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記事No.4608に関するスレッドです

背景。 / ubik0101
もし幸せでありたいなら、ああでもない、こうでもない、と・・・できないこと、できるかもしれないことを100億も思考するのではなく、ただ、できることをすればいいです。たったひとつ目の前の、このできること・・・たとえば庭の草むしり・・・それだけが幸せの秘訣です。

そうすれば、そこで目の前にない見えない100億のこと・・・この世界の総てが・・・たったひとつのできること見えることの背景で、それを支えていると言えば言えます。

たとえば1人あること、そうすれば、この自分の背景に隠れたまま、世界の総てが機能してます。そして、こう思考してもその思考は持続できないし、実際は認識できないことです。

No.4603 - 2014/05/04(Sun) 10:06:35

Re: 背景。 / ubik0101
たとえば嫌いな人がいるとします。その相手からも、嫌われたくないでしょうか?その相手からも、いい人と思われたいでしょうか?そうです。

このような好きとか嫌いとか、損とか得とか、快とか不快とか。それが互いに組になって、獣を捕まえる罠の歯のように人の足に噛み付き繋ぎ止めます。あるいは自分ですることを自分で邪魔してるとも言えます。

なにかを嫌いなら、それだけでいいです。それを補償しようと、でき得そうな、その背景、できない100億のことを探る必要はありません。

たとえば屈辱を受けたなら,そのままでいいです。馬鹿にされたなら、嫌われたら、そのままでいいです。それで不満でも、それを解消しようとすることなく、そのままでいいです。

No.4604 - 2014/05/04(Sun) 10:07:41

Re: 背景。 / ubik0101
まあ、誰かを馬鹿にすること、嫌うこと、それさえ、そうするその人の経緯です。ある意味その人の役に立っています。馬鹿にされたら、嫌われたら、馬鹿な人として、嫌な人として、そのまま受ければいいです。

なにか好きなことも、どちらでもないことも、そのままです。そして、それも自分の、経緯です。それは空想の人間関係にいるわけではなくあります。

それは説明すればそうなのですが、それはそうだと探り思考してもその思考は維持できないし、実際は認識できないです。そして認識できたとすると総て空想です。

たったひとつのことをすれば、100億のできないことがそれをその背景で支えてる・・・1人あることをその背景で世界が支えてる、というのもそんな空想です。

No.4605 - 2014/05/04(Sun) 10:10:21

Re: 背景。 / ubik0101
つまりなにかの背景は探ってもいいのですが、実は、ない、に等しいのです。それでもたとえ同じ行動をしても、おなじ思考をしても、おなじ発言をしても、たとえば自我は自我。無我は無我です。

たとえば同じ《おはよう》と言っても、自我の挨拶なら自我です。無我なら、無我の挨拶です。ここにこの見えない背景に違いがあると、言えないことはないです。しかし、自我もなければ、無我もない、です。どうでしょう?

ここは背景はなく、見えたことしかないです。そして知覚しかない、もないです。と、このようなことも説明概念です。たとえば思考、葛藤、時間、因果、自我、輪廻、分離・・・からの解放。

そんなことは、説明の様式であり、その経緯を誰もが辿る必要はないです。それにそいうことが、たとえば思考、葛藤、時間、因果、自我、輪廻、分離が、なぜ、それは、それ、なのか誰も知りはしないのです。

No.4606 - 2014/05/04(Sun) 10:12:10

Re: 背景。 / ubik0101
それを知ったこととして一応、たとえば思考、葛藤、時間、因果、自我、輪廻、分離を概念として説明でき得るとして、演繹してるに過ぎません。それは見えること、です。そしてそこで思考されてない、見えてないことは、総て見えないのです。

こんな関係が意味を成立させてるかのような気にさせるだけで。ただ見えることを、なにか意味ありげに、見てるだけです。その背景は、説明すればですが、あるとも言えない見えない空白です。

ところでなにか守られてる感じ、悪いことは起きないと感じる人がいるそうです。縁起、のことを思考すると。その外れようのない中道にあって、人は世界を、なんだか慈しむ、愛しむ感じ、世界から慈しまれてる、愛しまれてる、というより、ただ慈しみ愛しみがある、そんな感じがあることがあります。しかしそれも、縁起を見ないなら、なんだかの信念、信仰のように人を制限するかもしれません。

No.4607 - 2014/05/04(Sun) 10:13:52

Re: 背景。 / hato

春の風を楽しんでいます。

今日の庭景色は五月晴れにキラキラ光り、

美しい風情です。

No.4608 - 2014/05/04(Sun) 10:24:12

Re: 背景。 / ubik0101
一人あることの説明。。たとえば慈しみ,憎しみは、傲慢、卑下は、苦と楽は、組になってる感情ではありません。たとえば淋しさとか、不安とか、恐れとか、怒りとか、さまざまな感情があります。そのなにかとなにかを組として見るのは、それなりの理由があるのでしょう。

たとえば砂糖の味と塩の味は、逆の味ではありません。旨さと不味さは逆の味でしょうか。渋さ、苦さの逆はなんでしょうか。赤と緑は補色関係ですが、逆の色ではありません。しかし、それは対として見え、組として思考するのは、それなりの意味があるのでしょう。

たとえば好きと嫌い、快と不快、損と得。どちらか見えることが、ほかの見えないことを根拠にして、互い違いに支え合って、それが組である構造を成立させています。それはすでにほかのあらゆる感情などを排した、その狭い範囲でのことです。その外の広いことは度外視されています。

No.4609 - 2014/05/13(Tue) 08:25:10

Re: 背景。 / ubik0101
なんでもない好きや嫌いが、この組になることで、互いが互いを互い違いに支え合って、そのほかのことを見てないだけ集中され、強調されます。そこに埋没してると、その関係が見えない、見えないからその構造が、ない、のではなくて、見えないでもその、見えないその構造に縛られてる、葛藤ということです。

また善悪、優劣、自由不自由、幸福不幸、なども同様です。たとえば悪を見て、その背景に見えない善を、あるいはここにない善を、架空の善を、その支えとして思考しているのではないでしょうか。

そしてその見えない善を、ここにないどこにもない善を、同じように見えない私の背景にしている、同一化してるかもしれません。それは悪に支えられた善であり、善ではありません。

そしてそれは空想の人間関係というフィールド、背景で立ち上がっています。そしてそうであるためには思考が運動する、架空の時間、空間を要します。そのようにしてほかの人の好きと嫌い、快と不快、損と得などに依存してることです。それは人が自分ではなく、根拠にできない他人とか社会を根拠にしてるという不可能なことをしてるので、苦痛でしょう。

No.4610 - 2014/05/13(Tue) 08:25:56

Re: 背景。 / ubik0101
それは誰かほかの人がそうしてるのではなく、その人がそうしてるのですから、自作自演の葛藤とも言えます。また世界がそのように人を隔離して、揺りかごの中で育てている、とも言えます。いつまでもそこにいる必要はありません。

一人あることは、そのような葛藤などの思考が起きる空想の背景・・・世間とか、社会とか、呼ばれること・・・がないということです。その背景がないので、思考による組、葛藤などは起こり得ないということです。この、ないということは、捨てられている、ということです。

そして捨てられてるということは、たとえば問題集が解かれ、問題としての機能を失ってる、自分の経緯になって、本棚や押し入れに仕舞われ見えなくなってる、ということです。料理が食べられ、自分の血肉になって、見えなくなってる、ということです。この意味で人は総てを捨てます。

No.4611 - 2014/05/13(Tue) 08:27:13

Re: 背景。 / ubik0101
しかしなお、この風光、遠くの山、花、鳥、これ、この静かさ、幸せ・・・神秘・・・です。もし人が一人あって、孤独で淋しいなら、それは意識するしないは別に、人が空想の人間関係にいる・・・見える淋しさの見えない背景に空想の人間関係がある・・・ということかもしれません。

ところで葛藤にあって人は。たとえば会社の人間関係の問題なら、タイムカードを押して会社を一歩でたら綺麗に忘れる。あるいは苦痛の現場で苦痛から逃げないで受ける、ということで対応できます。しかし背景の解決は、それだけでは、なかなか困難。その自分の状態を研究するのも無駄ではありません。

たとえば彼は私を侮った。と思考しても、その侮るということの意味、定義は、その思考の前提にされてるので見えません。思考は、侮る、その意味を知らないことを知らないで、彼は私を侮った、と思考します。その私についても同様です。それを前提に思考しているから数学の公理のように不問にされています。

No.4612 - 2014/05/13(Tue) 08:28:01

Re: 背景。 / ubik0101
それで、ひとつには、たとえば侮る、ということの構造を研究することが役に立ちます。自由でも、不自由でも、幸福でも、不幸でも、欲望でも、自我でも、そして・・・私とは何?を研究するのは役に立ちます。

それを研究し見るなら、少なくても知らないでそうあることに埋没してることからは逸脱します。なにか人は見えることを研究するということも大切ですが、一人あって研究してる、その、そのことから自ら自らを学びます。これが道です。

ところで何か思考があることが問題で、それがなければ問題ない、と思考は思考するかもしれません。しかし思考がある場合の思考はその反面、思考がないということも問題にしてるのではないでしょうか。

たとえば、どこかから侮辱を受けた人が、その侮辱について思考しないのは、変だ、愚かだ、という背景もありそうです。そでなくても思考は、どこにもない思考を背景に立ち上がってるのではないでしょうか。

No.4613 - 2014/05/13(Tue) 08:29:06

Re: 背景。 / ubik0101
たとえば葛藤があるとして、そのことについての、思考がないのは問題だ、ということ。それはまるで葛藤の思考がないのは、愚かに見える、ということもあるかもしれません。それについての思考がないのは変だ、ということが隠れた前提になって、思考が生起してるかもしれません。

これは。思考があること、ないこと。その組になってる構造に囚われて埋没して、そのことが見えない、気がつかないかもしれません。その範疇にあれば、思考さえなければいい、となるかもしれません。いわゆる自我、そこでは思考があろうとなかろうと、自我なのです。

結論から言うと、実は、なんだかの思考があろうと、なかろうと、問題ない、です。けど思考がなくても問題ないというのでなければ、思考があっても問題がない、は困難かもしれません。

No.4614 - 2014/05/13(Tue) 08:30:06