[ 掲示板に戻る ]

記事No.4266に関するスレッドです

ふと思ったこと。 / ubik0101
まあ、思考は思考しか見れません。これは、思考が思考を見る、ということを言ってるのではなくて。思考は思考の外を見ることができない、ということです。ここから展開してみます。

たとえば、どうしようかこうしようかと将来のことを心配したり、ほかの誰かが自分のことを、どう評価してるか?ああでもこうでもないと、気になったりすることがあるとして。そのような思考は、その思考しか見えない、ということです。

ケールと芽キャベツの交配、プチベールです。花が咲き始めたので、観賞用です。

No.4262 - 2013/04/12(Fri) 08:09:00

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
つまり、いくら空想の翼を広げても、思考は思考できないことを思考できない、ということです。思考はそんな自らの限界に気がつかないので・・・でもその限界の気配を感じてるから、思考はその思考の反対、類似のこと、無関係なことを空想し・・・どこまでも広がり、おなじことを繰り返したりするのかもしれません。

このように思考は思考しか見れない・・・もとより狭い範囲にいる・・・そこから思考は思考を守りたい・・・自己保存・・・意識現象を離れて、ものごとはないという誤認・・・空想と事実との混同・・・が可能になってる、組み込まれてる、のではないでしょうか。そしてなお、このようなことを思考は見ることができるのです。

メロン農家の人が来て、この花芽は食べるものだ、切っても新しいのがすぐ生える。と言います。それで塩ゆでにしてみました。

No.4263 - 2013/04/12(Fri) 08:12:21

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
そこで、簡単に言ってしまえば、まずは、ただ思考の外に気がつくだけ・・・知覚・・・この早春の朝の明るい冷たい風・・・鳥の鳴き声。それだけで神秘の、不思議の、真ん中に、あることに気がつくかもしれません。これは人の機能として備わってるので、なにも求める必要はなくそうではないでしょうか。

ごま和えにしてみました。

No.4264 - 2013/04/12(Fri) 08:16:44

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
それで、知覚の領域にあることが、なにか素敵なこと、思考は問題と言われたりするかもしれません。それは事実ですが、説明として言われてるだけです。見る聞くも、思考も知覚です。目を開いていれば、見ようとしてもしなくても花や自動車が見えるように、思考を見ることに、なんの問題もありません。

それでも。たとえば、あれこれを望む、あるいは守りたいという欲望が解決するということは、その思考の外、が解決したということです。それが日常です。そうでないと思考しか見れない思考に依存。いわゆる葛藤、攻めたり守ったりが起こり得るかもしれません。

シバザクラの小さな花壇です。

No.4265 - 2013/04/12(Fri) 12:47:10

Re: ふと思ったこと。 / hato

休日に御前崎の海に行きました。前に訪れてから、1年半近くなるでしょうか。久しぶりの、春の海が嬉しくて。

灯台近くのひなびた大きなホテル。
正面玄関に据えられた立派な水槽に、あのクエがいました。

元気だった?

と声かけながら、再会です。

No.4266 - 2013/04/13(Sat) 21:03:02

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
八重桜が土手に咲いていました。ポリ袋に摘んで帰って、計ってみると500gです。よーく水で洗います。
No.4267 - 2013/04/17(Wed) 09:05:13

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
その八重桜を十分に乾かして、200gほどの塩をまぶして、ポリ袋に詰め掌で押して空気を抜きます。それをボウルに入れて、その上から水を入れた別のポリ袋を乗せ、冷蔵庫に。

一日たったら、去年の梅干し作りの際にできた梅酢を八重桜のポリ袋に入れて空気を抜いて、水を入れたポリ袋を乗せ、さらに3日ほど冷蔵庫で寝かせます。

No.4268 - 2013/04/17(Wed) 09:12:49

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
くしゃくしゃにした新聞紙を伸ばして、キッチンペーパーを被せ、その上に漬け込んだ八重桜の花の半分を並べて、扇風機で一晩ほど乾かします。桜の香りが部屋いっぱい、です。
No.4269 - 2013/04/17(Wed) 09:18:22

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
カリカリに八重桜の花が乾いたら、ビンに塩と一緒に入れます。画像右です。これはお茶などにします。あと半分は、梅酢と一緒にビンに詰めます。画像左です。これは八重桜の花の漬け物です。どちらも冷蔵庫で保管します。
No.4270 - 2013/04/17(Wed) 09:26:28

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
続けてみます。

たとえば、ほかの誰かが自分のことを、どう評価してるか、ああでもないこうでもないと、気になったりすることがあるとして。そうならば、その逆、ほかの誰かを自分が、ああでもないこうでもないと、判断することがあるかもしれません。それは思考が対になってるというより、その自分が対立してると説明できます。

これは天秤のようにバランスをとってる、と言えます。それは、あっちこっちと揺れる、不安定です。まあ対処法としては、誰かを非難するなら、非難だけ、誉めるなら、それだけ、嫌うなら、それだけ・・・ほかのことに結びつけない・・・それで終了です。あれこれ天秤にかけるから両極が揺れて、面倒な葛藤、苦痛が忍び寄ります。そして天秤棒は・・・善悪、損得、優劣、自由、不自由・・・限りがありません。

そうでなく、リュックを背負うように、ひとつだけにすれば、荷は軽いのです。辛いなら、辛いだけ・・・それはそうで。ふつう楽しければ、楽しいだけ、ではないでしょうか。そのように悲しいなら悲しいだけ、寒いなら、それだけ、暑いなら、それだけ、です。単極。つまり無極です。それをほかのこと、損得とか、人間関係に結びつけるなら、それは面倒な、ああでもない、こうでもない、の天秤に振り回されるのではないでしょうか。

たとえば、知覚と思考。既知と未知。分離と融合。バラバラと、ひとつ。時間と時間の終焉。知覚からの直接行動。自我、無我。これはみな、事実ではあっても、説明概念です。それを対象として事実とするなら、天秤なのです。そして、対象、対象にしないも、対象にして説明概念になり得るのです。

No.4271 - 2013/04/20(Sat) 09:27:15

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
そんな天秤には、その支点、中心がなければ、構造として成立しません。しかしその、中心は、天秤を担ぐこと、によって生じるだけです。その天秤の両極、ああである、こうである、ああでもないこうでもないという、いわゆる心理的思考が、自我なのではありません。

そのありもしない仮定された中心、そのことが自我。その正体は、ない、です。あるいは、あれこれ対象と仮の中心で構成される・・・それは虚構ですが・・・それが自我の構造です。それはなにか問題があって、あるかのように仮説されてるのですが、ああでもないこうでもないという思考だけでは、その問題から逃げてるのです。

その天秤を担ぐその中心、その自分に目を向ける機会で、それを活用できるのです。それが一番簡単なことなのですが、見かけは天秤を担ぐことが楽だし、それが苦痛であってもその騒ぎ、葛藤に弄ばれる愉悦を感じる・・・また天秤の両極の、あああでもない、こうでもないを弄んで、中心から逃げることに愉悦を感じる・・・ということもあるのかもしれません。でなければ、どうして、そんなことを続けられるのでしょう。それだけなら自分で自分を騙してるのです。

それでリュックを担ぐということは。ああでもないこうでもない、ということは空想、つまり架空の因果であり、その虚構を拒否するということでもあります。これは生活では、ほかの人にも自分にも嘘をつかない、ということ。赤裸裸。仮の中心が成立しない、ということです。思考にあっても、行動にあっても、その場その場で全力を尽くすということ、であったりします。

このようなフィールドにあって、自分とは何?が探求されます。そして、たしかに天秤も、リュックも担いでない時、それはそれでも、自我は自我、自覚してなくても、思考してなくても、自我ならば自我なのです。そしてこれが逆転される、解放される、完成される、と表現されます。ここに世界というか、この日常のエレガンス・・・優美・・・な働きがあります。

No.4272 - 2013/04/22(Mon) 11:18:19

Re: ふと思ったこと。 / hato
毎日なかなかいそがしい日々を過ごしています。

今日はここ数年恒例のいざらい,庭まわりの用水路の掃除。二本で全長,7〜80メートルあるかしら。結構な仕事ですが,慣れたものです。
よっしゃ。
ubikさんhatoさん長靴はいて,ド根性作業スタイルで2時間頑張りました。

今年救出したのはウシガエルと,みどり色したアマガエル。

庭の空を見上げると,帰ってきたツバメが飛び交いシロサギが飛んでいき,

春だなア!

八重桜の花塩漬は春の味。

春の彩りがなんとも素敵です。

No.4273 - 2013/04/23(Tue) 21:55:30