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記事No.4833に関するスレッドです

日常。 / ubik0101
よーい・・・ドン!世界人類全員100メートル競争です。そこでは走りながら結婚したり、子供を産んだり、成功したり、失敗したり、死んだり・・・悲しんだり、怒ったり、平穏だったり・・・書を読んだり・・・戦争、平和・・・春夏秋冬・・・迷ったり、悟ったり、昼寝したりも、ありです。

ありとあらゆることと、ありとあり得ないこと、森羅万象、その活動。それをここでは縁起と呼んでいます。人はそんな体験をします。それは縁起によって起こるのではなくて、縁起、そのことです。すでにこの大運動会に参加してるので、なにか誰かの言葉とか、きっかけがあっても起こるでしょうし、なくても機が満ちて起こります。

それは、総て揃ってるから・・・いわゆる何でもありではなく・・・なにか個別のことに固着できない、偏れない・・・です。たとえば、 善と悪、優劣、喜怒哀楽、それだけではなく、あらゆる両極端があるからその中間にも依拠できない、ここではこれを中道と呼んだりします。その縁起の活動にあって、縁起を超えます。

No.4828 - 2015/01/19(Mon) 09:00:59

Re: 日常。 / ubik0101
そしてこの日常にあって、あるもないも、森羅万象が活動していて、ここ静かな岡の片田舎で、ここにこうしてる、畑仕事してる、バッハを聴いてる・・・ここにいて世界の運動を感じてる。それが、不思議,という感覚です。なにか世にも稀なことがそうではなく、このなんでもない日常が、不思議、です。

なにか真理とか、それがそれの原因である、実在、とか、真我に、それ、を求めるのではなく、それ、と、これ、その区別も失った日常、そこに。たとえば人が迷うということ、人が悟るということ、森羅万象が、これ、がこうでなくてもいいのに、これ、という神秘が実感される、です。

なぜ見えることは見えるということなのか、聞こえることはなぜ聞こえるということなのか、甘いということはなぜ甘いということなのか、思考はなぜ思考なのか?それは、なぜ、それなのか、まったく知らない、です。これは一体、どいうことなんでしょう。

No.4829 - 2015/01/19(Mon) 09:20:40

Re: 日常。 / ubik0101
ここは自分で自分を感じられないので、説明は困難ですが・・・たとえばバッハの楽器の指定のない音楽は、フルートでも、ピアノでも、バイオリンでも演奏可能・・・もしかしてですが、あれやこれやの、もの、こと、事象ではなく、その人が、そう、であるなら、あれやこれやの、もの、こと、事象がどうであれ、そう。ということが納得しやすい説明かもしれません。

たとえば、この世界はピアノです。下手に弾くのも、上手に弾くのも、ピアノの責ではありません。ピアノはニュートラルで、演奏してるのが、その人で、その状態が世界に現われる、です。ピアノは触媒です。たとえば喜怒哀楽、思考、なんであれ、どのように使う、使わないは、その人に任されてるです。

ここで注意。そこに現われたことで、その人の状態を示す、ということもあります。たとえば悟りが完全でないと、賢者と愚者、悟りと迷い、そいうことが人に現れる、です。するとほんとうに世界には賢者と愚者が見える、のです。それはその人の問題です。そいうことは、ほかの誰かの、もちろん世界の問題ではありません。

No.4830 - 2015/01/19(Mon) 09:54:27

Re: 日常。 / ubik0101
もちろんこんな思考は無限退行になり得るのですが、その解決はとても簡単なのです。たとえば卵が先か、鶏が先か?これは結論がでないということでの無限退行だとして。では、そ思考してる自分は、卵から?あるいは鶏から?ということで、終了です。この自分がどうだということ、識別、判断とか、投影を脱する道が開けています。

どこか東北?の禅の坊さんが、いっかい体験したら、も一回やるんだ。とか話してた気がしますが、そうです、その読み解きは、一回に数年かかるけど何回でもやるんです。子供の頃に見たことがあるのですが、雨の日、軒下にある石に雨だれが落ちて、くぼみができていました。曖昧を排して雨だれのようにくり返す、これは無駄ではないです。

そいえば仏陀の喩え・・・河を渡ったらもう筏を背負って歩く必要はない・・・もう悟ってるのだから、悟りを抱えて歩く必要はない、です。それで縁起には縁起はない、いまここにはいまここはない・・・悟りには悟りはない・・・自分の経緯の壊滅・・・それでいて、それ、から外れない。おおむねですが、認識作用の捕われの滅にあって、こんなことが明らかになります。

No.4831 - 2015/01/19(Mon) 10:52:47

Re: 日常。 / ubik0101
たしか中学生のとき教室にいて、机が近くの級友が、ほかの級友に話してるのが聞こえました。なにか食べ物のことでしたが、なにかは不味い、ツワブキは煮て美味い、そんなことでした。それで、うーん、美味いとか不味いとか、そんなこと考えたことがない、ということに気がつきました。

うーん、食べ物の味はするのです。でもその印象、記憶が残ったことはない・・・それを判断したことがないことに気がつきました。それでこれからは、なにか評価?判定?をしてみよう。と思ったのです。それはなんだか俯瞰的に、客観的に物事を見てるよな、大人の感覚、印象があって、それを取り入れてみよう。と思ったのです。

それは思っただけで、できなかったかもしれませんが、認識とか、判断は、とても難しいことに思えます。単にそんなことがあった、ということなんですが、ツワブキ、そいえば食べたことがないです。庭にあるので、そのうち食べてみてもいい、な。

No.4832 - 2015/01/19(Mon) 18:47:04

Re: 日常。 / hato

ほんとうに,その根拠の全貌といえるかどうかも知ってもいないそのことを,知らないのにも関わらず,本気で生きることができる,この不思議。

いったい,なんなんでしょう。

ノンちゃんは最近,母の手製の,大きな壺にはまっています。きっと,とてもワクワクしながら,羽はたきの柄につかまって,用心して降りていくのです。臆病なチュリルはこわくていけないのだけれど,そんなノンノンを,興味津々でながめています。

No.4833 - 2015/01/23(Fri) 21:01:20

Re: 日常。 / ubik0101
ふと思いました。私とは何?・・・もしかして、心?たぶん、精神?魂?きっと、身体?空間?時間?あるいは、それら総て?世界?・・・どうでしょう。

そのようなどんな意識の対象になる、ならない、どんなことも一切、採用しないでいることはできないでしょうか?これが日常であり、これほど簡単なことはないと思います。

No.4834 - 2015/01/31(Sat) 11:26:46

Re: 日常。 / ubik0101
たとえば学校とか、地域の一員であること、それを嫌うというか、馴染めないことがあります。そこで自分の精神、心、身体とかに固着して・・・あるいはまた感覚、感情、意識、世界それが自分ではない、ということで。

ほかの何か、なにが何だか解らない何かを、自分だ、としてしまうことで・・・それが逃避とも知らず・・・そのような。なにかは自分ではない、何かは自分、という極端なループの、範疇の中で生きてしまう。そのようにして自分を守る、ということもありそうです。

No.4835 - 2015/02/01(Sun) 10:07:33

Re: 日常。 / ubik0101
あるとき何か悔しい思いをしたとして、それがわだかまりになって。また何か楽しかったことを再び望むとかしようとすると・・・あやとり・・・もつれた糸のように・・・時間のあやとり・・・そこに空虚感が生じるかもしれません。

こんなことを書いてて、たしかに子供の頃、なんか部屋に親戚が集まって笑い騒ぎ楽しかったけど、それはいまはない、この部屋の空虚感。それを埋めようとして、そこで過去と未来の架空の関係ができてしまう、そんな経験を思い出しました。

No.4836 - 2015/02/02(Mon) 11:52:39

Re: 日常。 / ubik0101
それは傍からは、過去や未来という時間、どこかという空間の、何か対象に固着して、自分との距離を認識して、その対象を引き寄せようとしてる運動に見えます。そこで、その距離、そのありもしない・・・あやとり・・・英語では猫のゆりかご、と言うそうです。

そんな、はしご、ホウキ、東京タワー・・・架空と事実との混同にあって、さまざま空想をしてるこっちが自分、あっちは、自分でない、あるいはその運動範囲が自分、範囲外は自分ではないと複雑に縺れてしまった、あやとり、で自他が生まれるかもしれません。

そこで、ひとつには、あそこ、と、ここ、過去と未来とか、何かを対象にすることで、距離をつくらなければいいのです。すると自分が自分だと思う自分ということも、生じてないのではないでしょうか。

No.4837 - 2015/02/07(Sat) 13:13:08

Re: 日常。 / ubik0101
つまり、いま、ここ、には距離がないのです。でも、それさえ思考は、言葉によって対象にして距離を、生じさせ得るのです。(また自分に密着が問題、もあるでしょう)。どうやっても人は、いまここにしか生きてない・・・というのも思考です。けどまた、いま、ここ、には、いま、ここ、はないです。

しかし、いまここという思考があっても、ないにしても、事態は変わらない、というのが・・・人は思考に左右され得ない・・・が、実情ではないでしょうか。では、距離を否定することも、いま、ここ、を真実と見なすことも、必要ない?

ここで。いま、ここ、から逆に辿ってみて、過去,未来、あそこ、ここ、どこ・・・のことを思考してみるのです。どうでしょう?それでそう思考しても、そのことが何か問題だ、というわけではないのです。問題がなければ、どう思考しても問題はない、です。

No.4838 - 2015/02/07(Sat) 13:17:10

Re: 日常。 / ubik0101
そろそろ、ジャガイモ、インカのめざめだ。というわけで、日光に当てて芽出しをして、植える算段です。小さいけど、収穫量も少ないけど、種芋も高価でこれで約1000円もするけど、たしかに栗のよな食感です。
No.4839 - 2015/02/08(Sun) 08:52:25

Re: 日常。 / ubik0101
たとえば、なにか悔しかったこと、楽しかったこと、そんな過去が幻のように現われると、幻のように未来が現れ・・・どこか、が現われると、あそこが・・・N極が現われるとS極が予めあったかのように現れて・・・磁石のように・・・ものごとを引きつけよう、引き離そうとする、その関係。

あれが現われると、これが現れる。それならば、過去は過去、未来は未来、それだけで。あそこはあそこ、ここはここ。その、それだけで、一件落着。単極の磁石は成立しないように、問題は起こらない、ということです。

でも実は思考には、なにが問題なのか、解らないのです。思考には、自我とか、無知とか、名前をつけることはできますが、それで誰かに伝えることもできますが、その思考の中心、主体、始源、が解らない、見えないのです。

No.4840 - 2015/02/08(Sun) 17:06:54

Re: 日常。 / ubik0101
それは思考が無能なのではなく、問題と無関係なほど超えてるからとも言えます。思考を悪者にするのは、海で魚が釣れないといって、竿や糸や餌や風や海や温度の責にするようなこと・・・未熟なのはその、人・・・ということでもあります。

それは、自分が、ない、自分で自分で見えないから、なんだか不安で、ほかの人や、海や、過去や、未来や、感情、感覚、思考・・・おおむね何か特定の個別のもの、ことに、拠り所、頼りを求めて、固着するのかもしれません。

そこで、その自分、それは、ない、でも、ある、でも、透明でも、完璧でも、なんでもいいのですが、自分で自覚でき得ないということが明確なら、なにかに固着もできないし・・・空想の縁起・・・因果も起こらず・・・単極で、問題ない、ということです。

No.4841 - 2015/02/10(Tue) 08:43:27