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記事No.4913に関するスレッドです

日常。?D / ubik0101
たとえば、思考が問題だ、とします。では、なぜ、そうでしょう?ひとつには自分は、ない、つまり自覚され得ません。そこで、ある・・・それが機能して知覚される・・・問題が・・・その苦痛である思考が原因、となるかもしれません。

たしかに、なにか思い悩んでるとします。イライラと重苦しく、あーでもない、こーでもない、どーでもない、してるとします。しかしふと、冷たい水を飲んでて、あっ。いま、その思考をしてなかったんだ。ということに気がつくことがあるかもしれません。

その思考のないときは、平穏だった。つまり思考が問題だ。それがなければ、無問題。たしかにそうです。しかーし、ほんとに自分が、ない、それが確認?、確立?する必要もなく確認?、確立?、されてるのなら、思考があろうが、なかろうが、問題ないです。

No.4897 - 2015/04/17(Fri) 11:30:00

Re: 日常。?D / ubik0101
つまり自分が、ない、がそれほど明確?でない状態では,思考の所為。おなじことですが、時間の所為、因果の所為、プロパガンダの所為、分離の所為、人類の集合無意識の所為・・・これはまだ、葛藤を外に見たりしています。

こっちは静か、どこか、あっちは騒がしい、中心は静か、どこか外は騒がしい・・・とか対比があるかもしれません。それはまだ、葛藤の範疇にあります。どこか外を空想しながら自分を守り、ある、そのことに気がつかないことに囚われてる範疇にあります。

と、こういうこの投稿は・・・まだ対比の範疇である・・・と見ると、無限退行になります。それは、一種の因果で、その見える範囲では限りなくくり返し続き、誤りを見いだせない、抜け出せない・・・意識され得ることの外は、意識され得てない、ということです。

No.4898 - 2015/04/17(Fri) 11:37:34

Re: 日常。?D / ubik0101
ここで自分は、ない。がそう思考されても、思考されなくても、問題でなければ、思考の所為、とはならない、と説明されます。つまり、こういうことです。自分が、ない、ということを、確認する必要もない、思考して確認しても。ない、という事態は変わらない・・・です。

そして自分が、ない、ということが、見てなくても、変わらない。ということです。あるでも、ないでも、あるでも、ないでもない、でも。それを見ても見なくても、変わらないし、変わってもとくに問題ではないです。

それは、あーだ、こーだ、どーだ、見える範疇、意識の外・・・そいうのをイメージしては困りますが・・・の解決です。これは最初からもなく、、いつもででもなく、いまでもなく、ここでもなく、すでにでもなく、表現としては、始まりもなく解決されてる。それだけのことです。

No.4899 - 2015/04/17(Fri) 11:43:08

Re: 日常。?D / ubik0101
もひとつには、思考が、それを思考する中心、その人をつくる、ということにあります。たとえば、なにか考えるとします。それは、私、が考えてるのではありません。逆です。なにか思考することが、私、をつくるのです。

それは、私、とは虚構だ、ということです。なんであれ、なにか思考するとします。それの正誤を判断するのも、その思考によってつくられた、私、です。すると、その思考の誤りを見つけることは困難、私の思考は正しい、となるしかないのです。

これを打破するには、この自分を傷つけることも厭わない公平さ、真摯さ、正確さ・・・損得、快不快、好き嫌い、に縛られない生き方・・・を要しました。それは人が社会、世間にあって、それに抵抗するだけではなくて、その底に沈んで、おおくを学べます。

No.4900 - 2015/04/21(Tue) 08:49:42

Re: 日常。?D / ubik0101
なぜかは知りませんが、世界はそうして、虚構の私、つまり虚構の、ない、を育て、それが虚構であると開示して、ある、それゆえ、ない、人を育てるようです。ところで、虚構の私、をつくるのは、思考だけではありません。

それは行動、発言、思考《言葉》・・・人の生活の総てです。それを思考だけの所為にするのは、なんだか理由があるのでしょうか?おそらく言葉は、時間、個人、真実、嘘、などに制約されず、あまりにメタであり、そのことに振り回されるからでは?と睨んでいます。

ありもしない空想を現実のように思考し・・・あっ、3つ先の交差点の信号が黄色だ。どうしよう?4つ先の交差点で女の子が転んだらどうしよう?5つ先の交差点で・・・あり得ることと、あることと、嘘と真実の区別をする機能が装備されてないために、自在である思考。

No.4901 - 2015/04/21(Tue) 08:51:13

Re: 日常。?D / ubik0101
ララベリー(桑)の、まだ小さいツボミです。実がなって熟すと赤黒く甘くなりますが、去年は、ほとんどヒヨドリに食べられてしまいました。ユスラウメも、グミも、100円ショップで、防鳥ネット、が必要かもしれません。
No.4902 - 2015/04/21(Tue) 16:35:36

Re: 日常。?D / ubik0101
やはり思考が問題だ。いや、思考は無問題だ。というのも、どちらも思考です。ここで対比するなら、問題、無問題、どちらかに偏って、その人の有り様を表示できるのが思考です。

もしかして、思考は問題だ、という人は、その思考は問題だ。という思考につくられてる、つまり、思考に依存してる、その行動、言葉、思考が、思考に使われてる、かもしれません。

そして逆に、思考は無問題、という人は、その思考に使われてる、その思考に、つくられてる、その思考に依存してる、ゆえにその思考を正しいと見なすしかない状態、かもしれません。

No.4903 - 2015/05/04(Mon) 10:17:57

Re: 日常。?D / ubik0101
それで結局、思考によっては判断できず、その人がどうあるか、ということに帰着します・・・と、いうことも思考です。そんな思考は、問題、無問題もない、なんでもない、ニュートラルに機能しています。

つまり、こいうことです。思考が万遍なく機能するなら、その偏りを自ら解消します。それは思考することと、しないことと、そのことによって変わらない事態、ということです。雨が降っています。思考しても、しなくても、その事態は変わりません。

また思考は対象であり、知覚されることだ、ということです。それ、のことは思考できても、これ、のことは思考のしようがないけど。これ、に名前をつけることができます。たとえば、ただの人。日常。春夏秋冬。喜怒哀楽。シュレーゲル青蛙が鳴いています、と。

ここで、ひとつながりも、分離も、とくに真理とか、反真理とかではありません。ただそんな人の状態があるというだけです。言うならば、真理とは、自分で自分を知覚でき得ない、ふつうの人そのことです。

No.4904 - 2015/05/04(Mon) 10:22:39

Re: 日常。?D / ubik0101
と、いうことも思考です。つまり思考は対象であり、知覚です。と、いうことも思考であり、それは、こういうことに、なんとも言えないことに、そいう名前をつけたのです。今朝は庭の半日陰に、とてもいい香り・・・山椒の苗・・・を植えました。

という名前を、それ、につけたのです。くり返しますが、なにがなんだかわからないこと、それに名前をつけて・・・青空が綺麗で風が気持ちいい庭、とか・・・それを、そう呼んでるだけです。と、なにかを、こう呼びました。それが思考。そいえば、しかし、どこかで、命名が問題。という意見を見たことがあります。

なにが何だかわからないことに名前をつけてるだけのことを、なにが問題なのか解りませんが・・・たとえば海で、それまで見たことがない、刺のある銀色の魚が釣れたとします。すると、これ何?と、ほかの釣り人に聞きます。

No.4905 - 2015/05/07(Thu) 13:27:42

Re: 日常。?D / ubik0101
そして、ギギ、という答えを聞くと。そーか、ギギか、というわけで、知り得ないことを、なにか知ってることと勘違いしてしまう・・・もしかしてそんなところにあるのかもしれません。

でも、知ってることなど何もないので、命名しようが、思考しようが、なにも問題になり得ないのです。命名が、なぜ命名なのか、思考がなぜ思考なのか、知ってることが何か、知らないことが何か、知らない、です。

つまり、命名や思考がなんであるか、知ってると仮定したら、それは問題はでてくるでしょう。たとえば、あっちは既知、こっちは未知という対比。に囚われて・・・それは命名が問題だという、その人のことです。でも、その対比も何であるか・・・それがなぜそれか・・・誰が知ってるというのでしょう。と、知覚。

No.4906 - 2015/05/07(Thu) 13:30:47

Re: 日常。?D / ubik0101
スイカの苗を畝ではなくて、庭に植えてみました。この地域では、強風から苗を守るために、たいがいの農家で、このように保護します。保温効果もあるかもしれません。
No.4907 - 2015/05/07(Thu) 13:35:21

Re: 日常。?D / hato

5月の連休もあっという間に過ぎたようです。恒例の夫婦いざらいも、はやめに済ませました。もう5回目?て驚きです。そんなになるかしらん。作業にもすっかり慣れました。

書類作りは佳境ですが、終わるのか終わらないのか?まだまだこれから正念場。頑張ってます。

気力に体調、あれやこれ、ままならずのことも多いですが、それでもなにかすることがあると、たいていのことは楽しんでできることが幸せです。

庭のラベンダーが盛況です。

No.4908 - 2015/05/07(Thu) 22:05:28

Re: 日常。?D / ubik0101
これは、ミニトマト《アイコ》の苗。数日前に植えたばかりなのに、もう目に見えて大きくなってきました。
No.4909 - 2015/05/11(Mon) 16:13:46

Re: 日常。?D / ubik0101
これは山椒の苗。桜の木の木漏れ日が差し込んでいるところです。アゲハの産卵を防ぐために目の細かいネットを被せています。
No.4910 - 2015/05/11(Mon) 16:17:10

Re: 日常。?D / ubik0101
そして思考は、それ自らに、思考、と。言葉は、それ自らに、言葉、と命名します。ここに言葉の特異性があるようです。つまり、それ自身が、それ自身を対象にでき得る。ただの人が、ただの人と。日常が、日常と、世界が、世界と。私が、私と、思考でき得ます。

しかし、その中心,内容は、まったく空白、空虚、ない、なにも話してないのと同じです。その視点は、個人としての誰かに対応する特定の誰かではありません。あえて視点があるかと探すとすればですが、世界です。

ここで過去や未来の時間も、近くや遠くの距離も、あったりなかったりする空想も・・・それを排除するのではなく・・・それに使われるのではなく、それを使い・・・滞りなく機能してる、です。

こんな思考、言葉、見ることは、これ、を認識でき得ない状態に拘る必要がなくある・・・それは思考、言葉、見ることからの自由を意味します。思考、言葉、見ることは・・・あらゆる、もの、こと・・・日常は・・・そのような拘らない働きを露にするそんな機能そのことです。

No.4911 - 2015/05/12(Tue) 08:18:23

Re: 日常。?D / ubik0101
またひとつに、思考が問題、ということは。たとえば愚かな状態、葛藤、自我の状態・・・あーでもない、こーでもない、どーでもない、の思考をする人の状態に・・・思考、という名前をつけてることにあるかもしれません。

または、そいう思考の状態の人と、思考、を同一視してる、そんな流行?風習?伝統?もありそうです。それは、思考、にとっては事実無根であり、誤解であり、濡れ衣です。そんな場合には、思考て何?を問うといいかもしれません。

ララベリー(桑)の実が黒くなってきました。つい洗って食べたくなりますが、それでは味が抜けます。木から摘んだそのままがいいです。草イチゴを濃くしたような味です。

No.4912 - 2015/05/23(Sat) 12:35:04

Re: 日常。?D / ubik0101
これは改良短形ジネンジョの葉です。丸いハート形で、ツヤツヤです。
No.4913 - 2015/05/23(Sat) 12:40:44