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記事No.4253に関するスレッドです

続・知覚と思考 / ubik0101
ところで、です。その人の状態、たとえば欲望によって変調される思考、発言、行動。その思考、発言、行動を自分で見て。つまり何か外に対象をたぐる欲望にあって、その逆、その自分の奥の闇をたぐって、そこをさらけだして見ること。

それは、自分ということが、実際に、ない、だけだったら、その日常には思考、発言、行動があるだけなので、 探究は不可能なのです。自我、欲望は、ありようがないのです。

続きます。

枯れたユーカリ・・・直系20cmくらいの幹なら、誰かが物置に残しておいてくれた、手動のノコで簡単に切れることを発見しました。

No.4253 - 2013/02/22(Fri) 09:58:29

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
それで11尺のアルミ三脚に乗って、放置状態だった柿の木を、剪定しました。これから、どのように芽が吹くのか?楽しみです。
No.4254 - 2013/02/22(Fri) 10:21:45

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
ふだん人は実際、常に自我や欲望は手放している・・・というよりも、そんなことは、この瞬間に壊滅しているのです。この冷たい風、冬の花、青空、飛行機雲、それだけで満たされているのです。

そのことに気が付くだけで、いや、気づくまでもなくそうでしかありません。あまりに簡単で、当たり前なので、つまらなくて、なにかが問題で、そして気づくことが必要なのでしょうか。

そうでなく、見ようとしてもしなくても見え、聞こうとしなくてもしても聞こえ、思考しようとしてもしなくても思考する知覚にあって、 楽しければ楽しく、辛ければ辛く、熟慮に熟慮を重ね、そのことに執着するわけでなく、自我の問題なく生きることができます。

とくに自分は、ある、ない、を了解してなくても、知覚の機能は、たとえば車、家、地位、銀行貯金、名誉などの変調されることに、何の関係もなく、見たり聞いたり思考したり日常そのように人は生きてるのです。

続きます。

No.4255 - 2013/02/23(Sat) 12:03:56

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
ここから、経緯、について説明します。ひとつには、自分が、事実、ただない、だけなら、なにか問題があるとして、それは騒がしい心理的思考、葛藤・・・時間・・・にあると展開されるようです。それはありもしない空想を事実と誤認してるその機構の解明に向かうかもしれません。

ここでは、その道を、よこいと《緯》系と呼んでいます。それで、いわゆる自我の問題が解決した場合、心理的な思考からの解放、時間がない、いまここ、分離がない、いわゆる《すべては、ひとつ》の方向になるのではないでしょうか。これは、どちらかといえば分離を嫌い、融合を好む・・・また、たとえば自分は、ない、に偏る傾向にあるようです。

ここで、とくに問題がない日常ということは、自我は知覚されないということだからかもしれません。いわゆる葛藤、心理的思考を自我と呼ぶならば、そいうことが発動しなければ、自我はないということです。

が、これは違います。もっと根が深いのです。この自我と気が付かないでも自我。ここを疑うことなくては、自分を掘り下げなくては、たていと《経》の探究は困難です。

なぜか探究の経緯としては、緯は、自我は初めから、ない。経は、自我は、あるとき消えてなくなる。自我は自己として完成する。自分は、ある。そんなことがあるようです。

どちらかだけでは完全ではなく、 どちらかだけでは辛いものがあります。でも、どちらにしても、日常にあって、それは真摯に、微細に見ることで、統合されます。というより、この世界、それが経緯の統合された姿です。

たぶん続きます。

No.4257 - 2013/02/23(Sat) 13:02:34

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
ところで自我とは、よこいと《緯》では、世界と自分、また自分と自分との分離、と認識される傾向にあるようです。たていと《経》では、ありもしない空想と事実と区別できない思考の特性に乗って。その葛藤などの騒ぎにあって、自分で自分を自覚しようとすること、とも言えます。

その自我がある理由は、いわゆる《自分自身を知れ》ということです。その衝動、それが自我です。しかし問題は、というか、これは馬鹿馬鹿しいのですが、自分の行動、発言、思考の奥を探ることでは、知り得ない、のです。知り得ないゆえに、いわゆる自分を知ろうとする葛藤は、いつまでも騒がしく続き得るのです。

とても、とても自分を知り得ない・・・なんかそんな自我とか欲望の探究で自分自身が知り得るとしたら、自己とは、なにか宝物のような、何かと較べられるような、とある特定の個別のことかもしれません。そうだとしたら、それは誤認です。

その自己が、その自己を知ろうとしてる。でもその知りようもないことに 気が付くには・・・必ず自己を知らなくてはならない・・・ここに自我の問題があります。それでも探究を頑張るのです。 この世界がそれを可能にします。

続きます。

No.4258 - 2013/02/25(Mon) 11:33:29

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
あくまで譬え話です。夜の暗い池の底に沈んだ大事なものを手探りでさぐると、泥で濁って、ますます見つかりません。静かにしてると月明かりでそれは見えるような気がしても、掴めません。そこに特定の個別の何かがあるというわけでもないからです。

ある人がほかの誰かの畑で宝物を見つけ、急いで家に帰って家財道具を売り払い、その畑を買った・・・うろ憶えですが、そんなイエス・キリストの喩え話があります。

これはなにか世界の中にある宝物を得たのではありません。自分の労苦、怠惰、喜び、悲しみの総てを・・・畑・・・つまり世界ごと役立てる。宝を得るには、この世界が必要だ、ということです。

また。プールで、こっちから向こうに行ったり戻ったり泳いで、スタート点に戻ります。どこかに行くということでは、まったく無意味です。でも、その人に、その自覚がなくても、海峡を泳ぎ渡る力がつくのです。バケツで太平洋を汲み出すのです。

No.4259 - 2013/02/28(Thu) 21:56:41