「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す。」
と、言われます。これは仏陀の言う、縁起の成立、そして縁起の解消の法です。この成立と解消、どちらが重要ということはないです。けど、《これあればかれあり》という、十二支縁起つまり、無明・・・行・・・識・・・・・・生死、で考えると。それぞれの項目、たとえば行の意味、内容が空想されて、それはすでに空想の縁起の成立してるほうに偏って、縁起を考える傾向にあるようです。
たとえば縁起、それぞれの項目は、それぞれ独立した存在ではない、相依性で、自性がない、それは無我、という意見があります。縁起=無我。これそのことが、しかし空想の縁起であり得ます。そしてそこで言われるそれは空想の無我かもしれません。でなくて、その事態として縁起=その事態として無我でしょうか。では、縁起でなければ無我ではないでしょうか。
違います。無我ならば、縁起であろうとなかろうと無我です。無我ということが条件によって成立、または変化することでしょうか。そうでなく、縁起の壊滅《これなければかれなし》こそ、これも縁起《これあればかれあり》=無我・・・という意見と同じように、これだけなら偏った認識傾向ですが・・・無我そのことです。
続きます。
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No.4313 - 2013/06/04(Tue) 21:40:28
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