おおむね思考とは空想です。たとえば2500年前の仏陀が、私は仏陀である、と言ったかどうか知りませんが、もし言ったとしたら、それは空想です。このことが分かっていたのでなければ、言い得ないです。
このこととは、思考、言葉が空想です。それゆえ、事実の表現ができるということです。どこかに書いたかと思いますが・・・たとえばトンボという言葉はトンボを現しません。それゆえトンボという言葉は,トンボを現します。
トンボと、トンボという言葉が、まったく影響を与えあわないから正確に言葉は機能します。もし僅かでもトンボとトンボという言葉が影響を与えあうなら、トンボという言葉はトンボを現し得ません。
なんでもいいですが、もし私は仏陀である、総てはひとつ、いまここ、総ては無意味、私はある、私はない、なんであれ、確かな事実・・・真理・・・と見なされるということを言うならば、この言葉の機能の理解は必須です。
でなければ、そんな人が世界にいるかどうか知りませんが・・・世人、仏陀ではない人という意味合いでの衆生・・・でも、私は仏陀、と言い得るのです。そして実際、言い得ます。なんでもいいですが、私は神、も言い得ます。
どうでもいいですが、私はナポレオン、も言い得ます。こうでもいいですが、私は、有栖川宮、とも言い得ます。まあ説明なんですが、まったく嘘と事実、言葉は同じです。では、真実はどこにあるでしょう?
これはここそこと探っても見つからないかもしれません。これは、嘘も真実もひっくるめて、森羅万象が機能する、そこで、それが、それを、それと言い得る、です。A=Aの思考と呼んでいます。なにかを言うなら、こいう理解は必須と思います。
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No.4790 - 2014/12/10(Wed) 09:16:10
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