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記事No.4470に関するスレッドです

日常 3 / ubik0101
ここに、言葉、という、言葉、があります。これは、これそのことが、そのことの表現です。説明すれば、です。ここに、言葉、という言葉があります。と・・・ここに、言葉、という言葉があります。が表現した、された、のです。

またたとえば、青、と言えば、青。そして、空、と言えば、空、が表現されます。と、いえば、またたとえば、青、と言えば、青。そして、空、と言えば、空、が表現されます。と表現されています。と、言えば、、、。です。

これを、なんでもいいですが、たとえば、言葉、青、空、という言葉だけを見てみましょう。ここに、言葉、青、空、が、言葉、青、空、として、それそのことを、それそのことが表現した、表現された、のです。

すでに、言葉は生起してる、その、いまここ。で、その表現されたことの表現です。そこで言葉も、それ、そのことにしか、その根拠はないのです。それで、言葉は、いまここ、にあって正確無比なその、そのことの表現です。けど、架空の時間にあって、日常、さまざまな言葉(思考)とその事態との関係が起こります。

続きます。

ふと思いついて、鍋の残りの白菜を主に、きのこ類、と冷蔵庫にあったもので、お好み焼きをつくってみました。

No.4467 - 2013/11/16(Sat) 09:22:50

Re: 日常 3 / ubik0101
たとえば、青春、ということは、青春、にあって認識できない。幸福、ということは、幸福、にあって、認識できない。と、言われることがあります。それは、もしかしたら、なにかの時代、期間、状態、のことを、たとえば青春、幸福、と名付けた、その青春、幸福、かもしれません。

その名付けたということに気づかないままそれに重きを置くならば、なにかの人の時代、期間、状態を・・・時間としては後になって・・・また空間としてはほかの位置から・・・名付けたのですから、もうまったく外れようのないはずの、いまここから外れています。

そいうことで、とある時代、期間、状態を切り取って対象にして、それに名付けて、その名付けをさらに対象にして、そうしていながら、なんだこれは?言葉は事実を示さない!とか、と感じてる。いまここが、架空の時間、架空の因果にマスクされてる、変調されてる場合の特質です。

なにか問題があるとして、言葉ではなく、その架空の時間に気がついてないことかもしれません。つまり、いまここから外れたことを前提にして、たとえば、青春、ということは、青春、にあって認識できない、となる。それは、架空の時間、架空の因果に迷い込んだ。と、これがこのように、表現、説明されます。

ここで、もちろん、なんでもいいですが、認識する必要もなく、まったく青春、幸福、絶望・・・ということもあるでしょう。ここで、それを拒んでるのではありません。架空の時間、架空の因果、名付けることも、そのこと事態がとくに問題でもありません。そいうことがある、ということです。

これを強いて言うなら、万遍なく明るみに出さないで、隠れてる、未開発の分野があれば、そこは機能が滞り・・・そこが暗黙裏に注目されるために、そこに偏って・・・なんか障害として意識に投射され、問題として提起されやすいということです。

でもまあ、なんかドラマなんかで、青春してる人が、これは青春だ、とか。絶望してる人が、これは絶望だ。とか叫ぶと、なんか滑稽な感じがしたりしそうです。けど、そしてまた、まったくそうであって、そうと認識されることもあります。これをここではA=Aの思考と呼んでいます。

続きます。

ひっくり返すと、フライパンに最初に敷いたベーコンが、すこし焦げていました。

No.4468 - 2013/11/16(Sat) 11:01:40

Re: 日常 3 / ubik0101
くり返しますが、あるときテレビか雑誌で、《幸福は認識できないのに、なぜ不幸は認識できるのでしょう》という言葉を聞いたことがあります。そうです。不幸は、おおむね幸福を求め、すでに架空の時間、架空の因果に迷い込み・・・名付け、対象化に迷わされ・・・それを認識できるような気がするということ、です。

ところで、あなた、この掲示版を読んでる、あなた。こうして、この文字を追って、ここを、こう読み進んでる、と思います。ここで思考実験&実験です。これを読んでる、その、そのことが、時間ではないでしょうか。この、この文章を、ゆっくり読む。素早く読む。飛ばし読みする。また、たとえば、そして言葉も、それ、そのことにしか、その根拠はないのです。という文章の、

その、根拠、根拠、根拠、と針が飛ぶレコード盤、キズがあるCDのように、同じところを、ところを、ところを、ところを、くり返し読んでみると、まるで時間が飛んでは戻りするかのように、飛んでは、飛んでは、飛んでは、戻るのではないでしょうか。

と・・・このような文章を、時間・・・いまここ・・・として過ごしたのではないでしょうか。ここ、読んでる、ここ。すでに読み終わったところではなく、いまだ読んでないところではなく、ここ。この、ここ。それ。

たぶん続きます。

焼けたところで皿に盛って、ソースとマヨネーズをかけて、花鰹を盛ってみました。これは、いけます。ふかふか、です。いずれ楽天レシピに投稿するかもしれません。

No.4469 - 2013/11/17(Sun) 09:40:24

Re: 日常 3 / ubik0101
このようなubik0101が書いた文章は面倒なので。なにか、あなたが書いた文章を、飽きるまで、飽きるまで、飽きるまで、読んでみるのもいい方法です。そこに隠されてたことが、見えざるを得なくなるということもあります。これは自動的に進みます。そしてそのときは気がつかなかったかもしれませんが、その文章の構成、それを見ることでも、見えなかったことが見えてきます。

ところで、なにかを書き読むということもそうですが、誰かと話したり、働いたり遊んだり・・・ゴンベが種まきゃ、カラスがほじくる、この日常・・・こそ、そのなんでもない、いまここ。それは、なんであれ、探ってみましょう。そのこと事態にしか、その事態の根拠はない、です。歩いたり、見たり、思考したり、そのことが、そのことの根拠です。

と、いうことは、探ってみましょう、どんなことにも、根拠がない、に等しいです。いまここ、その根拠は、いまここ、です。そして、いまここ、歩いたり、見たり、聞いたり、その、いまここに根拠が、ない、です。ここで、対消滅のように、日常や言葉の、それがそれに根拠があるとか、ないとか、が壊滅です。

たとえば、いまここは、いまここも、どうでもいい、のです。なんでもいいですが、世界は一つ、私は世界、時間のあるない、その事態も、その思考も、たとえば自我、無我、どちらかに偏ると重きを置くことになりますが、その必要は、まったくない、です。

すこし振り返ると。この、いまここに、この、いまここに迷い込める機能があるのです。いわゆる心理的思考も、技術的な思考も、そのことには違いはありません。たとえば自我、無我の区別の偏りが、その思考を区別するのかもしれません。しかし、自我は無我です。または、自我もなければ、無我もないです。さて。

庭作業してて、抜いた雑草の穴から、2つ落花生がでてきました。ん?暫くして見に行ったら、なくなっていました。ん?カラスが埋めて、それが掘り出されるのを上空から見ていて、またどこかに持って行った?

No.4470 - 2013/11/18(Mon) 12:05:58

Re: 日常 3 / hato

それで,それはどういうことか,信じることに無関係にあるのです。

そういえば昨日の朝,ubik0101さんが呼ぶので行ってみると,窓外,庭の姫イワダレ草の上を,一羽のカラスが一所懸命なにか探して歩いています。「やっぱりカラスだったんだね」と2人頷きながら見ました。暫く探してから見つからず,そのカラスは諦めて飛んでいきました。

探しものはなんだったのでしょう。あのカラスは落花生を隠した主だったのでしょうか。なら,持って行ったのは,別の鳥だったのでしょうか。

すこし前,お世話になってる知人が,川根の標高1400mの山に連れて行ってくれました。

No.4471 - 2013/11/20(Wed) 22:50:20