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記事No.5028に関するスレッドです
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どこから、私は、2
/ ubik0101
引用
いつものように、なんとなく雑多な思考をしてて、
その思考の始まりを見たことがあるでしょうか?
なにもないところから、ぽっ、と思考が始まる
そこ、を目撃したことがあるでしょうか?
そうでなく、いつのまにか思考は始まっていて、
その途中に気がつく、ということでしょうか?
まず自分があって思考するなら、その自分は自覚不可能でも、
思考の始まるところを、見るでしょう。
No.5019 - 2015/10/19(Mon) 10:04:52
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
引用
つまり、まず自分があって思考するのではなく、
その思考によって、その自分がつくられてる。
それ(思考)、を意識する、それ(自分)、は
それ、から時間・・・距離をとって、
後から、つくられてるのではないでしょうか。
すくなくとも、まず何かが始まってなければ、
それを意識することができないなら、
まず先に自分があるわけではないでしょう?
それが意識され得るような気がする
自分・・・自我・・・ではないでしょうか。
No.5020 - 2015/10/19(Mon) 10:07:18
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
引用
そのように、その意識され得るような
気がする自分は、
思考だけでなく、行動、言葉・・・世界につくられ、
世界は、
自分が生まれる前から、ある
重く盤石なものとして感じるでしょう。
また世界と同じように、思考も途切れなく
続いてるように感じるかもしれません。
No.5021 - 2015/10/19(Mon) 10:08:26
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
引用
その自分は・・・思考、行動、言葉、感情、履歴、持ち物、環境・・・それらが絡み合って・・・自分を作る原因なので・・・それ、を守る必要があるでしょう。その自分を守るために。
たとえば、傲慢、強情、我が儘、非難と正当化、優劣、嘘、不実、恐れ、嫉妬、偽善、人の話を聞かない、愚かさ、も必要でしょう。それは、苦痛です。
それは自分で自分の足を引っ張って悟りの邪魔してるのです。もう、そいう苦行は、十分です。これを続けても無意味です。それを思考によらず、日常にあって、生活にあって、打ち捨てるのです。
No.5022 - 2015/10/19(Mon) 10:11:47
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
引用
そこで、1人あること、人と人の間に隠れないこと、素直、誠実、なにも頼りにしないこと、自らを義としないこと、責任転嫁しないこと。根拠のないことを理由にしないこと・・・自分で自分を誤摩化さないこと・・・です。
そのこと自体はなんでもない些細なことと思われるかもしれませんが、それだけで人生が何になるのか、という結果が違ってしまいます。この簡単なこと、自分の行動は、自分の言葉は、自分の思考は、自分で見える自分で聞こえる自分で分かる・・・素通し・・・ほんとうに、ほかに秘密はないのです。
No.5023 - 2015/10/19(Mon) 10:13:14
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
引用
それは、そうしようと気張って、そうすることではありません。人里離れて一人暮らしとか、そういうことでもありません。その自分の奥を見る探求が、たとえば傲慢も、謙りも共に捨て、素直であらざるを得なくなるのです。
とくに自分さえ、世界がつくってくれるのに、なんであれ世界がしてくれてるのに、それを自分でしてると思い違う・・・都会に住んでいても、田舎でも・・・ほかの誰彼からではなく・・・自我の関係から離れるのです。
No.5024 - 2015/10/19(Mon) 20:30:50
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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もちろん自我だろうが、無我だろうが、それだけなら、そんなのどーでもいいと言えます。それが解脱に役立つから、ときに大事になるということです。それを世界が望んでいます。この自分が望んでいるわけではないのに、
なぜか真善美であろうと動く・・・つまり世界はそう望んでる・・・そのために偽善、嫉妬も、善悪も、傲慢,素直、嘘、真実、努力、怠惰、守る、捨てる・・・なにひとつ欠くことなく総て役に立つ・・・そのように世界は人の解脱を望んでいます。
No.5025 - 2015/10/20(Tue) 08:11:02
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Re: どこから、私は、2
/ hato
引用
今日もいい秋の一日。
休日、ちょっと掃除したり庭仕事を済ませ、2人とも、なにか落ち着かない感じで過ごした午後おそく。
えいやと奮起して、海に出かけました。
ちょっと遠出。初めての場所です。ゴーッという海鳴りが、遠く近く響く、初秋、太平洋の夕陽です。
No.5026 - 2015/10/20(Tue) 21:19:52
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Re: どこから、私は、2
/ hato
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もう一枚。
No.5027 - 2015/10/20(Tue) 21:21:06
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Re: どこから、私は、2
/ hato
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ほぼ180度全開、水平線のパノラマでした。
No.5028 - 2015/10/20(Tue) 21:45:22
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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ところで。自分が、ない、と言う人に聞きたいことがあります。
ない、って、どいう意味?
ほんとうに、ただ、ない、ってこと?そのない、って、どいうこと?
たしかに自我の中心は、ない、です。それだけ?
知覚にとって、私は、ある、も、ある、は、ある、に差がないゆえに、ない、です。
No.5029 - 2015/10/20(Tue) 22:16:43
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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たとえば壁に掛かった、時計が見えます。すると、あっちに時計があって、その距離、つまり空間があって、こっち、に私がつくられます。
そこで、眼を手で覆ってみます。時計も
電気スタンドも、この手も見えません。
それは距離がないからです。
そこで顔を手で覆った感覚が起きています。
そこに、その感覚、その身体の内部に
私がつくられます。
たとえば、あんまり美しくないものが見えるとします。こっちに、嫌な気持ちが起こります。なにか美しいものが見えたとします。こっちに、素敵な気持ちが起こります。
No.5030 - 2015/10/25(Sun) 19:11:40
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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たとえば過去の記憶を見ます。すると、あっちに記憶があって、その間の距離、つまり時間があって、こっちに私がつくられます。
また、この今を意識しようとしても、きっとできません。
距離がないからです。
いわゆる外から内に向かって。あるいは内から外に向かって、距離をとって、その中心は、ない、としても自分がつくられます。
そして、なにか時計とか電気スタンド、記憶とか、身体などの対象に、焦点、は接着しやすいのです。人には、そいう癖、特性があります。
No.5031 - 2015/10/25(Sun) 19:12:33
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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ここで、あっち・・・こっち・・・どこかに知覚?、意識?の焦点を、定めることができます。つまり、空間でも時間でも距離・・・あっち、たとえば時計、たとえば記憶と・・・こっち。たとえば頭、そこに知覚?、意識?の焦点を定めることができます。
そこで何か、時計や花が、見えるということは、すでに空間があるということです。その空間は、自分と繫がっていませんか。空間は、自分の中に流れ込んで、また流れ出て一杯に広がっていませんか。その空間に、焦点は合わせることはでき得ますか?
その何かを見てる、何かが見えてる、その自分の眼は、たんなる風穴、節穴、障子の穴、ではないでしょうか。世界と自分、素通しです。そして、自分、そのことは、まったく知覚不可能。くり返します。焦点は、なにか、木や花や記憶、思考、感情という対象に、
くっついて、それを頼りにして、目印にして、接着して落ち着く性質があるようです。時間そのことに焦点を合わせることはでき得ますか?その、あっち・・・こっち、その焦点の合うところに、自分、がいませんか?
No.5032 - 2015/10/26(Mon) 07:31:39
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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フェイジョア、ゴールデングース、デンズチョイスの実が完熟して落下していたので、さっそく食べてみました。これは美味と言えると思います。
いちじくとネーブルを掛け合わせた甘酸っぱい、香りもいい南国の味、とhatoさんは言っています。写真はマリアンの実です。
No.5033 - 2015/10/27(Tue) 08:18:31
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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一週間前に行った、汽水域。景色がいいので、今日も行きました。投網を打ってる人、けっこう流れが速いので効果があるのか疑問ですが、テトラから撒き餌をしてる釣り人たち。
こちらはいつものように安全な岸から、一本の竿と糸と針に、オキアミ餌で、釣り開始です。フグ多数、黒鯛の幼魚3匹、総てリリース。清潔感もあって、結構、この場所は気に入りました。
No.5034 - 2015/10/27(Tue) 19:56:02
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Re: どこから、私は、2
/ hato
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海岸を歩いていると、発見しました。まえにもほかの海岸で見つけたことのある、懐かしいあしあと。砂のなかを虫さんも歩いた模様。
ちょこまかと、しかも回転しており、
かわいいです。
No.5035 - 2015/10/27(Tue) 21:25:08
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Re: どこから、私は、2
/ hato
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上の画像の補足説明をしますと、
かわいいあしあとは小さな鳥さんと思われますが、チョコチョコ歩いてってクルクル回り、力をためてエイヤっと、飛び立ったもよう・・の模様です。。
その下のが虫さんが潜行の模様、こちらもくるり回転のもよう・・です。
今日はすこし早めに行ったので、ぽかぽか陽気の秋の海を楽しみました。
No.5037 - 2015/10/27(Tue) 21:57:41
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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その焦点があるところに自分がいる。では、その焦点が自分でしょうか?もしかしてそれは、あっち、と時空という距離と、こっち、という関係でつくられた焦点かもしれません。
では、あっち、こっち、その焦点を動かしてるのが、自分でしょうか?でも、これは、自覚不可能ではないでしょうか。これ、とも呼べない。なにか、とも呼べない。
ある、とも呼べない。ない、とも呼べない。あえて、ない、と言っても、ある、と言ってもいいけど。まったく規定され得ない。これを人は守ってるかもしれません。
そーいえば、子供の頃、大きくなったら、何になりたい?そんな質問をされたものです。科学者?漫画家?教師?総理大臣?いや、どんなものにもなりたくない。
子供でいたいわけでも、大人になりたいわけでもない。なんであれ、なにかと規定されたくない。これは人によって、違うだろうか?ほんとうに違うだろうか?
No.5038 - 2015/10/29(Thu) 20:17:17
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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その、なにがなんだか認識不可能な自分、これを失うことなく、損ねることなく、壊すことなく守り・・・ほかのことではなく・・・これを探りたいのではないでしょうか。
そこで、たとえば、ケーキ屋さんに、社長さんになりたい・・・この認識不可能な自分を放っておいて、なにか個別な、対象にでき得ることになりたいというのは・・・どちらかしかできないということはありませんが・・・自分を諦めてるかもしれません。
そいうのは、好き嫌いに、快不快に、損得に依拠する人と。執着に、欲望に、権力に、依拠する人と、呼ばれ。いつか自ら望んで・・・みんながそうだからとか、それぞれの理由で・・・そうなった、のかもしれません。
そうでなくて、ただ自分に依拠する、と言われることもあります。が、ほかのもの、ことに依拠しない。そして自覚でき得ないのですから・・・個別の対象にできるものではないのですから・・・その自分にも依拠できない、しない、ということです。
No.5039 - 2015/10/30(Fri) 09:45:04
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Re: どこから、私は、2
/ ubik0101
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それでも、まずは快不快、欲望など、無意識にでも問題があって、それを解いて行くということは。そうと気がつかないでも、問題が問題を、自我が自我を、自ら余すところなく開示して行く、ということです。
そんな探求は、探求が探求を導きます。その簡単な道は、たとえば傲慢も卑下も、信仰も反信仰も共に捨て。素直であり、こう、自分があることを、こう、理解するほかに必要がありません。
話を戻します。この自分は、どうやっても認識不可能。ここで自我とは、快不快、損得、好き嫌い・・・欲望、執着することによって、そうしてる、その自分を認識しようとする機能とも言えます。
No.5040 - 2015/10/30(Fri) 09:48:54