/10(Sun) 16:11:01

Re: 知覚と思考 / hato

朝晩はまだまだ冷えますが、夕方の日の入が遅くなり、春を感じます。

庭にいくつか芽が吹いた、ふきのとう。

No.4247 - 2013/02/13(Wed) 21:50:42

Re: 知覚と思考 / hato

河原に採りに行ったものと合わせて、
ubik0101十八番の、天麩羅にしてくれました。

サクッと軽い歯応えに、
春のほろにがい味覚がなつかしいようです。

もうすぐ、春。

一足はやい春、美味しく頂きました。

No.4248 - 2013/02/13(Wed) 21:58:17

Re: 知覚と思考 / ubik0101
このように、知覚の領域にないことを・・・また、その、それ自身がそれ自身を知覚できない、そのことを・・・ない、とも呼ぶこともあります。まあ、2月の青空に見えない2月の星座。雲に溶けこんでる飛行機雲です。

たとえば、また、ぽっかりと空っぽの、ない、自分。人が素直なら、素直の概念が、ない、で素直。また・・・ある、とも思いだにしなかった、自我が、ない・・・自我は虚構の了解・・・ある・・・さまざまの、ない、を人は経緯します。

エスキモーの言葉には、いろいろな白があると聞いたことがあります。たぶん、冷たい白、堅い白、危険な白、暖かい白、柔らかい白、強い白・・・とかがあるのかもしれません。その白を見てる自分が、どこに立ってるか?その位置。

そのように、さまざまな、ない、の意味を探ることで、ない、と表現するその自分の立ち位置を明確にでき、なにか特定の、ない、に固定されることを払拭できるのではないでしょうか。

そしてこれを理解する思考は、差の認識の制限がありません。とても自由度が高いのです。その思考する事態にさえ関わらないので、思考は、その事態を正確に表現できます。たとえば、人が素直であって、素直、との認識が可能です。

続きます。

No.4249 - 2013/02/14(Thu) 21:37:00

Re: 知覚と思考 / ubik0101
もちろん、人が素直でなくても、素直、との思考が可能です。また、人が素直であって、素直の思考が、ない、もあります。そしてなお、人が素直であって、素直、との認識ができるのです。

これは知覚と思考の関係に混乱があっては、奇妙に感じるかもしれません。また思考には、その思考、ほかの思考、発言、行動の正誤を判断する機能は付いていません。まったく誤ることもできる、それゆえ思考は正確に機能します。

このようなことの理解は、人の経緯、人生、この世界にあっての日常が必要です。 知覚と、思考の機能の混乱に躓く、留まる、振り回されることもありますが、見ることで、思考とその事態の関係を探ることで、解決するでしょう。その学ぶことは冬から春と季節が変わるように自然に進行します。

続きます。

No.4250 - 2013/02/14(Thu) 21:52:00

Re: 知覚と思考 / hato

それで、ナナちゃんです・・・

なんとなんと、

とても美人の猫友ができました。

朝から晩まで、外で木に登ってあそぶのも、こうして眠るときもほとんど一緒。じゃれたり遊んだり、仲良しなのです。

No.4251 - 2013/02/15(Fri) 22:14:10

Re: 知覚と思考 / hato

もしかすると、ナナの異母きょうだいあたり・・かも知れないね、と話しています。ナナより半年ほど先に生まれ、小さなときから、この庭にも来ていました。声をかけてもすぐ逃げて、人に懐きませんでしたが、古家でひとりで寝たりしていたのでしょう。

ナナがこの庭の住人になった頃、遠くから、ナナに愛しげに声をかけ、ナナも応えてこの猫にトコトコ近寄り、なついていました。ナナが気に入ってるので仕方ない・・・と、庭にいるときは、μ(ミュー)と呼んで、ナナと一緒にごはんをやるようになりました。小さかったナナが育ち、もうすっかり、ナナはμと同じくらいの大きさです。

鼻筋の通った、顔の小さなきれいな子で、そのうち、わたしたちにも安心してくれたら楽しそうです。

そんなμも、実は男の子。。。

ナナとμ、ちょっとあやしい・・・仲良しさんです。

No.4252 - 2013/02/15(Fri) 22:41:06