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記事No.5071に関するスレッドです

体験って、 / ubik0101
ショッピングモールの通路で、向こうから歩いて来た知らない男性が、自分だった。まじまじ見たけど、やっぱり自分だった、その男性が通り過ぎ見えなくなると、その感覚はかき消すようになくなった。

これはドッペルなんとか・・・自我の死・・・を意味するのかな?とも思った。けど、自我とか、無我とか、真我とか・・・いまさらだし・・・そ、ではないだろう。

それから食堂でテレビを見てると、正月番組なのでしょう。なにか国会議事堂みたいなところで、和歌みたいなのを誰かが詠んでて、カメラはその部屋の中を映しながら移動して行き、

ちっと高慢そうな着飾った、三人のお姉さんの内の1人が、自分だった。なぜ、この1人だけなんだろう。しかもテレビの画面の中。でもやはり彼女は自分だった。

No.5067 - 2016/01/09(Sat) 06:51:42

Re: 体験って、 / ubik0101
それから、料金500円の山の中の温泉の露天風呂に浸かってて、向かいの山が自分だった。これはたぶん、あらかじめ機能してる自分が山を見てるからではなくて、

あの見える山によって、見ている自分がつくられるからかもしれない。と思ったけど・・・どうもそれだけとは言い切れないような気がします。そのとき確認したけど青空はとくに自分というわけではなかった。

まあ、こいうことが起きると、これは悟り体験で・・・みんな繫がってるとか、世界は1つ・・・とか感じる人もいるらしいけど・・・そんな悟りという凄いことじゃないでも、

そいう体験は、ただ起きる。それでいわゆる悟りって、そいう体験そのことではないと思います。ここはとても微妙だけど、体験は扉、あるいは通路で、悟りとは分けられないのだけど、

No.5068 - 2016/01/09(Sat) 07:17:02

Re: 体験って、 / ubik0101
この辺りの造り酒屋の麹が500gで約400円。というわけで、ありあわせのヒマラヤの岩塩175gと水を混ぜて、塩麹をつくることにしました。とても大量、ほんのりピンクです。これで毎日混ぜて10日ほどでできるそうです。
No.5071 - 2016/01/11(Mon) 11:32:50

Re: 体験って、 / ubik0101
まったく同じことではない。と感じます。たしかに起こったことは事実として確定し・・・どんなことでも・・・たとえば、青空に乱れに乱れる飛行機雲、自転車に乗る、

12時になると寺の鐘が鳴る・・・どんなことでも・・・くり返したり、やり直したりでき得るように思えても、一度だけであり・・・偶然と必然は同じことである・・・そのように、

その体験と悟りは分けられないんだけど、それでも、みんな繫がってるとか、世界は1つというのだけが真理というのは、あまりに短絡的ではないでしょうか。

たとえば美しい、神秘な、絵。それは表現で。その絵・・・色と形の配置・・・と、そこに表現されてること・・・美しさとか、神秘・・・と、おなじだけど、やはり違うように、

No.5072 - 2016/01/14(Thu) 08:48:14

Re: 体験って、 / ubik0101
なんであれ、今ここでもいいけど。私はない、でもいいけど。私はある、でもいいけど。総てはひとつ、でもいいけど・・・それそのことが真理と思われても、

それは目的地ではなく、通路。扉。と、言えば言い過ぎかもしれないけど、直接的に、自我とか無我とかではない、即今とかではない、その通路を歩かなかった、そんな悟りもあります。

たしかに悟りは・・・無我とか、即今とか・・・そのような有り様なのですが・・・そう説明され得るとして、そのように自分で納得し得るとして。それは迷いも、自我、過去未来も、空想も、そうなのですが、

たとえば・・・ない、ということ、ある、ということ、今ここということ、過去未来ということ、あるいは総てはひとつにしても、分離にしても、記憶にしても、非難と正当化にしても・・・なぜ、これ、が、これ、なのか?

No.5073 - 2016/01/23(Sat) 22:06:27

Re: 体験って、 / ubik0101
まったく知りようがなく、ここで悟りも、迷いも区別はなくて。この怒ったり、笑ったりの日常。怒るということが、笑うということが、見えるということが・・・なぜ、見えるということ?聞こえるということが、

なぜ、聞こえるということ?思考するということが・・・つまり、なぜ、それ、は、それ?迷いは、なぜ、迷い?その知りようがない・・・この、なにも知り得ない・・・それは普通の怒ったり笑ったりの日常・・・知覚・・・に依存するということです。

それは、訳判らないことに依存してるのですから、依存そのことも、なぜ、それは、それ?なのですから、なにも依存しないということと、等価です。過去,未来は空想で、今ここはリアル、だとしても、そのリアルに。分離が空想で、総てはひとつが真実だとしても。

また自我が空想で、無我が真理だとしても、その空想にも、リアル、事実、真理にも依存しない・・・また、悟りも、迷いも、自分が何かを知らなくても、なにも問題ない・・・ここを、

うまく言えるといいのだけど、ふつうの日常、これで完璧。だけど、それでも、では、歩いたり、見たり、思考したり・・・知覚・・・とは何?これは必然的な疑問ではないでしょうか。

No.5074 - 2016/01/23(Sat) 22:24:12

Re: 体験って、 / hato

今年の初仕事は、家内作業、膨大な書類整理整頓から始めました。けっこう、大変。ですが、寒い季節、家に籠って時間を使って、じっくりやります。

ふと窓の外を見ると、ミューが桜の木の枝に登って日向ぼっこしていました。とりわけ冷え込んだ日中でしたが、低い地面よりも、暖かそうに見えたのでしょうか?

No.5075 - 2016/01/23(Sat) 22:51:59

Re: 体験って、 / hato

古家の脇の白い山茶花が、かわるがわる花を咲かせています。ここに来てはや6年、木の繁り具合に、なんだかとても大きくなったような気がします。

No.5076 - 2016/01/23(Sat) 23:08:01

Re: 体験って、 / ubik0101
たとえば、嘘、を定義してみましょう。現実と言葉が違うことでしょうか?しかし現実とは何でしょう?これは自明でしょうか。そうでなく極端を言えば、あの映画/羅生門のように、

人によって違ってしまう、訳の判らない現実があるとして、それを根拠にしたら定義とは言えないでしょう。嘘。それは、自分の行動、発言、思考が互いに矛盾することではないでしょうか。そして、自分の行動は自分には自明でしょう。

発言は自明でしょう。思考は自明でしょう。(これが素通しで自明であれば人は嘘を言うのが困難)。このように、どうやら定義は自明なことを前提にするのです。なぜ、それを自明とするのか?それは、知覚、です。

知覚されることを、自明と言うのです。たとえば、自分があるにしても、ないにしても、分離にしても、ひとつにしても、日常が神秘にしても、思考にしても、知覚に依存するのです。その知覚は,どのようなのでしょう?

No.5077 - 2016/01/24(Sun) 16:12:57

Re: 体験って、 / ubik0101
たとえば思考が頭の中?に発生すると、それを誰かに話し続ける人もいます。それでも足りず、なんでもないところから空想を発生させ、あーでもない、こーでもない、どーでもないと思考し、

とめどなく不平不満を捏造する・・・そのように思考に依存することもあるでしょう。それは思考が問題なのではなく、人が思考の奴隷ということが問題なのです。ご主人様である、ありもしない思考、空想、を崇め、追い求めるのです。

こういう誰かや自分の状態を嫌うと、思考は問題だ。となりやすいかもしれません。ところで、この思考とか不平不満とかは知覚されることです。その知覚に依存してる、それを自分の根拠にしてる、のではないでしょうか。

なんだかの主義とか主張とか信念とかはそうなのでしょう。思考だけではなく、知覚一般、この蜜柑は甘いとか酸っぱいとか、この数式は自分が発見したとか、正しいとか、それだけのことで争いが起こったりもするでしょう。

そして、今ここ、総てはひとつ、私はない、ある・・・なんであれ、それも・・・たとえありのままの?静かな?認識であろうと・・・見る聞く触る味わう思考する・・・知覚依存です。

そーいえば昔の中国の禅者が、修行者に向かって・・・言い得ても三十棒。言い得なくても三十棒・・・と言ったそうです。悟っても棒でメッタ打ちだぞ、迷っても棒でメッタ打ちだぞ。ということなのでしょう。

まったく伝統的な理解は知りませんが、迷っても、悟っても、知覚依存でどうするんだ、それでいいのか?と言ってると見ることもできそうです。知覚とは、何?

No.5078 - 2016/01/25(Mon) 10:51:33