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記事No.4954に関するスレッドです

ノートに向かって、 / ubik0101
この自分を探るということは、この自分が過去の自分を探る、なりたい自分を探る、ということではありません。この今の自分・・・という意識さえないのですが・・・それがそれを開示していく・・・ノートに向かって実況生中継ということです。

そして思考の奥を探る場合は、ポーズボタンを押して小出しにして、そこを言葉で見ながら、書くのと同じ速度に思考の速度を緩めながら書く、ということです。つまり思考はコントロールできるのです。ふつう人が文章を書いてる時は、そうしてるのではないでしょうか。

そして探求そのことは、たとえば熱帯雨林に掻き分け入って、実は何を探してるのか、知らないで探してるのです。たとえば、ほんとうの自分?悟り?総てはひとつ?無我?いまここ?そんなこと、そんな目標があるなら、探求と言えるとは思えません。

求めてる、その何を知らないで、求める。求めるというなら、そのように求める。何を探してるのか分からないのに探すのは不可能とか、無理、と感じるなら、もうそこで、アウトです。たとえば自分で自分を捜すのに、目標を設定できるのは変です。

No.4953 - 2015/09/02(Wed) 19:21:11

Re: ノートに向かって、 / hato

まだノースリーブが着れるくらい、雨が降っても蒸し暑い初秋夜半です。晩ご飯のあとは、2人が気に入りの机にそれぞれ向かい、それぞれのことをします。

すこし前に、よく行くスーパーで見つけた、あかしあ蜂蜜。ちょっと奮発ものでしたが、買ってみてとてもよかった。紅茶を入れて、はちみつにさっと浸したスプーンを溶かして飲みます。朝、仕事の前と、今日はubik0101さんが紅茶がいいというので、虫たちのいい声を聴きながら、飲みました。はちみつはごく少量で、お茶がやさしい味に。

No.4954 - 2015/09/03(Thu) 22:21:51

Re: ノートに向かって、 / ubik0101
たとえば真理が真理を、自分が自分に目標を立てて探るというのは、変なのです。どんな目標も立て得ない探ること、その全体の働きに、たとえば私は何?と(結果として)名前をつけるのです。人間関係の心理的な思考は、そのような探求の扉、までのことです。

その扉を閉じたままにするのも自分でしかありません。もし過去の自分が、相手がどうだったか?とか人間関係を探っても、おおむねそれは空想です。この自分が、こう、であることを、こう、と思考すること。そんな探求が、扉を開けて、探求を導きます。

もしなにも考える、探ることがないなら、なにも考えることがない、これはなぜ?から始めれば・・・ここから自分の無意識を探ろう、という多少の決意を要しましたが・・・そこから自分の足下を掘ることが始まったりします。

そうならば、なにを見ても、見なくても、なにを考えても、考えなくても、何かをしても、しなくても探求です。いつも言いますが、ときに探求は詩となり、ときに絵となり・・・それは、どんなことでも、私は何?であり、迷ったり、見当はずれはできないのです。

No.4955 - 2015/09/04(Fri) 11:15:44