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記事No.4927に関するスレッドです

ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ときに悟った人が誰かに、その前と後、なにが違いますか?と聞かれることがあるようです。なにも違わないよ。と返事するかもしれません。元の木阿弥、と返事するかもしれません。

ひとつには、たとえば窓から積乱雲が見える。しゃわしゃわと蝉時雨が聞こえる・・・そんなことにあって、そんな知覚の機能は・・・なにも変わらないよ。という意味です。と、いうことは、

すでに、自分で自分を知覚しようとする、いわゆる自我の騒がしい問題が解決されてるということです。そこで見える聞こえる触る味わう思考される、なぜ、これが、これ。それが不思議、という感覚です。

No.4919 - 2015/08/08(Sat) 07:42:02

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ほかの言い方では、自分は、ない、が確定してる。もうことさら知覚、行動、発言、思考が、そうする虚構の中心、自分を更につくる必要がなくなってる。そこで知覚、行動、発言、思考が無問題ということです。

まず自分があって、知覚、行動、発言、思考するのではありません。知覚、行動、発言、思考があると予め・・・あたかも時間線を遡って・・・その知覚、行動、発言、思考する自分をつくる。その必要がなくなってる、ということでもあります。

ではなく。まず自分があって、それが知覚、行動、発言、思考するということは、あまりに当然。厳とした理論、に束縛されその範疇での運動しかできないけど、それはその範疇で人は養われてる、守られてる、育てられてる、ということでもあります。

No.4920 - 2015/08/08(Sat) 07:43:09

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そして予めある自分は虚構であり、その立ち上がりから架空の時間に組み込まれてます。そこに野望や絶望、あーでもない、こーでもない、どーでもない、の虚構の騒がしい因果の思考がそれに沿って機能します。社会はそのことに好都合なフィールドです。

それで人が学ぶにあって、これ以上の環境は願ってもないかもしれません。なんでもいいですが、知覚、行動、発言、思考のその展開、その展開、に現を抜かすのではなく、その原因、その原因を、自分で探るだけで済みます。

この簡単なこと。あくまで喩えですが、なにかこの世界にもない素晴らしい宝を探し出そうとするなら、ほかのどこか遠くではない、自分の足下を掘ればいいだけです。ツールは言葉。すでにこの日常に、道は整えられています。

No.4921 - 2015/08/08(Sat) 07:44:27

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
しかし何であれ、ない、ということを見るには、徹底的には、世界の総てを見なくては、でき得ません。ない、が、ない、を認識するためには、世界の総活動。ここでは縁起とか、中道、と呼ぶこともありますが、それが必要なようです。

この自分が、ない、ということは、架空の時間に依存しないということです。虚構の因果に振り回されない、ということです。ここにあって、そもそもの虚構の自分が立ち上がる原因にある問題、が解決されます。

しかし実に、自分が、ない、は諸悪の根源です。どうでしょう。自分で自分を自覚でき得ないから、人は悪事をなせるのではないでしょうか。そしてまた、自分が、ない、ゆえに諸善をなし得るのです。

No.4922 - 2015/08/08(Sat) 07:48:50

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
この、ない、ゆえの決定的な違い、それは思考に掛からなくても、認識できなくても、事実として、そう、です。たとえ世界の総活動に、善悪はなくても、自分は、ない、ゆえにその転換?が可能です。

ところで思考だけが思考する人をつくるというのでは、思考とほかのこと、あるいは有害な思考、有益な思考、の分離があるかもしれません。それは、どのような仕組みで、思考によって自分がつくられるかが見えてはいないからです。

それは思考の、それ、が、それ、を、それ、と命名するという・・・これ、が、これ、を。ない、が、ない、を認識できないに囚われると・・・言葉の特異な機能に、まだ振り回されて、思考に依存しながら思考を嫌い、思考を問題視する傾向にあります。

No.4923 - 2015/08/08(Sat) 07:56:24

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
これが、おおむね、世界は私、緯(よこいと)系の問題かもしれません。私は世界につくられてるので世界があるなら、ない、が輪廻するでしょう。では世界がなければ?まだ地球、宇宙の重力圏から脱してはいず、解脱とは言いがたいです。

またひとつには経(たていと)系、自分は、ある、があります。ここで一旦、自分はない、ということは、どいうことか探ってみましょう。ない、とは、それ自身が、それ自身を知覚できない、ということでもあります。

たとえ私が神《私は在る》でも、悪魔でも、天使でも、人でも、電気スタンドでも、世界でも、私は私を知覚できず、ない、です。つまり、知覚によればですが、在るでも、無いでも、在るでもなくても、無いでもなくても、私は。ない、です。

No.4924 - 2015/08/08(Sat) 08:00:22

Re: ちょっと?復帰、復習 / hato

なんて熱い、暑い、今日この頃でしょう。けれど、昨日の朝はその前の朝と違い、すこしだけ、暑さがしずかだったのです。すっかりの盛夏に、秋の気配がそっと来てる。そんな感じです。

世界はなかなか難儀だけれど、つくづくよくできてる、と思う時があります。

机を買いました。大きな作業机が欲しかったのです。ubik0101さんがワトコオイルを塗り、7日間待って、使い始めました。

No.4925 - 2015/08/09(Sun) 00:25:07

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そんな、ない、自分は捕まえることも、把握することもできず、まったく自覚不可能。見ても聞いても触っても思考しても、泣いても、笑っても、ない。です。その、ない、も忘れる。説明すれば、傷つき、不完全であっても、それゆえ完璧。

たぶん、見る聞くなどの知覚は受動だと思われます。それで受動だと無問題、という意見もあるかもしれません。たとえば静かさは受動だと見なされるかもしれません。そこで、思考は、受動でも能動でもあり、たとえば怒りは能動に思われます。

この受動であれ、能動であれ、どちらでもあれ、なんの問題があるでしょう。なにかしか良しとしないのは、それはある意味、偏りです。中道。どれにも自分はつくられない、つくられても無問題。で解決です。

No.4926 - 2015/08/09(Sun) 15:52:15

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
その大きな机の下の、hatoさんがつくった、と言うか、ただの段ボール箱の本棚。この家にある書はこれだけで、読むこともほとんどありません。
No.4927 - 2015/08/10(Mon) 10:57:15

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
なんでもいいのですが、土地に、文化に、言葉に、学歴に、過去に、権力、お金、思考に執着する人がいるとします。それはその自分が、土地、文化、言葉、学歴、過去、権力、お金、思考によってつくられてるということです。

まったき乳飲み子が母親に依存するように、世界あるいはその断片?構成要素が自分のつくり主なら、それに依存せざるを得ない、ということです。倒錯とも、顛倒とも呼ばれます。

また、たとえば自動車が自分をつくってる。山が自分をつくってる。木が花が、ほかの誰かが、行動が、言葉が、思考が自分をつくってる。それで、それ、世界が、自分というのは当たり前なのです。

No.4928 - 2015/08/11(Tue) 12:42:44

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ちょっと実験してみましょう。いま部屋の中にいます。ただ眺めてください。そうです。空間が自分なのです。部屋一杯自分です。これは空間は、自分との差が認識できないから、と睨んでいます。

つまり知覚、時計や、蛍光灯、机、それらが知覚でき得るのは・・・知覚とは差の認識・・・だから、なにかの物は、自動的に自分ではない、に振り分けられるだけではないでしょうか。

しかし、そして時計や、蛍光灯、机などの物、それは自分をつくってる。つまり差の認識できないこと空間と、できること物と、これは共に、知覚にとってですが、自分です。

No.4929 - 2015/08/11(Tue) 12:43:59

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
たとえば思考が問題だ、と言うのは、思考が未開発、不活性、未整備で、その思考につくられてる自分が、思考への依存度が高い、つまり思考が不完全なゆえに(それを完成するために)自分がつくられるということかもしれません。

おおむね差障りのあることに人は依存するのです。パズルは未完成なら人を魅了します。完成すると放置。たとえば土地、文化、言葉、学歴、過去、権力、お金、思考、発言、行動は不完全。それらは変化し、絶対ではなく、知覚され得る、ことです。

それらは完全ではなく、自分をつくります。しかし、なんでもいいですが、たとえば思考が適切に機能するなら、無意識、無思考もそれが滞り無く機能するなら、それに人は依存しない、それに使われるのではなく、それを使うと言えます。

No.4930 - 2015/08/12(Wed) 08:23:58

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
もし重い物を落としても足を守る・・・爪先にプラスチックの板が入ってる・・・安全靴を買いました。庭作業に便利で、安価。普通にスニーカーとしても使え、約1200円です。以前買った時は約1000円でした。
No.4931 - 2015/08/16(Sun) 10:13:34

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
たとえば過去や未来、人間関係に悩んでるとします。それは、それが、思い通りではない、不満、不安・・・という意味で、不完全・・・で葛藤が起きてる。それは不完全さに愚かさが執着してるのです。なので自我の死とも言えますが、自我の完成が問題の解決です。

また、たとえば順風満帆であれば、ふつうの日常であれば、なんの執着することがあるでしょう。それが、もっと順調なようにと、あるいは好調が失われないようにと、執着すれば、そのことが不完全。それにつくられた自分は、苦痛でしょう。

それにまつわる、過去とか未来とか人間関係。その思考のタガが外れて、知覚、行動、言葉が万遍なく機能したら・・・それが真理でなくても・・・世界は私・・・が扉で、解脱するということはあり得ないとは言えないと思います。

No.4932 - 2015/08/16(Sun) 18:21:38

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そ−いえば子供の頃、怪我をすると、なぜ痛いのだろうと不思議に思っていました。たとえばシャツの汚れ、障子の穴、ダイヤモンドの傷、青葉の中の枯葉、葛藤、思考がそこに焦点を当てやすい、というだけで、それは思考の問題ではありません。

と、あーでもある、こーでもある、どーでもあるの心理的な表現、説明が続けられます。緯(よこいと)系では、これが問題ということもあります。経(たていと)系では、私は、ある。愛の源、実在の直系。これで総てです。そして日常とは、経と緯、の交点です。

この日常。なにもかもが解決したのに、見えたり聞こえたりしてる、この不思議。神秘。ただの人は、それをも捨てる。ない。ある、も捨てる。完全な自分は透明で自覚できない、も捨てる、経と緯も捨てる。捨てることにも、依存できない。それが日常です。

No.4933 - 2015/08/18(Tue) 21:18:49

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
つまり元の木阿弥も捨てる。でも、捨てると言うと、意図的な姿勢に見えるかもしれませんが、実際は、捨てることも起こってもない、とくになにもない日常ということです。なんか問題があるとして、見える聞こえる思考されることでは、どうしても解決しません。なぜなら、すでに解決されてるからです。

ひとつには、この人の日常、泣いたり笑ったり怒ったり、それが真理?となにも違わない、ということです。なんだかイメージとしては、悟ってしまうと静かでいると空想されますが、それは空想です。ただ悩みとか苦痛の状態になるのは、超困難です。

ひとつには、人は平等だということ、つまり悟りも迷いも人の状態であり、その悟りと迷いの区別を失い、大事は、それを自覚出来得ない人そのこと。これが真理。しかしそれも捨てる。ということも始まるでない、この日常です。

No.4934 - 2015/08/18(Tue) 21:20:32