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記事No.4802に関するスレッドです

なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
おおむね思考とは空想です。たとえば2500年前の仏陀が、私は仏陀である、と言ったかどうか知りませんが、もし言ったとしたら、それは空想です。このことが分かっていたのでなければ、言い得ないです。

このこととは、思考、言葉が空想です。それゆえ、事実の表現ができるということです。どこかに書いたかと思いますが・・・たとえばトンボという言葉はトンボを現しません。それゆえトンボという言葉は,トンボを現します。

トンボと、トンボという言葉が、まったく影響を与えあわないから正確に言葉は機能します。もし僅かでもトンボとトンボという言葉が影響を与えあうなら、トンボという言葉はトンボを現し得ません。

なんでもいいですが、もし私は仏陀である、総てはひとつ、いまここ、総ては無意味、私はある、私はない、なんであれ、確かな事実・・・真理・・・と見なされるということを言うならば、この言葉の機能の理解は必須です。

でなければ、そんな人が世界にいるかどうか知りませんが・・・世人、仏陀ではない人という意味合いでの衆生・・・でも、私は仏陀、と言い得るのです。そして実際、言い得ます。なんでもいいですが、私は神、も言い得ます。

どうでもいいですが、私はナポレオン、も言い得ます。こうでもいいですが、私は、有栖川宮、とも言い得ます。まあ説明なんですが、まったく嘘と事実、言葉は同じです。では、真実はどこにあるでしょう?

これはここそこと探っても見つからないかもしれません。これは、嘘も真実もひっくるめて、森羅万象が機能する、そこで、それが、それを、それと言い得る、です。A=Aの思考と呼んでいます。なにかを言うなら、こいう理解は必須と思います。

No.4790 - 2014/12/10(Wed) 09:16:10

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101&hato

子供のころ、母が買ってくれてよく読んでいた、ブルーナさん。
ubik0101さんがみつけて、写真を撮ってくれていました。

「手がちいさいね」

と話しかけたら、にっこり微笑んでくれました。

ubik0101&hato

No.4791 - 2014/12/10(Wed) 10:14:11

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101&hato

このところ晴天が続いて畑が乾いたので、やっと芋掘りをしました。安納芋の畝です。黄色い芋のはずですが、あれ、赤いのも混じっています。

これはほかの芋の苗が混じって売られていたのでしょうか?でも、黄色と赤の中間のピンク芋もあります。うーん、赤いのはun-nown芋と呼ぶことにしました。

ubik0101

わーぃ、芋掘り〜!!畝半分くらいの場所に、ちょこっとサツマイモの茎が出ていました。初冬12月。柔らかな日だまりのなか、スコップとシャベルで掘り出してみると、なんかいとしいお芋さんたちが、「やぁ、出てきましたよ、こんにちは〜。。」な感じでした。

hato

No.4792 - 2014/12/10(Wed) 20:12:12

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
この頃の子供はどうか知りませんが、鉛筆の側頭部をナイフで削って、自分の名前を書くという習慣?遊び?がありました。そこで鉛筆箱・・・そこ・・・に1本しか鉛筆がないなら、その鉛筆には名前を書けません。

そこで、その鉛筆を切って、つまり分離して、ほかの鉛筆をつくって、互いに名前を書くことができます。または鉛筆箱・・・そこ・・・ではないとこから違う鉛筆とか、赤とか緑とか青のサインペンとか、万年筆とかを探してくることになります。

おおむね言葉とは、そのようなこと、とも説明できます。メタ言語という言葉があるそうです。が、そもそも言葉は、最初の1本の鉛筆を超えた・・・それが、この日常とも言えますが・・・メタ《超》なのです。時間も空間も、特に言葉による思考を制約することはできません。

あまりに思考は制約を超えてるので、それに気がつかないと人がそれに振り回されて、過去や未来の空想に巻き込まれてしまい、それに気がつかない、もありそうです。この自分が自分を掘り下げることにあって、そのようなことに気がつく経緯が機能します。

No.4793 - 2014/12/12(Fri) 09:20:05

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
つまり人が思考の過去や未来に囚われるのではなく、思考の自在さに、人の有り様が付いて行けずに、思考は過去のことだとか、未来のことだからといって、拒否反応をしてる、ということでもあります。

たとえば過去が人を縛るでしょうか?なにかの出来事が問題になるとしたら、その問題になる原因は、その出来事そのことではなく・・・たとえ同じことでも人によって反応が違います・・・問題を問題として現わにする人の有り様ではないでしょうか。

たとえば葛藤の原因を過去に求めるのは、とても曖昧な思考ではないでしょうか?問題が、いまこの現場で起きてるのだとしたら、過去の出来事に原因を求めるのではなく、この現場で解決すればいいだけのことではないでしょうか。

No.4794 - 2014/12/12(Fri) 20:21:31

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
たとえば雪の日に寒い思いをして辛かった。それで雪が嫌いになったとします。その雪は嫌いというのは、過去についての思考です。太陽、夏、雨、風、猫、犬、鳥、虫なんでも出来事として、そのようにあり得ます。

なんだかの言葉、人間関係でも、同様です。それは、なにかの出来事、あれ、と嫌いという、これ、が繫がってるだけです。その、あれとこれ、が繫がる原因は、快不快、損得、好き嫌いに依存してること、かもしれません。つまりは因果の関係が、その快不快、損得、好き嫌いによって生じてる、です。

そこで前提にされてるためにあまりに当然で見えなくなってる、快不快、損得、好き嫌い、を基準にしないで、その基準を疑うということ、その理を解するということ・・・その簡単なことが探求です。

No.4795 - 2014/12/13(Sat) 09:35:59

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
それは快不快、損得、好き嫌いを拒否するということではないです。雪が寒いというのは当たり前です。夏が暑いというのは当たり前です。風が困るというのは当たり前です。嫌な言葉、人間関係が辛いのも当たり前です。

もちろん猫が嫌い、好き、犬が、鳥が、虫が・・・好き嫌いどっちでもない・・・いろいろあって当たり前です。ただ辛いこと,嫌なことは、快不快、損得、好き嫌い、を曝け出しやすいので理解し、因果の壊滅、として使うと言えば言えます。

すこし話を戻します。鉛筆箱・・・世界・・・に一本しか鉛筆がないなら、その鉛筆には名前を書けません。それは、自分で自分を自覚でき得ない、ということでもあります。この、自覚でき得ない、ということを、自分はない、と呼ぶことがあります。

No.4796 - 2014/12/13(Sat) 09:38:08

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
これに気がつくには、ほかの鉛筆・・・世界の総てが必要です。それが、知覚です。見る,聞く、触る、思考する、です。見る、聞く、触る、思考するその総ての活動こそ、自分はない、です。これは凄く簡単なことです。

どんなことでも見聞き思考でき得るけど、見聞き思考してるその自分は見聞き思考でき得ない・・・知覚とは差の認識・・・です。たぶん完全に空想ですが、犬や猫や鳥も、自分は自分で自覚できない、ない、です。

ただ人は、自分で自分を自覚できない、ない、ということを自覚でき得る、ということかもしれません。ときに知覚が研ぎ澄まされ、その活動に何も支障もないということにあって、ない、が起こる、です。

No.4797 - 2014/12/17(Wed) 17:14:18

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
そして世界の総活動。縁起。どのような事象との関係にあってもその自分・・・自我は、ない、です。そして、実在との関係にあって、その自分・・・自己は、ある、です。それ、ある、ない、が引き続いて同時に起こったのが、あの体験です。

その読み解き・・・自我も無我も自己・真我もない、にありきるなら・・・自分で自分を自覚不可能、表現するならばですが、ない、がこの日常に確定します。なんであれ、たとえ私は神であっても、私は、ない、です。

ところで、ひとつには、この自分で自分が認識できないこと、ない、を悪用すること、たとえ自分が悪魔であっても、その自分はない、です。これが諸悪の根源です。

No.4798 - 2014/12/17(Wed) 17:16:05

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
この自分で自分が分からないくらいだから、なにか誤摩化しても、嘘をついても、ほかの人には解らないだろう。そう思わなくても、そう、だということはあり得ます。それはいくら道の途中でも、

そいう人は悲しい、自分を誤摩化す人は、ほかの人に嘘をつく人は悲しい・・・それはその悲しさをどうこうすればいいのではなく、その愚かさが悲しい・・・♪この果てしない悲しみに救いはないだろか。

またその、ない、が善の根源です。この悪と善の根源、ない、、、まったく認識でき得る範疇のことではないのですが、それでも、たしかにそうです。これはなにかの理由を言えるようなことではなく、絶対の違いです。ない、にあっての転換。

No.4799 - 2014/12/17(Wed) 17:17:15

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
ふつうの日常で、人は同じことを嫌いになったり好きになったり、懸命に頑張ったり、成功したり,失敗したり、飽きたり、忘れたり、泣いたり笑ったり怒ったり、また様々なことを経験しています。

それがそれです。生まれることが因果の始り、死ぬことが因果の終わりこの日常。あるない、快不快、損得、好き嫌いも、仮のものです。そいうことを設定して、因果の生起と壊滅を経緯。探求してるだけです。

いつも言うことですが、人は自分の言ったことを聞くことができます。思考したことが分かります。行動したことが自覚できます。なにか大事なことがあるとして、これだけです。探求とは、この日常です。

No.4800 - 2014/12/17(Wed) 17:18:34

Re: なんでもない、ない、私。3 / hato

いい,わるいでない,善いを。

この日常に

それは,なぜそうなんでしょう。


この休日は,掃除をしたり,検診に行ったり,クリスマスの小さなサンタさんを買いに行ったりしました。庭のもみじが今までになく紅葉しているので,こちら雪はないけれど,空気が冷たいのでしょう。

No.4801 - 2014/12/17(Wed) 21:57:22

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101&hato

我が家に来てくれた,

小さなサンタさんたちです。

No.4802 - 2014/12/18(Thu) 22:37:44

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
もっと普通の生活で言うと・・・たとえば悪事をする人に、なぜそんなことをする?と聞いたとします。すると、理由なんかない、と答えるかもしれません。そして善を行う人に、なぜそんなことをする?と聞いたとします。

すると、理由なんかない、と答えるかもしれません。どちらも、善も悪も、理由なんかない、という同じ答えです。なにが違うのでしょう?理由が、ない、と言いながら何か理由を隠してる?心根が違う?言動そのことが違う?ほんとは善悪などない?

あるいは・・・それは人のために、自分のために、それを世界が望むから・・・なんとでも、悪をする人と、善をする人と、まったく同じ答えをするかもしれません。まったく同じ言動でも、違う言動でも、善悪はあるかもしれません。ではその違いは、どこにあるのでしょう?

これを、ここでなんと思考しても、それは限りがなく続き、総てが誤りで、総てが空想です。そうでなく、ただ大事は、そう思考してる自分がどうであるか?だけ、です。空想ではなく、事実、真実を探求する心根は、そう意図しないでも、そういう姿勢になります。

No.4803 - 2014/12/27(Sat) 09:15:53

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
いろいろ考えたり探ったりしてるその自分は何?これより簡単なことはなく、これが総てを壊滅させます。そしてその自分はない、そこで、理由が、ない、善と悪の説明として、なぜそんなことをする?と聞く、そんな説明ができ得る、ということです。

たとえば世間のこと、それは自分で自分を自覚でき得ない、自分、を管理するために、空想の人間関係を構築する・・・それを脱して、周囲に人がいない、孤独、とかいうことではなく・・・一人あること。も、そのようなこととして説明でき得る、ということです。

たとえば自我・・・それは知り得ない、ない、自分を、台風のように周囲を騒がせて知ろうとして、ある、こと。静かな湖をかき回して、その静かさを知ろうとすること。として、説明でき得ます。ならば自分は何?と問うのも問題。でも探求しないこと、静かなことが、自我、もあり得る。というほどのことです。

ここにあって、なにかを残し、なにかを捨てる、ということではありません。この総ての活動が、世界の総ての活動が、それ、です。その総ての活動ゆえに、なにか特定の、個別の物事であることが、不可能だ、にも関らず、これはこれ。ということです。世界とは、こんな不可能を日常にしてるのです。 

No.4804 - 2014/12/27(Sat) 09:19:44

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
たとえば、たしかに世界には、静かな自我の人が配置されています。そいう人に向かって、静かさが増せば悟りに近いと言っても、無駄というか、逆効果かもしれません。だからといって、適時適時に助言するのではなく、なんであれその人が生きる。ということです。 

それで言えることは、なにかを捨て、なにかを得るということ、そのような選択の範疇にないことです。なにかを、たとえば情を、空想の人間関係を捨てることは、1人あることを反映したことであり、なんだかの修行の経緯としてはあるけども。

説明としては、総てを捨てることが得ることとは、なにかを捨てる何か得ることの範疇にない、です。そいうことを簡単とか困難だとか思うのは、もう空想です。ただ何であれ、たとえそいう空想をする自分を問うならば、道と道でないことがあるわけではないけれど、迷うことは困難な傾向にあります。

No.4805 - 2014/12/27(Sat) 12:27:19