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記事No.4275に関するスレッドです

(No Subject) / ubik0101
たとえば、この春の青空。2匹の猫が庭で追いかけっこ・・・どこか遠くで、エンジン草刈り機の音がします。そこで疑問です。このように見る、このように聞く、このように味わい、そして思考する。そう知覚される、これが、こうである理由があるでしょうか?まったく、ない、です。なのに、見えるは見える。聞こえるは聞こえる。思考は思考。これ、は、これ。なぜ?

ちょっと探ってみましょう。誰かを憎いとか、慈しむとか、悲しむとか、感じるとします。そこで、その憎しみ、慈しみ、悲しさ・・・そのそのことって、何でしょう?それが、何であるか、知ってるでしょうか?これは、知らないのではないでしょうか。さらに見えるということが、聞こえるということが、思考するということが、なんであるか?知らないのではないでしょうか。

そして一応その対象とされる・・・あの愛らしい、憎々しい誰かとか、樹、空、雲・・・それも知らない、この自分、それも知らない、のではないでしょうか。また既知、知ってるとされる、過去だって・・・知ってるということだって、知らないということだって、それが何か知らない、のではないでしょうか。

No.4274 - 2013/04/29(Mon) 17:43:24

Re: / ubik0101
ただ架空の因果関係にあって・・・たとえば憎しみを前提にして何か思考される関係にあるなら・・・なにか思考にあって憎しみが醸し出されるなら・・・その関係にあって、憎しみや思考、あの人この人・・・それを知らないことを知らない・・・知ってる・・・と見なすことができるだけではないでしょうか。

たとえば今朝いただいた味噌、納豆、豆腐、醤油・・・それが何であるか、知ってるでしょうか。これはみな大豆が原料で、それを煮て、発酵させて・・・とその、なんだかの思考の関係にあれば・・・その食卓にあって、その食卓から遥か離れて・・・知らない、から遥か離れて・・・知ってる・・・と見なせる。その思考は事実の思考であっても、空想です。ではないでしょうか。

また、なんでもいいのですが、慈しみの反対は憎しみ・・・愛の反対は無視・・・怒りは愚かさへの攻撃反応・・・そのような定義は、架空の因果関係です。それで何も基準がないところで、なにかの基準をつくって定義することで、なにか意味が解ったような気がするのではないでしょうか。おそらく人は、そのような様々な表現をしたり、経緯を辿ったりするかもしれません。

寒い時期に選定した柿の木。暖かさとともに、たくさん芽が吹き出してきました。

No.4275 - 2013/04/29(Mon) 17:45:50

Re: / ubik0101
そいうアイテムとしての思考。表現。概念。そいうことは・・・無理に結びつけられた思考で・・・なにも表現のないところ・・・日常・・・から、偏りによって生起し、そんなことにあって、そう表現する自分を前提にする。ということで、そこはかとなくその自分、その立ち位置を示すような気がする、そんなことではないでしょうか。

そんな思考は、透明な陽光をプリズムを通したようなことで、その表現が総ての色彩で、青や赤やは、事実ではあっても、説明です。たとえば、自我とか、無我とか、時間とか、今とか、永遠とか・・・それも一種の関係の思考です。人の経緯としては意味のあることですが、その思考そのこととしては、消えていいこと、です。

そこで、または、この・・・日常・・・に誘うために、縁起には縁起の概念はない、今ここには今ここはない、と言われたりします。たとえば総ての色を集めると、透明。その関係の思考が消滅するところ・・・日常・・・この、何でもあるゆえに、なんでもない、透明・・・ここは、なぜそうなのか知らないけれど、明るく、幸福で、軽いのです。

続きます。

ちっと畝が空いたので、植えたニンニク、大量にできてしまいそうです。

No.4276 - 2013/04/29(Mon) 17:49:22

Re: / hato

それで,今日は午前中,近くの農家の店に作業用土や西瓜の苗を買いに行き,午後は電車に乗って,静岡市内の松坂屋に行きました。

ちょうど長崎の物産展が開催されていて,ubik0101さんが美味しそうな干し椎茸の袋詰めを見てたので,「買う?」と聞いたら,「うん。並んでよ。」というので順番がくると,お兄さんが一袋千円の袋詰めに,2掴み分サービスしてくれました。ubik0101さんが気に入ってる,イッタラの白いお皿を見たり,レオナール藤田の絵の,展示販売会を見たりしました。

久しぶりの電車に乗り,窓の外には静岡らしい田畑,茶畑の新緑を見ます。


この世界。この有り様を誠心誠意,日々生きることは言うまでもない大事なことだけれど,

「今,ここ,」という言葉が飛び交うように言われるとき,しっくりしないのです。

世界は自己で,真理なのだ・・・それしかないのだ・・・ならばそれは,物語を捨てたつもりで,実はただ隠してることに,気が付かないかも知れません。

チュリルも家にきて,一年とすこしたちました。

No.4277 - 2013/04/30(Tue) 00:06:12

Re: / hato

赤いハンカチーフ,鯉のぼりの季節。

おしゃまさんな,ノンノンです。

No.4278 - 2013/04/30(Tue) 00:09:33

Re: / ubik0101
続きです。

なぜそれが、そうなのか知らないけれど・・・明るさがなぜ明るさなのか・・・幸福がなぜ幸福なのか・・・で、軽いがなぜ軽いかなのか・・・知らないけど、日常そうなのです。ところで、提案です。もし、これがなぜこれ?この不思議の真ん中、この日常が神秘、の実感がないなら簡単なので、すこし実験してみましょう。

たとえば、です。なにか・・・誰かがそう言ってるとかいうことではなく、知識や伝統のあるなしに依存しないで、自分で見つけた、自発的な・・・これが大事。真理。その表現。ということがあるなら・・・たとえば神の存在、諸法無我、総ては無意味、総てはひとつ、私は世界。それ自身はそれ自身を認識不能、時間はない、いまここ、とか・・・なんでもいいです。

なぜ、それが、そう?と、それ、に直に尋ねてみましょう。どうでしょう?、大事、真理、その表現ということさえ、いや、そうだからこそかもしれませんが、それがそうである理由は、根拠は、裏打ちは、まったく見つからないのです。ない、です。

それはその大事。真理そのこと、またその表現を、まったく拠り所にできないという事態でもあり・・・もしかして、どんなことであれ大事、真理、その表現に、理由があるようなら、まだ探求を要するということで・・・そして、この、そのことも・・・ありとあらゆるもの、ことが・・・これはなぜこれ、も、これはなぜこれ、です。

続きます。

No.4293 - 2013/05/11(Sat) 21:10:40

Re: / ubik0101
そしてまた、日常そうある、このこのこと。その、その生活、実感。たとえば平穏にあるなら、そのこと。歩いてるなら、そのこと。見えてるなら、聞こえてるなら、そのこと。それは、なぜ、それ?あるいは、不安にあっても、恐怖にあっても、苦痛にあっても、これは、なぜ、これ?この森羅万象が、これはなぜこれ・・・これは、どんなほかの理由も要せず・・・これがこれ・・・架空の因果の断滅・・・つまり、なにも知らない、ではないでしょうか。

ここに幸あり、青い空。春。これ、がこうである必要もないのに、これ。この日常こそ、神秘。あるいは神秘と感じる必要もない神秘。ではないでしょうか。もしそでないなら、あるいは自己を知らない、あるいは真理と非真理、大事と小事、善と悪、とかの混乱に引き裂かれているかもしれません。そいう真理も虚偽も壊滅して、世界の総活動のただ中です。

なんの支えもないこと、一人あること、なににも隠れず、なにも隠さず。もっと言えば、こうであって、こうあることにも依存しないこと、そして、ここに自我とか、真我とか、無我とか、欲望とか、無欲とか・・・それらは透明・・・どう探しても見つかりません。その総ての区別を失い・・・そして明るい平穏、なのに聞こえる風の音。この世界・・・目がなくて見えてるように素通しです。見てる中心も素通しです。

沈丁花を植えました。

No.4294 - 2013/05/14(Tue) 09:16:38

Re: / ubik0101
説明すれば、です。自我だって、無我だって、世界の機能なんです。それを避けるなら、それを掴むなら、それはいわゆる分離です。それを避けるということも避けないということもまた不要です。あるいは無明ということ、ちょい大袈裟に誤解を恐れず極端に言うならば、それが世界の根底にあり、輝いてるのです。これがこれ。ここは、そんな・・・人の有り様にトレースする・・・驚異の世界です。

これは意識による解決ではなく・・・いわば思考の外の解決で・・・世界は私であって、その認識の終息。ただ一人あって、その事態の壊滅、いまここにあって、その消息の崩壊、です。ここは、みな誰もそうだ、としか言いようがないです。

ブルーベリー、品種名は不明で受粉樹もないのですが、結実しました。

No.4295 - 2013/05/14(Tue) 09:24:03

Re: / hato

ノンちゃんパパと行く海は,いつもなんてこともない,どちらかといえば疲れるのに,ふたりとも,いそいそ準備して,出掛け,なんてこともない釣り日和を愉しみ帰ります。

言葉は透き通った季節に,ポンと浮かび来るようにただあって,意味は過剰にありません。意味が,過剰に汲まれたり,無理に押し込まれるとき,それはやかましい,銅鑼のようです。

そうでないとき言葉は,来て刹那,意が表出されると,跡形残らず消え去るのです。それはとてもうつくしいことです。


ここに幸あり。青い空。そして,青い海。

あしたは,みどりの庭仕事です。

No.4296 - 2013/05/14(Tue) 23:41:43