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記事No.4996に関するスレッドです

どこから、私は、 / ubik0101
100円ショップで買った小さな壺です。塩、砂糖を入れています。
No.4996 - 2015/10/01(Thu) 07:43:54

Re: どこから、私は、 / ubik0101
いきなり、知覚実験です。

たとえば部屋の中を歩きます。なんでもいいですが、テーブルの上の砂糖入れ、塩入れ、の周りを歩きます。すると、さまざまな所から、その小さな壺を見ることになります。それは動かず、それを見てる自分は動いています。

そこで、この自分は、この歩いてる身体の中にいる・・・たとえば地球が太陽の周りを回って、その自分は、この地球の上にいる・・・自動車で走ってる、なら、その自動車の中にいる・・・そうでなければ、理論的に変?

あるいは手足は見える。こちら側から見てるように、身体の一部が見える。そこで見えないところに自分はいるはずだ。ここ、に自分がいなければ、どうして、こんな見え方がする?世界に囲まれてる自分は世界の中心?

No.4997 - 2015/10/01(Thu) 07:47:36

Re: どこから、私は、 / ubik0101
また眼を閉じてみよう。そのまま。寝て、起きて、歩いて、身体に、ちょっとした重力感、痛みのようなの、心拍、呼吸を感じます。そこに、その感じる所に、どうして自分は、いるのだろう?または、この闇が自分?

あるいは思考しています。すると思考してる自分は、頭の中にいるような気がするかもしれません。このようなことは、なぜなんでしょう?怒ってるときには、どこにいる?嬉しい時は、どこにいる?

ここで思考実験してみます。この部屋にいます。では、ここから見えない、隣の誰もいない部屋、そこに自分はいるでしょうか?エベレストの山頂には?いないなら、なぜ、そこに、いない、のでしょう。

No.4998 - 2015/10/01(Thu) 09:06:34

Re: どこから、私は、 / ubik0101
ところで。これらは、なぜ、どのように、そう、なってるのでしょう。見る聞く、味わう嗅ぐ、触る、思考する、行動する。ことが、そうしてる自分をつくってるのです。まず初めに自分があって、

その自分が、見たり聞いたり、寝たり起きたり、歩いたりの、知覚をしてるのではありません。それは不可能なのです。逆です。でなければ、これらのことに、どうやって説明がつきますか?こんな簡単な仕組みで、ここに自分がいる。

その知覚と、ちょと離れて・・・時間、空間・・・そこに自分がつくられます。そして、この自分は、この自分を自覚不可能。それは自分に自分が、距離がないからです。

No.4999 - 2015/10/01(Thu) 09:53:02

Re: どこから、私は、 / hato

なんでも100円ショップで買った塩・砂糖入れの陶器の瓶は、いまは店頭に見当たらないようです。とても精巧にできてるのだって。そのように作ると、100円で売るのは利益が出ないのかも知れないそうです。

「なにかをしたり考えたりすることで、予め(時間を遡って)自分が作られる」。

ubik0101さんと、初めてこの掲示板で出会ったときも、ubik0101さんは同じことを言っていました。見たままだけど、あまりに突飛なので、話すのをためらったそうです。

それはその体験の開幕に、開示されたことでした。

No.5000 - 2015/10/02(Fri) 21:10:00

Re: どこから、私は、 / ubik0101
そんな、いわゆる自我は、その始まりから、見る聞く・・・思考など、世界に依存してつくられます。この依存が、日常生活全体の基調なので、あまりに当たり前で気がつかず、

たとえば執着とか、欲望とかを探っても、それを解決することは困難かもしれません。たとえば思考だけで、いわゆる観念で、それを解決したと思い込んでも、事態はそうではないこともあるかもしれません。

ところで人は、過去から、未来から見た自分、ほかの誰か、社会から見た自分。その自分で自分を感じるような気がするために、時間や空間の距離をつくります。それは総て空想で、いわゆる自我の働きです。

No.5001 - 2015/10/03(Sat) 09:10:37

Re: どこから、私は、 / ubik0101
それはもともと、世界に依存、執着してること、が基本にあります。距離をつくって自分を知ろうとする働きです。でもそれは、どいうわけか、あーでもない、こーでもない、どーでもない、を繰り広げることになるようです。

それは一種、縁起なのですが、空想の縁起で、それは永遠にだって、そのまま。そういう社会、世間。それで、探求は、そうしよというわけでもないけど、ほかに素材?もなく、できることもなく、それに逆らいます。

ただ1人、探求を始めます。この自分が、こう、であることを、こう、だと認識すること。それは空想を脱する道です。世間、社会というグランドがあって、その底に沈んで、そいうことが可能だった、と思います。うまくできてるものです。

No.5002 - 2015/10/03(Sat) 09:15:03

Re: どこから、私は、 / ubik0101
ところで思考には、空想と事実を区別する機能が装備されてないので、時間も、空間も思考を規制できないので。それで混乱が起きるのです。思考は自在ですが、まだ人は思考に振り回されてる、養育されてる状態です。

もともと思考が自在でないと、探求そのことができないのです。思考を悪者だと思うのも勝手ですが、そう思うのも思考であり、まだ思考を自在に使ってないのです。思考は悪者にされて、文句も言いません。

ところでとりあえず探求は、何もかも否定する。たとえば社会に対抗するというようなことも否定し,去る。玉葱の皮を剥くように、思考の前提を探って、それまで気がつかなかった、なにかの自己同一化を剥ぎ取る。

No.5003 - 2015/10/03(Sat) 09:18:06

Re: どこから、私は、 / ubik0101
たとえば部屋の中で時計やカレンダーを見ます。それはLED、蛍光灯などの色合いに影響を受けています。けれど、自然な太陽の光の下で見てるように、なんだかの色づけで見てることに気がつかないことがあります。

いつもの部屋の総てが、その色に染まって慣れてる、からです。思考の裏を探るとは。その思考が成立してるための前提、雰囲気、地平、部屋でいえばその蛍光灯の色の傾向、を探る、ということです。

また、たとえば怒りでありきる。思考でありきる。行動でありきる。この時間でありきる。仕事でありきる。なにか空想したことで、ありきる。躊躇なく容赦なく・・・普通の生活です。それ、と同一化する。ということがあります。

それはそう意図して始めるわけではないけど、非同一化、同一化、どちらも、距離をなくすために、結果として、機能します。それをやってる間は、五里霧中、目的も立て得ない、探求です。

No.5004 - 2015/10/03(Sat) 09:21:51

Re: どこから、私は、 / ubik0101
すこしくり返します。自分は、どこから来たのか?それはもちろん、世界です。世界に依存してつくられます。では、どこに行くのか?世界でしょうか?いいえ。違います。世界には、人を解脱させる機能があります。
No.5005 - 2015/10/03(Sat) 09:56:27

Re: どこから、私は、 / ubik0101
さて探求は、目的を設定しない探求で大丈夫です。探求が、探求を導きます。なぜか地面を耕すと畑になります。なぜか生ゴミを混ぜて、しばらく放置します。すると人は眠っていても、雨風や微生物が仕事をします。

そして、なぜか種を蒔きます。水を撒きます。雑草を抜きます。このようなことが何の計画もないかのように起こり。探求は、探求が導き、収穫に結びつきます。結果、いきなり蕪や大根。それは振り返ればですが、必要な経緯をたどったのです。

そのためには、1人あって、自分が、こう、であることを、こう、認識するだけです。いかなる教師も、哲学も、宗教も、自分の探求に答えることはできません。ただ自分で見いだすことしかないことを誰も、なんとなくわかってて、世界はそれに応えます。

hatoさんが、どっかから引っぱり出して来た、ubik0101が1977年に書いた、日曜哲学者の手記、です。これを自分で読むことになるとは、思いもしてませんでした。

No.5006 - 2015/10/05(Mon) 07:57:57

Re: どこから、私は、 / ubik0101
走り書きなので、とても読めるような文字になってないだろうと思ってたのですが、案外に読めます。ある程度、それまでの経緯を、まとめてみようとしたのだと思います。原文にない、段落をつけます。hatoさんが書き写してくれました。


10/30 序


日々が透明です。私は私を自由だと感じます。ただこの自由と感じるのは勝手であります。話をしましょう。あるところに、着物のデザイナーがいまして、彼は、そのデザインは無限であると言っております。

確かに一本の線は無限に変化します。一本の線を決定するのは無限の可能性のうちの1であります。が、私は、これに不信するものです。

それは無限ではありましょう。が、限られたなかでこそ感じられるそれです。その無限は無限そのものを知ってはいません。その無限は、偶然と必然の関係をないがしろにして、つまり馬鹿になっていて、それゆえ有り得る在り方であります。

No.5007 - 2015/10/06(Tue) 21:55:16

Re: どこから、私は、 / ubik0101

真の偶然とは必然のことであります。さて、自由についても同じです。自由は自由の何たるかを知って自由なのであるべきであります。私は自由を、どーいうものか知りません。価値あるものとも思いません。

ということは、そのことがすなわち私を自由でなくあるという証明であります。着物デザイナーは無限のなかで遊んでいるのです。子供がブランコで遊べるように。つまりブランコは行ったり来たりの振れでありますが、それをそれだけのものとはしないようにであります。

行ったり来たりを体験しながら、つまりただひとつの有り方でありながら、全てのほかの可能性を見ているのです。言い方によっては言えます。私は自由を知りませんが、自由 それは自由のなかで遊ぶためです。しかし私はこれは大嫌いであります。

No.5008 - 2015/10/06(Tue) 21:56:56

Re: どこから、私は、 / ubik0101

でも救いがあるのは、ひとりで遊んでいるところです。私は、例えば、4時23分32秒には、写真のひとコマです。一枚のそれでしかあり得ません。しかし、ありとあらゆる人間的な可能性のなかで、その一枚です。ほかのところにいたり、ほかのことを考えたり、ほかのことをしているのではないことを意識している、それであります。

私は偶然と必然の接点であります。いつか私は運命の歌を書きたいと考えていました。つまり運命とは、偶然と必然を超えたものなのです。人間はその人間のなしてきたことや、なさなかったことに縛られてはいけません。運命に従属してはいけません。

なされたことや、なされなかったことや、なされることや、なされないことは、その人間そのものでありません。しかし私は一枚の写真です。眼を通して世界をそのとき見ています。いまそれであります。

No.5009 - 2015/10/06(Tue) 21:59:57

Re: どこから、私は、 / ubik0101

さて、4時23分32秒から1瞬たちました。まったく1寸先は光であります。世界はさわやかに存します。アッ、彼自身の偶然と必然によって、三井君が歩いているのが私の目に入ってきました。私は三井君の性格やらを思い考えよーとするでしょう。が、まだしていません。

が、次の瞬間すぎにはそうするでしょう。分かりますか、気がつきますか。そうです、人間って、自分の思い考えることさえ、自分で決められないのです。なんと素晴らしいことでしょうか。なんて自分と世界は無限に離れているのでしょう。私は無限のただなかにいるのです。

なかなか意味不明だけど、なんか基調は、今日この頃と、あんまりかわらないな。と、いう印象です。これから、あの体験まで10年ほどでした。

No.5010 - 2015/10/06(Tue) 22:09:02

Re: どこから、私は、 / ubik0101

11/3

・・・略・・・

世界は私にとって、相対的なもののかたまりではない。「空気は美しい。」日常の私の感じはこれ「空気は美しい」である。これ以外に一歩もでない。

考えることさえとてもそのてがかりはない。世界は音のないセン律である。つまりおおざっぱに思うなら、美しい空気を感じている「その美しさ」が私である。

光が目に見えるようだし。時間の流れる音が聞こえそうだ。しかし先にいったようにそのものは、そのものによって示されねばならない。

・・・略・・・


ま、日曜哲学者の手記は、このへんで。

No.5011 - 2015/10/06(Tue) 22:43:31

Re: どこから、私は、 / ubik0101
その体験。それは、その人の努力に関係なく、関係ないこともなく、突然に起こります。そして、それ、は、それ、と必ずわかります。探求する人には、その体験の読み解きができるのではないかと思います。これは大事です。
No.5012 - 2015/10/07(Wed) 19:09:01

Re: どこから、私は、 / ナツメ
> その体験。それは、その人の努力に関係なく、関係ないこともなく、突然に起こります。そして、それ、は、それ、と必ずわかります。探求する人には、その体験の読み解きができるのではないかと思います。これは大事です。


こんにちは。
そう、それを心待ちにしている私がいます。
以前は、それを体験する事で人より優位に立ちかった、自分は正しいのだと思いたかったような、、、
でも今はなんで切望しているのか?
こんな自分でもいいのだと自分自身に言い聞かせたいのか、、、

まぁ、じっくり楽しみにその時を待とうと思います。

今日は風が強いですが、よい天気です。

No.5013 - 2015/10/08(Thu) 12:50:33

Re: どこから、私は、 / hato

ナツメさんこんばんは。コメントをありがとう。

ubik0101さんが所用で出ていて、10日の土曜日に帰宅予定です。またお返事させてもらいますね。

一昨日、久しぶりに海に行ってきました。釣り人は、釣果はともかく、海と魚と対峙してる、集中したそんな瞬瞬が楽しいのかも知れませんね。初秋、夕方の海の風景です。

No.5014 - 2015/10/08(Thu) 21:54:45

Re: どこから、私は、 / ubik0101
それは、その瞬間までわからないです。なにか誰かの言葉とか、なにかの出来事とかの切っ掛けがあっても、なくても、それは起こります。すでに人は縁起にあって、そのことが一気に活動すればいいだけだからです。

それでも思うのですが、人が素直なこと、正直なこと。自分の都合を一番上位に置かないこと、公平ということ、丁寧ということ。相手によって態度を変えないこと。誰かの所為にしないこと。自分でできることを人頼みしないことなど・・・蔑ろにされやすいことですが、決定的なことです。

それに、自分が正しいとか・・・誰がそんなこと言おうと・・・こんな自分でいいとか・・・探求は、そんなことを忘れる道でもあります。そんな何もないところが始まりです。《仏道を習うといふは、自己を習うなり。自己を習うといふは自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり・・・》。道元。

その体験は、誰に起こる、彼に起こらない、ではないです。ただ、認識?説明?するのに、ほかの人ではないから、自分に起こった、と言える。自分が特別でもない。なので自分は悟った、ほかの誰かは悟ってない、というようなこともまた、ないです。そんな世界の総活動。そこが扉です。

No.5015 - 2015/10/10(Sat) 16:33:00