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記事No.4478に関するスレッドです

(No Subject) / ubik0101
ない、が私たちの本性です。という言葉を聞いたことがあります。では、ない、ということは、どいうことなんでしょう?そして、なぜ、ない、は、ない、なのでしょう?

もし、ないが、自分の本性と自分で見たのなら・・・その不思議さに・・・それが、そう見える。この自分の不思議さに。なぜ、と問うことは必然です。

ではなく、もしかして、どこかで聞いたことを受入れたのなら、それが確定された真理と見なすなら、その見たこの自分に、問わないかもしれません。ない、それで解決済みとするかもしれません。

なんでもいいのですが、自分は、ある。時間はない、私は世界、いまここ、現象界、実在界・・・なぜ、それは、それ?これはなにか答えがでるとか、でないとか、そんなことではなく、姿勢です。

たとえば、なんでもいいですが、バラの花を望むとします。どうしましょう?あるいは、花壇をつくる必要があるかもしれません。そのためにはスコップが、腕の力が、適した靴、服、あるいは肥料。

あるいは天気、あるいは光、水、風の感覚。時間の感覚。あるいは植物の病気の学習。なにより、それに取り組む自分の姿勢、それを見る必要があるでしょう。

No.4472 - 2013/11/25(Mon) 09:51:26

Re: / ubik0101
この、なんでもいいですが、魚でも、友人でも、料理でも、それを見るためには、ありとあらゆることが必要になります。つまり、世界が、それそのことのために総て機能することのほかに道があるでしょうか。

そして、このようなバラとか魚とか天気とか。どんなことも、この自分に収束しています。その、わたしは、何?ここは、どんなことを問うても、問わないでも、この私は何?から外れません。

そでなくて、なんでもいいですが、バラの花を買うのであれば・・・その金額をどうすれば?というのを度外視するなら・・・それは簡単かもしれません。人に聞いたこと、真理を確定したアイテムとして、自分にだって問わないなら、

それを簡単に買うようなものかもしれません。買うことができるなら、買えばいいのですけど。誰かの言うことを受入れたりすることは、とても馬鹿馬鹿しい、と思います。

ところで、私は何?というのは、いわゆる自我の機能でもあり得ます。自分を・・・知る知らないではないのですが・・・自分で知ろうとすること、それが自我とも言えます。それで問わないことも正当化できます。

しかし知ろうとするのは、知らないからで、知ろうとしなければ、すでに知ってる。それは誤解でもあり得る。と、いうことも了解する経緯があります。

No.4473 - 2013/11/25(Mon) 10:36:45

Re: / ubik0101
また。ない、から、自分は生まれてもいません。ない、から、自分は死にもしません。という説明があります。それはそうです。しかし、その、ない、は。それを、ある、と言い換えても成立するのではないでしょうか。

あるいは、あるでもないでもない、と言い換えても成立するのではないでしょうか。さらに、なんであっても、たとえば私は世界、でも成立するのではないでしょうか。

それで、理由なんて、なんの意味もなく、そうなのではないでしょうか。もし自分は生まれてもなければ、死にもしない、というのが事実なら、その理由には依存しないのです。

なにかを思考しても,思考しなくても、理由があっても、なくても、その事態が変わるのは変なのです。とか、で・・・なにか見たなら・・・それは、なぜ、それ?問うことができます。

そいえば、私は世界、というのは。自分で自分を知覚できないから、知覚できる、これ、風、光、世界、思考、感情を、自分だと・・・とにかく藁をも掴むように・・・代替・・・して感じるのではないでしょうか。

ない、ならそもそも、私は世界、は成り立たない、とも・・・世界は世界、ということで、それに囚われた自己認識としては成り立つとも言えます。微細なとことから、まだまだ、突破口が見つかるのではないでしょうか。

No.4474 - 2013/11/26(Tue) 07:06:05

Re: / ubik0101
ところで、このように、ここで話してることは、誰かが言ったことについて、他人であるubik0101が話してるわけで、それはレクレーションとして以外、あんまり意味のあることではないです。

なかなか難しいもので、誰かが言ったことを前提にして展開すると、そのことが悪いということではないけれど、娯楽になりやすいです。これだけ、というのも変ですが、何か見て、これは、なぜ、これ?

これは経緯としては。もしかして側から見ると曲がりくねった道、あるいは行き止まりかもしれないけど、アイテム、対象としての思考の範疇に収まらないことを要求する。必要なことが総て揃う、迷いようがない道です。

No.4475 - 2013/11/26(Tue) 07:16:54

Re: / ubik0101
もういいだろう、ということでサツマイモ紅はるか、を収穫しました。5株分です。うーん、すこし数が少ないのかな?蔓を植えるとき大きな芋にしたくて、3節しか埋めなかったからかもしれません。
No.4476 - 2013/11/26(Tue) 07:58:56

Re: / ubik0101
ランタナの花と、実(画像中央上)です。青紫の実は美味しいけど、種には毒があるそうです。種ごと噛み砕く動物ではなく、飲み込む鳥に遠くまで運んでもらう作戦のようです。種を噛まないようにして、実だけを食べてみました。ほんのり甘みです。
No.4477 - 2013/11/27(Wed) 17:53:18

Re: / hato

すっかり冷え込んできたここ数日,冬到来の様子です。

天の川を上から見下ろすようにして,天竜川を西に走り走り,気賀を抜け,浜名湖周遊の小さな旅です。

浜名湖景勝地にて湖を眺め,

二百円の小さな三ヶ日みかんを買って帰りました。

No.4478 - 2013/11/28(Thu) 23:04:24

Re: / ubik0101
大野いもを収穫してみました。ふつうより小さいのでしょうが、種いもを遅く植えたにしては、青虫に葉を食べられたにしては、いいのかもしれません。
No.4479 - 2013/11/29(Fri) 10:59:29

Re: / ubik0101&hato

これは、なぜ、これ?
これが、自我も無我も壊滅させます。

たとえば、あの誰かの言動は自我だ、と思うことがあるとします。多くの場合は、そのように誰かの言動が自我、と思うことが自我の一つの機能です。あるいはそう思うことに、自覚できない自我が現れ、投影とも言いますが、他人事として自覚されるでしょう。

それはおおむね、誰かの言動を自我だと、そう思うこの自分はなんだろう?自我の正体ってなんだろう?これは、なぜ、これ?この疑問の解を暗黙裏に知ってるつもりで、回避して、あの誰かの言動は自我だ、という思考が可能になっているのです。

そこで微かな感覚かもしれないけれど、そういう自分の様子に自分で違和感があり、そのようなことを思考してるその自分は何?という疑問が自発します。このように自分の奥に向かうことは真摯であれば、人の自然の道です。そうでないということは、どういうことでしょう。

この自然の道は、ほかの誰かではなくて、この自分にあってその様子を探査する・・・しかできないこと・・・それで必要十分・・・そのために世界が総て機能する・・・です。ということは、誰かのこと、あるいは、誰かから見た自分のことを探るだけでは、この自然の道を、すでに自分で閉じ回避してるのです。

それは、ああでもない、こうでもない・・ああである、こうである・・・その架空の人間関係の騒がしさに、決して得ることのできないなにか満足を求める、始りも終わりもない限りない迷いと言えます。

それはその人が、そうありたくてそうしてるのだから、ほかの誰には、どうしようがないことです。ほかの誰かのことを、どう探っても空想であり、ただ自分で自分のことを探るのは、空想でない、というより、自分を探る,自分に尋ねることは、空想をも役立たせるのです。

そして自我の仕組みを見てそれから解放されたら、さらに、これはなぜ、これ?・・ない、ということは、ある、ということは、どういうこと?何?・・ということ。これはすでになにか質問ごとでない、姿勢です。

いわゆる自我も無我も、そうでなくてもいいのにそうであり、そのことが壊滅します。たとえば私は世界・・時間はない・・自己、いまここ、神秘。それらは、これは、なぜ、これ?にあって、生き残ることができません。

しかし、しかし、この風は冷たく光は・・・透明な世界です。それは眼を通じてでなく直接に胸に・・・浸透しています。この、これ。なぜ見えるのだろう?なぜ、聞こえるのだろう。なぜ感じるのだろう。なぜ、思考できるのだろう?・・・こんな疑問が、たとえば自我、無我が壊滅すると自然に浮かんできます。

いまここにあって,なぜ,これは,これ?

No.4480 - 2013/12/07(Sat) 22:33:26