たとえば、自我はその自分を知ろうとする働きです。それは周囲も自分も騒がせて、まるで泉を掻き回して、青空や、人や、森が、世界が映る静かな水面を知ろうとするようなことです。
つまり、逆です。しかも、その知ろうとしてる、自我の中心は、ない、です。これは、興奮させられる面白いゲームで、一生でもそれをやり続けることはできるのかもしれません。
ただ放置すること、たとえば誰かから見た自分、その誰かの意見、判断、軋轢・・・それを放置する・・・そんな簡単なこと。あまりに簡単で、つまらないのでしょうか。
けど、実際は、探求のほうが絶対に面白い。その部屋を見てみよう。その窓から外を見てみよう。そこには、自我も,無我も、意味も、不意味も、真我も、基底も、因果も、即今も、分離も、総て一つも、なにもない、です。
そのなにもない・・・説明するなら、自我も,無我も、真我も、意味も、不意味も、基底も、因果も、即今も、分離も、総て一つも・・・すべてあるから、特定の個別のことは、なにもない。
たとえば、光の色を総て重ねると、透明、になるように、赤も、黄も、緑も、特定のことは消えている。この世界そのことがそうなんだ。さらに説明するなら、絵の具の色を重ねると、黒くなる・・・自我はそのようです。
しかし、なんであれ、役に立つ。自我も、無我も、真我も、なにも排除することもなく、たとえば無我、それだけを採ると、それは狂った思考だ。真我だけを採ると、たとえば、総ては一つだけとると・・・それは自我だけに生きることと、さほど違いはない。
どうして、そんなに馬鹿でいられるんだ?
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ほかの名前で、ほかの掲示版に、投稿してみました。
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No.5058 - 2015/12/17(Thu) 10:03:08
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