たとえば明日は晴れたら、海に行こう、とか。草むしりをしよう。と考えたとします。さて、その思考に、そうする決定権があるでしょうか?そう思考して、そう行動すると、思考は何となく思ってても、実は、決定権はないのではないでしょうか。
では、なにが、行動を決定してるでしょう?これとなくですが、気力とか、決意とか、そうしようという身体というか、亊の流れというか、世界の動きが、そこで始まってるのではないでしょうか。そうです。思考は思考するだけで、なんの決定権もないのです。
それで、たとえば草むしりしながら、それとなく、ああ海に行けばよかった。九州の知人は元気だ。そーだ、怒りや不安がなければ、架空の因果の思考をしないのだから、怒らなければいい、寂しさ、悲しさがなければいい、人間関係では優しくあればいい、とか思考してたりします。
と、パソコンの前で思考しています。このように思考は,ある意味とても無責任で、それゆえ自在です。ゴミをゴミ箱に投げるとか、ささいなことでも思考が決定してるわけではないのです。このことはなかなか思考には分からないので、それを明確にすることも意味があると思います。
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No.4958 - 2015/09/07(Mon) 08:15:27
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