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記事No.4514に関するスレッドです

なんでもないこと。 / ubik0101
この部屋にいる、外の鳥を聞く、つまり知覚する、歩く、話す、行動する。怒る、心配する。思考する、それ、そのことに、それに依存、執着できないようにできてる機能があります。と言うより、それに執着できない機能こそ、歩く,話す、思考、見る聞く触る。怒る、です。

まずは・・・なんでもいいですが、たとえば、思考は過ぎ去る、と認識すると、それを支える、どこか空想の誰かの思考の執着状態が、どこかに現れます。総てはひとつ、と認識すると、それを支える、どこか空想の誰かの分離状態が、その背景に現れます。と一応してみます。

いまここ、と認識すると、いまここではなくどこかに、それを支える、過去未来、心理的思考が現れます。善を認識すると・・・自分とは関係ないこととして、どこかに・・・それを支える悪が現れる。と一応してみます。

No.4501 - 2014/01/26(Sun) 11:37:01

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
そうだとして。それはなにかの認識、思考が、その反対の認識、思考と対になって・・・たとえば青色を見るとその背景からはみ出してきたように、透明に輝く黄色が現れる、そんな補色関係のように・・・その認識、思考を反対の思考が、それを強化、支えてるということです。

しかし、それは悪は隠れてるとしてもそんな悪に支えられて現われてる善は、善ではありません。いわゆる心理的な時間、葛藤、苦悩に支えられた、いまここは、いまここではありません。分離に支えられた、総てはひとつは、総てはひとつ、ではありません。自我に支えられた無我は無我ではありません。と一応してみます。

これを解決するには、なんでもいいですが、総てはひとつ、いまここ、善、無我、そんな認識、思考、真理、事態、を捨ててしまえばいいのです。と言うより日常に特に何もないことを見るだけでいいのです。それは赤でも緑でも、金でも灰紫でもなく、透明です。これほど簡単なことはないです。

No.4502 - 2014/01/26(Sun) 11:39:06

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
この、なにもかも忘れたところで、たとえば善であることができるでしょうか?つまりです。善を忘れたところで、善でなければ、思考としての善は捨てられないでしょう?善を忘れたところで善であれば、思考としての善は、忘れていられるでしょう?

そうです、もちろん忘れる、失って、大丈夫。善の思考は壊滅していいのです。なぜなら、思考は・・・たとえば善悪の思考のあるないと・・・その善悪の事態とは無関係だからです。これは人が善なら、善という思考がなくても善です。善という思考がなければ悪。ではない、です。

もちろん無我、真我も同様です。いまここも、総てはひとつも同様です。そのように思考には、なんの根拠も、人を縛る能力もありません。もしなにか思考が人を縛る、問題だ、と言うなら、そいう人は、そいう状態だ、ということしか示しません。それも思考がその状態と関係ないから、自然にその人が気がつかないほど自然に、そう示しています。

No.4503 - 2014/01/26(Sun) 11:49:39

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
また、思考は前提を要する、予め破綻していなければ生起しないのです。と、してみます。それも思考そのことが、それを示します。なんでもいいです。なにか思考したら、それをどこまでも広く適応します。ふつうなにか思考したら、それは芋蔓式に繋がるでしょう?あるいはあちこち飛び火するでしょう?

そこで、そんな思考を止めるのも、ただ流すのも一興です。しかし、思考の広がる性質を逆手に取って、いつもの思考の行動半径を超えて、もっと積極的に広く展開するのも無駄ではないです。なにかの思考が生起したら、ありとあらゆることに適応してみるのです。

なんであれ、無我でも、自我でも、私は世界でも・・・なにかの意見を判断を表現を、善とするなら真理とするなら、ありとあらゆることに対して、それの意見、判断、表現が善と見なして真理と見なして適応し展開するのです。それでどこまでも押し通してそれを見るのです。

No.4504 - 2014/01/26(Sun) 12:02:31

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
なんでも、いまここで。なんでも総てはひとつで。なんでも愛で。なんでも、無我で。なんでも縁起で、整合性を付与してしまうことは・・・矛盾があるかもしれないし・・・またできもするでしょう。でもそこでは、そいうことの思考、表現そのことはすでに壊滅してるのです。

ところでまた、その思考をその思考自体に適応します。なんでもいいですが、いまここという認識は、いまここでしょうか?いまここに、いまここという思考はあるでしょうか?善という思考は善でしょうか?総ては一つ,という思考は?自分はない、は?すると、あるいはYES、あるいはNO、との結果が得られるかもしれません。そのことの意味を探ってみます。

そしてまた、その思考の由来を探ってみましょう。くり返しますが、どの思考でも、その思考はその事態を現さないのですが、その背景に、それを思考するその人の事態は現してる。あるいは思考がそれを見る人の視点をつくってる、ともいえます。そこで、たとえば思考が問題だ。と言うのは、そう言う人の状態を示します。

No.4505 - 2014/01/26(Sun) 13:01:57

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
ならば現れた思考の陰で見えない事態を探る、その思考の奥を、積極的に探る、暴くのです。そこでは思考が狭い範囲でしか整合性がない、つまり不整合、破綻の上でしか働いていないことに気がつくかもしれません。つまり、なにかの思考を広く適応しても、その思考をその思考に適応しても、その思考の由来を探っても・・・思考は思考を維持できず雲散霧消します。

けれど、そして思考は知覚です。眼を開けていれば山や樹が見えるように、思考は見えるというだけです。山や樹に問題がないように、それそのことに何の問題もないです。問題とするなら、美しくない山や樹に、あるいはそう見る人に。つまり美しくない思考に、そう見る人にあるのかもしれません。

あるいは、善であって,善という思考は、まったく誤らず善だ、ということがあるでしょう。それは思考が、その事態と関係ないから、そうあることができます。そのように思考は根なし草なのです。そこで自由という言葉の厳密な意味ではありませんが、思考はその事態からも自由なのです。それで・・・世界の活動の総てが必要ですが・・・善であって善が認識できるのです。

No.4506 - 2014/01/26(Sun) 13:35:11

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
ところで苦悩による思考、あるいは思考による苦悩、そいうことは現れることはなく、ないことが気がつきもしないのが日常です。問題がないことにも気がつかないのが普通ではないでしょうか。そこでは、その人が望まない限り、葛藤や苦悩はあり得ようがないとも、言えるのです。もしかして人はなぜか好んで苦悩するのです。

たとえば経済状態とか、人間関係に不満だとします。それなら、いまの状態、あるいは過去、未来の状態が一般的には好ましくなくても、好ましくても、なにかには不満なのです。つまり、もっといい状態、環境になったら不満は消える。と、いうのは空想妄想幻想です。それが苦痛とも言えます。

どんな状態、環境でも、不満なら不満。その不満は、その人が望んで、なにもなくても空想してさえつくってるのです。それはおおむねですが快不快、損得、好き嫌いに従属してるのです。でなければ、なにをしてもしなくても、農業でも漁業でも、社長でも窓際でも、教師でも学生でも、医師でも、患者でも・・・なんでもない・・・です。

No.4507 - 2014/01/26(Sun) 13:55:44

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
さらに。思考には、その思考が空想か、事実かを判定する機能が付属していません。それでなんだかの思考が空想か?事実か?それを判断する思考さえ生起しますが、そのことにもその正誤を判断する機能はありません。そのためには人の日常が、経緯が、必要です。それが、なんでもなさ、です。

この何でもなさ、これは最初からだとか、あるとき獲得するとか、そんな何でもないから、それは始りも終わりもない、もないのです。国破れて山河あり、の山河があるわけではないところです。なんでもいいけど、見る、聞く、話す、働く・・・それ、そのなんでもいい、そのことに、それに執着できないようにできてる機能。歩く、笑う、走る,話す、思考する、そのことが解脱です。

たしかに思考も事態も、それが何であるか、誰も知りません。この説明そのことも、それが説明になってるとしても、それがなぜ説明なのか、知りません。かなりの長文ですけど、ここで特に何かを言ってるというわけではないです。日常が、なんでもなくある、そのことです。

No.4508 - 2014/01/26(Sun) 14:06:55

Re: なんでもないこと。 / hato

静かに楽しかったお正月の,一月。気が付けば,まだその一月で,なにかゆったりと過ぎてることに,嬉しくなってしまいます。

東京の仕事でお世話になった年長の先輩や,十代の頃の,懐かしい知人とやり取りがあったりと,今年はそんな年の始まりでした。

トネリコの木は,この辺りの風土に合ってるらしく,みどりの庭にたくさん植えられました。

画像は,この部屋のすぐ前のトネリコ。

一等はじめに2人で,ツルハシを使い,瓦礫で固められた家の基礎を掘り(昼間なのに火花が散りました),大きな石を取り除いて,植樹しました。

そんなちょっと忘れられない,大事な思い出の,トネリコ。自分たちの胸ほどだったのが,もう少しで,屋根の下端につく頃です。

No.4509 - 2014/01/26(Sun) 21:01:18

Re: なんでもないこと。 / ubik0101&hato

このトネリコは,神奈川のアパートの,玄関で,ヤブラン,ワイヤープランツなどと一緒に鉢植えにしてたものです。こちらに持ってきて,そのまま,庭植えにしました。

わさわさに茂って,とても姿がいいと思います。

ubik0101

ちょっと角度がむつかしく,この画像ではわかりにくいのですが,本当にきれいに球形に茂っています。背後に見えるのはシュロの木です。

hato

No.4510 - 2014/01/26(Sun) 21:14:40

Re: なんでもないこと。 / hato

たぶん樹齢50年近い,桜の木です。ここのところ,台風が激しいため心配ですが,この木もどの木も,元気にいてくれたらいいです。

ubik0101さんが,まるく囲むように植えかえてくれた日本水仙が,香りよく満開の冬の日です。

No.4511 - 2014/01/26(Sun) 21:50:32

Re: なんでもないこと。 / ubik0101&hato
もっと簡単に言えば・・・もしあるなら、悟りも迷いも、自我、無我、真我も捨てる。分離も、総てはひとつも、善も悪も、賢も愚も、いまここも捨てる。既知も未知も、捨てる。ということです。それが、総て、です。
No.4512 - 2014/01/28(Tue) 08:18:50

Re: なんでもないこと。 / ubik0101&hato
前に聞いた話です。いろいろな人・・・つまり学生とか、サラリーマンとか、主婦・・・衆生とかに説教します。そうではなくて説教するのなら、仏教の祖である仏陀に説教するように説教するのです。と、ある坊さんが言います。

なんか納得できる話です。けど、そこで仏陀を対象にしてるなら、対象なしに説教するのです。あえて言えば説教する自分と説教される目前の、空想の、誰かとかいうことでなく、そんな認識が生じないで、です。

そのように誰かに話すのではなく話す、話を受け止める誰もいないで話す、そのように思考するなら、それは説教でもなく、どのように始めても、自然に探求、見ること、です。自分との対話でもない、思考に任せる思考・・・思考は知覚です。

No.4513 - 2014/01/28(Tue) 09:45:00

Re: なんでもないこと。 / ubik0101&hato
うーん、売りさばき所、て看板。なんか変な感じがしました。
No.4514 - 2014/01/28(Tue) 13:24:59

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
ふと、思いました。どんな思考も総て正しいとされる、です。たとえば樹を見ると、それを見てる視点が設定されてる。なにか思考を見ると、その見ることで、それを見る視点が設定されてる、ということでもあります。

ということは、その視点は、その思考によって生起してるのですから、どうやっても、その思考を否定不可能です。たとえ空想、事実無根であっても、誤っていても、思考は視点の源ですから、視点にとって正しいというわけです。こんなことが思考への依存です。

No.4515 - 2014/01/29(Wed) 22:37:49

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
世界時計

たとえば世界が時計で、自分が歯車なら、ほかの部品と一緒に機能していてるのですから、自分は特定の個別なこととしては、ない、と感じるでしょう。それで時計から歯車である自分を取り去ったら、また隣の歯車を取り去ったら、それは時計でなくなる。歯車も、電池も、文字盤も、針も、それぞれの自分がなければ時計はない、と感じるでしょう。

つまり自分があるから時計がある。また、ほかの部品があるから時計がある。みんな絶対です。そして時計そのことはなくならないから、何もなくなるものはない。自分は部分でもある、全体でもある、世界は関係の運動、と思考することもあるでしょう。

そしてなにか時計が故障してスムーズに機能しなくなったら、部品は不具合を感じて、その不具合さゆえに自分は、ある。さらに時計が故障して止まると、自分は、ない、そのように感じることもあるでしょう。また、たとえば歯車や電池を取り去ったあとの空虚、それを、ない、と呼ぶこともあるでしょう。

また電池の電気、それは見えないから、ない、と。その時計を組み立てた技術者、それは時計の内部にはありませんから、ない、と呼ぶことがあるでしょう。そして時間は、部品たちの運動であり実際は時間はない、秒針はその表現。とすることもあるでしょう。そんな・・・あるも、ないも、捨てる。ついでに捨てることも捨てて、2重否定で一件落着?

No.4516 - 2014/02/01(Sat) 21:35:13

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
おおむね人間関係の苦痛は、快不快、損得、好き嫌い依存ではないでしょうか。それは自他があれば対立が起きるように設定されているようです。そこでなお、嘘を言わないこと、優しくあること、規律を守ることなどは、苦痛に逆らって、なお公平さなどを培います。

しかし、それが実現されたなら、みんな違うも、みんな同じも、自他がないも、あるも、不平等も、平等も、公平も、不公平も、捨てて大丈夫です。もちろん卑屈も傲慢も、守るも攻めるも、守らないも攻めないも、希望も絶望も、戦争も平和も捨てる、で。世界は穏やかです。

No.4517 - 2014/02/01(Sat) 21:45:12

Re: なんでもないこと。 / hato

今年は,それぞれの仕事の合間に,身体を温めに,数百円で入れる山間の,とある温泉に行きます。

その山に入り,登り行くたび,しんとした景色に静かさを思い出し,そんな穏やかな静かさが心底はなやいで,うれしいのです。

いつもの約束で,それぞれ一時間ほど湯に浸かり,たいてい,美味しい牧場ミルク味のソフトクリームや,そのあたりでおいしい,蕎麦などを食べます。持っていたみかんを食べるときもあります。

そしてあちこち用事をすませながら,緑や鳥や,猫たちの待つ家に帰ります。

No.4518 - 2014/02/01(Sat) 23:11:57