[ 掲示板に戻る ]

記事No.4498に関するスレッドです

差の認識。 / ubik0101
なぜ青空が見えるのだろう。なぜ風が聞こえるのだろう。
なぜ寒さが感じられるのだろう。なぜ、こう思考できるのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この庭には、モズが暮らしていて、わりと地面すれすれを飛ぶのを見かけます。冷たい風。明るい光・・・見る、聞く、触る、思考する・・・知覚とは、差の認識です。そこで・・・歩いたり木の枝を剪定したりしながら・・・自分は自分で知覚できないとうよりも・・・知覚され得ない、対象にできないことを、自分、と呼ぶ日常です。

たとえば、どこか秘密の森のアトリエで絵を描く画家・・・ここからは対象にできない、知覚されないけど・・・のことを空想すると、その空想を知覚してます。そこでその知覚の背後で知覚されないことを、自分、と呼ぶのでしょう。と・・・その知覚する背後の自分ということを空想しても、対象にされ得ない、自分、です。

このiMacの画面です。よくポインタを見失うので、動かし始めて1秒だけポインタの周りに丸い虹色が表示されるよう設定しました。Mouse Locatorという無料のソフトです。

No.4481 - 2013/12/12(Thu) 22:21:11

Re: 差の認識。 / ubik0101
そのようにどうしても自分は常に対象ではない、鳥ではない、風ではない、光ではない、感情ではない、思考ではない・・・なんでもない・・・透明・・・これはしかし関係であり、鳥と、風と、光と、感情と、思考と・・・自分・・・とても繊細な踊るような距離、ズレ、があって、可能なようです。

そしてまた、鳥も、木も、特定の個別のこととしては対象になりません。なのに見えたり聞こえたりする不思議。とくに風、光・・・空間も時間・・・も、対象になりません。自分も対象になりません。これはどこか戯れのような関係にあるのでしょう。もし自分が鳥なら、風なら、光なら・・・と言うより自分が世界なら・・・現象として世界が自分に飛び込んで来たら・・・世界は消えます。

・・・(ほかの掲示版への1年くらい前の投稿)・・・


どう何を書こうとの計画があるわけでもなく、
いつもよりも混迷を深めるかもしれません、が始めてみます。

カレンダーはCrisCalenで、時計はQuarsClocks、
どちらも無料のソフトです。

(この絵の男女は,向う向きにも,こちら向きにも見え,しばし注視してしまいます。hato)

No.4482 - 2013/12/12(Thu) 22:28:53

Re: 差の認識。 / ubik0101
たしかに世界が自分なら、まったく知覚不能で、知覚にとっては、世界も自分も消えてしまいます。これは均質のことは知覚がそこに生じない、からでしょう。また、この日常では、自分で自覚できない自分に、知覚できる世界が・・・見えたり聞こえたり・・・現前する、で。知覚とは、差の認識、です。

(そうでなくて見えたり聞こえたりの知覚がある場合に言われる、私は世界、とは。知覚の届かない空白・・・未知・・・に取り巻かれた見える聞こえる・・・既知・・・知覚の範疇です。未知の海に浮かんでる既知の島です。未知と既知の分離です。ここでは総てが私であり、その私は知覚できることによって生起してるだけで。私に知覚できないことは、ない、ことだ。という誤りが生起する・・・それは自意識の限界、です。)

話を戻します。たとえば、《あの誰かの言動は自我だ》という思考の背景に・・・自我の正体が何かを、暗黙裏に分かってるとして実は分かってない・・・そんな知覚の対象にはならないことがあって・・・それを背景にして、その前景に、知覚の対象として、たとえば《あの誰かの言動は自我だ》という認識が可能です。

などと言ってる、この思考の背景、それは、まったく何も、ない、です。こう思考してる自分は自分で知覚できないという意味で、そうです。くり返しますが、これは自分で自分を知覚できない、そこにあって、見えたり聞こえたり,思考されたりの、知覚される、日常ということです。

スクリーンセーバーは、画面いっぱいにも数字を大きくできる、
ぱたぱた時計のFLIQLOです。これも無料です。

No.4483 - 2013/12/14(Sat) 10:41:25

Re: 差の認識。 / hato

師走という,12月。寒くなりました。

昨日は幼馴染の誕生日で,どうしてか,必ずその日に思い出して「今年もひとつ,年を重ねましたね」,と簡単に近況を伝えあいます。わたしの誕生月の頃には必ず,もうふた昔以上前から,思い出したように手書きのカードが届くのです。

結婚したり,子供ができたり。隣人,学校,仕事,祭り。日々出来事は,とりとめない泡沫のように起きて過ぎるようです。

お弁当はときどき頼みます。一口頂きかけですが,今日は,桜の花びらの塩漬け,柚子の香り飯。ほんのり初春の味,一足お先にいただきました。

No.4484 - 2013/12/15(Sun) 22:35:19

Re: 差の認識。 / ubik0101
ここで、探ってみませんか?あなたは、ない、を知覚できるでしょうか。どうでしょう?いくら真剣に頑張っても、なぜ知覚できないのか?とか、探ってる思考は知覚できるだけで、ない、そのことは、知覚不可能ではないでしょうか?

つまり、です。ない、は、ない、を認識できない、です。つまり、です。自分は、ない、ので、そこになんの差もない、ない、そのことを認識できない、です。

いろんな立ち位置があります。自分の立場、根拠という意味ではなくて、たとえば歩いてると見える風景が変わります。そして風景を見るためには風景との距離、差をつくるための視点を要します。ひとつの立ち位置では、こういうことです。

No.4485 - 2013/12/16(Mon) 09:51:01

Re: 差の認識。 / ubik0101
さらに探ってみます。あなたは、ある、を知覚できるでしょうか。ここで言う、ある、とは。それが、それの原因である、ある、です。第一原因、実在、神とも呼ばれる、ある、です。絶対の、究極の、ある、です。これは、ある、を空想できるとしてその空想してることを知覚できるとしても、ある、そのことは、日常では知覚できない、のではないでしょうか。

これは自分は、ある、と差がないから知覚できないのだとして、ならば、私は、ある、ということでしょうか。または、まったく差がないほど完全に違うから知覚できない?ということでしょうか。つまり完全に差がない、完全に差があるということは、ある、でも、ない、でも知覚できない、という意味では、等しい、です。

くり返しますが、ない、が知覚されないというのは、私は、ない、からです。と、完全に、ある、からです、です。知覚にとってはですが、ある、も、ない、も知覚不可能という意味では、等しい、ということになります。それは、なぜでしょう。

ふつう日常では、ここに時計が、ある、と言われます。それは時計が時計として機能してて、それがそう知覚される、という意味です。これが日常での、ある、の定義です。それは、体験としては縁起・・・思考としては因果・・・相互依存・・・で説明できますが、この世界は、絶対の、ある、でも、絶対の、ない、でもない、ので知覚できる、です。

(ミッキーマウスは、生まれてもいなければ、死にもしません。だって、それはウォルト・ディズニーの空想なんだから画面の中で、歌ったり踊ったりするのですが、生きても死んでもいません。で、ウォルト・ディズニーは、生まれてもなければ、死にもしなかった、のでしょうか?)

こんな、あるでもないでもない世界、それが人にあって完全に活性すると、絶対の、ない、ある、は体験され得る、です。つまり人は、ある、ない、を凌駕してるのではないでしょうか。でないと、知覚するということが、できないのではないでしょうか。

No.4486 - 2013/12/18(Wed) 20:50:37

Re: 差の認識。 / hato

たしかに絶対の,ない・・ある・・は経験され得るのです。

或はそれを見た人はどうしても,なにがなんでもそのことを,究明せざるを,あるいはされざるを・・得ないのです。

そのとき,まったく,この意識でもあの意識でも,ないところで人は,それを知覚,見,あるいは見られます。

人は,その意味で世界を超えるしかないかのように

ただそうなのだとしか,言えないのです。


今年の春,掛川のとある田園カフェで,美味しいスープと手作りパンを食べ,珈琲を飲みました。

No.4487 - 2013/12/21(Sat) 00:25:12

Re: 差の認識。 / ubik0101
たとえば、いまここ。それは、とても単純なことです。けど、あるいは知覚の働く、いまここと、そうでない思考してる様子と較べたりして複雑に。あるいはなにか無思考の境地のように言われたりしますが、ふつうのことです。それを一つのケースで説明してみます。

たとえば花を植えたり、野菜を煮たり、そのことを、いまここ、と認識したら、認識された、いまここ・・・庭作業とか料理・・・とは、いわば違う時間線に切り替わります。そこで、あの畑作業とか料理の、いまここは、いまここであって、それをいまここと思考してる、このことは、いまここではない。という感覚が生じます。

これは、あの、いまここ、は思考以前の知覚だけが機能してた・・・この、いまここ、には、いまここ、という思考の要素がある。という誤解を生じます。でも実際は、あの庭作業とか料理の、いまここ、にも思考は、もちろん無思考も、まったく問題にならずに機能してる、です。

ただそのことを改めて対象にして、いまここ、と命名したその自分を注視してるので、あの、いまここから外れた、と思ってしまう、です。しかし、それも、いまここです。それは、いまここ、と認識するために、あのいまここと時間の距離をつくって、認識できるようになるのですが、それはそれだけのことです。

くり返します。なのになぜか、いまここという思考、あるいは、なにかの思考をする。あるいは、いまここであった自分を対象にすると、そこで思考の有無が問題になってしまい、知覚の機能だけが働いてる、あの、いまここ、を尊重する、ということになる。その必要はないです。

No.4488 - 2013/12/23(Mon) 07:58:14

Re: 差の認識。 / ubik0101
それは認識するためには、ここでは、あのいまここと、このいまここに、時間の距離を要するということでもあり、却ってその思考する時こそ、また世界は新しい相で現前します。

この12月の朝、その冷たい風を知覚するということは、知覚できない自分の体温との差の認識。あの遠くの山々を、このように見るためには、こことの距離を要するということで。知覚が時間と空間に距離を要する、思考とは知覚で距離を要する、ということです。

そこで・・・なにか思考しただけで世界が変わってしまう。なにか、あるいは一瞬前の自分を対象にしただけで世界が変わってしまう。どこかの掲示版に投稿しただけで、しないだけで、隣の人と挨拶して立ち話するだけで、空に飛ぶ鳥を見るだけで、世界が変わってしまいます。

たとえばこの投稿を読んで、そうなんだ、とか。間違ってる、とか。自分とは違う、とか。結構複雑、とか。なーんだ、つまんない、興味ない、とか。そう思っても思わないでも、そこで世界は変わってるのです。

これで無問題です。これはその背景に、自我無我、迷悟、苦悩平穏、あるない、に拘らないことを要するかもしれません。いまここ、は、いまここ、に、あってもなくても、構いません。なにか特定な,特別な、いまここ、なんてないです。

そんな、この世界は軽い・・・けろろん、としてる・・・のです。たとえば庭作業、料理、歩く,話す、過去のことを思考し、未来を空想する、そのことになんの問題もでようがないです。

マスクメロンは糖度が17度くらいだそうですが、糖度が30度になるというイチジク、ヌアールド・カロンの苗を植えて、防寒のために近くの田んぼから貰って来た藁を敷きました。

No.4489 - 2013/12/23(Mon) 08:04:30

Re: 差の認識。 / ubik0101
ここ2年ほどかけて、庭のあちこちから集めて、桜の木を丸く囲うように植えた水仙が咲き始めました。
No.4490 - 2013/12/23(Mon) 11:57:01

Re: 差の認識。 / ubik0101
その桜の木の元には、鳥が運んだのでしょう、万両が赤い実をつけています。
No.4491 - 2013/12/23(Mon) 11:58:45

Re: 差の認識。 / ubik0101
ほかの言い方では・・・このように指がキーボードを打つ、文字の映る画面が見える、窓からの光熱、呼吸、思考、ということが、ある・・・それがそう機能していて、そう知覚される・・・だけです。どこにも、いまここは、ありません。いまここ、というのはそれらの抽象概念。命名された幻想です。

こういう言い方では、時間もありません。世界もありません。それは命名です。しかもそれは、歩く、走る、見える,聞こえる、思考する、呼吸、空気、光・・・そんな、ある意味よく知ってること、ある意味なにがなんだか知らないこと、ないまぜ既知未知を、時間とか、世界とか、そう呼んでるだけです。

ここで提案です。たとえば知覚の届く範疇を仮に、既知、と名付けます。知覚の届かない範疇を仮に、未知、と名付けます。そして、そのことが明確に認識されずあることを、暗い未知と既知の分離と呼ぶとして。そこで、それが明るく既知、未知の分離が明確になってなお・・・また既知=未知であってなお・・・私は世界・・・は認識としても成立する?でしょうか。

No.4492 - 2013/12/26(Thu) 09:54:03

Re: 差の認識。 / ubik0101
ところで、知覚は受動的です、見ようとしなくても、聞こうとしなくても、すでに見え,聞こえています。ここで、見よう、聞こう、としても、見え,聞こえます。つまり、受動でも、能動でも機能します。思考もそうです。さらに、知覚はそのようだとして、行動はどうでしょう。この関係を見てみましょう。

たとえばキーボードを打ちます。スコップで庭を掘り苗を植えます。これは能動でしょう。でも、絶対に?それはただ自分ごとではなく世界の働きに乗ってするのであれば、受動とも呼べるのです。能動、受動、その判断も曖昧です。

また、能動、受動、どちらかだけ、ではそれはない、です。これは線引きはできないけど、それが明確でなければ。そこで受動は無我、能動は自我、という暗く隠れた判定基準が、その人の経緯として、機能するかもしれません。。

No.4493 - 2013/12/26(Thu) 09:59:44

Re: 差の認識。 / ubik0101
ここで、知覚は受動、行動は能動。このように曖昧なまま分離が暗く偏ると、たとえば知覚からの直接行動、という姿勢が起きたりします。それは知覚は受動、行動も受動でありたい、偏りの姿勢かもしれません。それはもちろん、さまざまな立ち位置で、まんべんなく滞らなければ、そのようにありたいことの問題は生じません。

そのように、知覚と行動の、受動と能動を明確にしたら、いまここ、という認識の成立が必要か?それを試してみるのもいいかもしれません。つまり、受動と能動の分離。あるいはその分離を明確に見たならば、いまここ、という認知そのことが生じるでしょうか?

このように見ることは。どこからでも、なにからでも、始めれば、正確に、それがそれを開示します。このふつうの日常、このようなこともなにもないところから、始めているのです。説明すれば、総てがあるゆえに、どんなこともない、透明、そこから、です。

No.4494 - 2013/12/26(Thu) 10:04:48

Re: 差の認識。 / ubik0101
もちろん人は、知覚からの直接行動、しかしていないのです。なんでもいいですが、誰かから馬鹿にされたとします。それで怒る、とします。これは、馬鹿にする誰かを見て、怒るという行動を起こしたのです。思考するということも同様です。

なのに、ヤカンが熱っ。転んだ子供を思わず助け起こす、そんなことを知覚からの直接行動だとすると、思考することは知覚からの直接行動から外れると見なし、そのことで知覚からの直接行動とは、なにか思考のない?特定のことだと設定されてしまいます。

ただそこで。たとえば怒りの、その奥になにかの理由が設定されてるのか?ということを探るのかもしれません。すると、その設定は、威嚇、攻撃、自己顕示、叱咤激励、愛情表現、たんなる習慣・・・人の数だけあるでしょう。馬鹿にするほうの理由も、星の数だけあるし、たとえば共に愛情表現ということもあり得ます。

そしてなお、両者の関係は、馬鹿にする,怒る、怒られるの関係でしかない、というわけでもないのです。尊敬するとか、誉めるとか、友達とか、親子とか、恋人とか、こんなあまりにも、取り留めのないことに迷い込んでしまう必要もありません。そのへんは何だっていいのですが、

それでも人は、それなりにすることで失敗だらけでも、真善美を求めるようです。これは自分がそうしたくて、そうする理由は自分に見つかりません。それはこの世界、それは、なにがなんだかわからないけど、これが、そう望んでるのだと思います。

No.4495 - 2013/12/26(Thu) 17:42:34

Re: 差の認識。 / ubik0101
ついでに・・・2、3の掲示版くらいしか見ないのですが、なぜか思考を悪者にする向きもあるようです。たぶんですが、ああでもないこうでもない、という思考の葛藤を自我と見て、それさえなければ、自我がないと空想してるのかもしれません。

そんなに思考に責任を押し付けて自分は逃げてはいけません。思考が問題、と言ってるのも思考です。そうでなく、どんな思考があろうとなかろうと、自我なら、自我。自我がないなら、自我がない、です。それに、自我も無我も壊滅するのが自然の道です。

たとえばなにか他の人の思考、言葉で、なにか心理的に傷つくのが嫌なのでしょうか。また自分の思考が汚くて、大声で騒ぐので、それが嫌で傷つくのでしょうか。でも、いくらでも傷つけばいいです。

その傷をどこまでも引き受けること。自分の奥まで浸透させること。そうすれば傷それは速やかに治癒され去るとか。忍耐力、金剛力がつくとか、なんの期待することもなく、どんなことにも助けを求めず、たった1人で、です。これは姿勢です。

あるいは、劣等感、疎外感は、自分の無意識への通路でもあります。これは人にそう用意されています。また、たとえば思考は悪者、というそんな先入観があれば、そいうその自分に自分で切り込むこと。ひとつには、これを生かさない手はないと思います。

赤ネギです。土寄せが浅かったので短く、たぶん肥料も遅かったので細いようですが、鍋です。

No.4496 - 2013/12/28(Sat) 09:13:07

Re: 差の認識。 / hato

赤ネギを入れた鍋は,豚しゃぶでいただき,神奈川からきた母に好評でした。

この白ネギは,先ほどの晩ご飯に,はた鍋にしていただきました。

年の締め括りのお魚は,ubik0101パパの見立てで,はた,と,こち。
はたもこちも,プリプリした肉厚の刺身が大変美味でした。

No.4497 - 2013/12/31(Tue) 22:38:56

Re: 差の認識。 / hato

山の上の青い空に,栴檀の白い実。

年末の寒波冷えを,静岡でも感じます。

No.4498 - 2013/12/31(Tue) 22:40:56

Re: 差の認識。 / hato

ubik0101さんが植えてくれた,

おたふく南天の朱がきれいな,今日の庭景色です。

No.4499 - 2013/12/31(Tue) 22:42:59