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記事No.5085に関するスレッドです

・・・では、知覚って、 / ubik0101
すこし纏めます。そーいう分類があるとしてですが・・・たとえ悟りでも、迷いでも、善でも、悪でも、美醜でも、自我でも、無我でも、真実虚偽でも、過去未来でも、今ここでも・・・知覚に依存する、

ということです。そいうことは限りない知覚野があるとして、そのどこかが活性化してるというだけ・・・しかも、その知覚野の、裏打ち、基底がない・・・これが、この、このこと、

そのことが・・・不思議、神秘という感覚です。世界が、神秘。生きてることが、神秘です。そして、ここで知覚がなければ、知覚に依存しないも、ありようがないでしょう。たとえば知覚がない、とします。

そこで、知覚に依存しない、も有り得ない、です。この世界に生きながら、 この世界に依存しない、それが世界にあって、でき得るということです。これは世界に、その裏打ちがない、基底がない・・・ぽっと、

この日常があるだけ・・・空とか、神とか、理念とか、地獄天国・・・まったくない・・・海と、波。根や幹と、花・・・実在と現象・・・もない《糸の切れた凧》であって・・・それはもしかして、なにかに依存する経緯を辿るなら、不安、恐怖を難じることかもしれません。

No.5079 - 2016/01/26(Tue) 10:41:26

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
それで、死が恐怖ということは、まったく知覚がないという・・・空想・・・に恐怖するのではないでしょうか。自分が死んだ、ということも判らない・・・知覚がない、も知覚でき得ない、

と、それを空想することが、底知れない恐怖ではないでしょうか。これはいろいろ経緯はあるでしょう。たとえば、この世界の裏側、基底が、私だ。あるいは、私は根や幹ではなく舞い散る、枯れ葉。またあるいは、そのどちらでもない。

あるいは、自分なんてない、今ここ、未来過去、分離、融合、葛藤、平安、喜怒哀楽、輪廻・・・(よこいと・・・緯)、それはさまざまな知覚野の問題を解決する過程でしょう。

そして愛・・・それを人が感じようと感じまいと・・・つまり知覚に依存しない・・・世界に溢れてる愛・・・その源・・・神、実在、第一原因・・・(たていと・・・経)それは一気に解決するでしょう。私は、ある。しかし、それでも、知覚って?

No.5080 - 2016/01/26(Tue) 11:19:44

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
窓際の豆苗の切り株から、新しい芽が出てきました。まだ暗い早朝には、真っ直ぐですが、光が差し込むと、そちらに傾きます。
No.5081 - 2016/01/26(Tue) 12:11:35

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
・・・ここから、ほかの掲示版への投稿・・・

それはそれとして。あるない、って、どいう意味か考えてみました。ある・・・それが機能してて知覚されてる・・・たとえば、宇宙がある、ここに時計がある、幸せがある、青い空がある・・・つまり、それが機能してて知覚される。



そして、それが機能してないで、知覚される・・・故障した時計・・・ここに時計が・・・あるけどない、とか。電池があるけど、ない、とか。そして機能してないで知覚されない・・・濃く冷たい、ない。機能してて知覚されない・・・薄く暖かい、ない。



ない・・・は、かなり複雑。それが、それ自身を知覚できない・・・つまり・・・たとえば、私は(それが宇宙だとしても)ある、も、ある、でありきって、私はない。私はない、も、ありきって私はない。知覚とは、差の認識。花、鳥、風・・・知覚にとって世界とは、この何がなんだか解らない私との差の認識。

・・・ここまで、ほかの掲示版への投稿・・・

つまり、見える,聞こえる、思考するなどの知覚は、なにがなんだか判らない自分との、なんだかの違いがあって、起きてるということです。もし、自分が世界なら、自分も世界も消えてしまいます。そういうことが起こり得るということは、

まったく人って何がなんだか判らない(好みではありませんが、未知とか、絶対とか、無限定とか呼んでもいいけど)・・・それ?そこ?これ?とも言えないけど、に見る聞く思考する・・・知覚が起きてる・・・その自分はゆえに・・・自分で自分を対象にでき得ないというだけではなく・・・知覚不可能・・・です。

No.5082 - 2016/01/26(Tue) 18:40:51

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
それで、なんでもいいですが、今ここ、過去未来、分離、ひとつ、自我、無我、意識、無意識、善悪、美醜、葛藤、平穏・・・そいうのは、誰の、彼の、意見というわけでもない、です。数学とか物理の方程式のようで、それを使って、自分?疑問?を解くのです。

つまり自明なこと、知覚がなんであるか・・・公理が、公式が、なんであれ・・・たとえば自我無我が、甘い辛い酸っぱい、思考が・・・なぜ、それ、が、それ、なのか、解らない・・・というより判らなく、なければならない・・・それでなくては、疑問を解くことが不可能。

どうやら、いろんな体験、いろんな意見、があるようだけど、その意味を統合して協力して探れば、どんなにいいだろうと思うけど、やろうとする誰かを見つけられない・・・だけです。

No.5083 - 2016/01/26(Tue) 19:16:47

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
すこし知覚野の活性化の範疇の説明をしてみます。たとえば、(a)花という言葉は、花ではありません。まったく表現することされることは無関係です。

それゆえ(b)花という言葉は花を示します。わずかでも言葉とそれが表現することが関係あるなら、言葉は正確に機能しません。

ここで(a)は、

なんでもいいですが、たとえば愛という言葉は愛を示しません。月でも、少年でも同じです。ここでは、見る聞くなどの知覚と、言葉による思考とは違うという実感があるかもしれません。知覚野に分裂があります。

これは実は思考が自在ではありません。愛という言葉が愛を示していません。嘘である可能性があります。言葉は信じられない、ということです。

それは単に、その言葉を言った誰かを、あるいは自分を、信じられない、という状態です。そのように思考が適切でないと・・・言葉がその意味と乖離してると・・・つまり、それ、が、それ、を現してない状態だと正確に・・・思考は問題だ、と思考は思考するのです。

しかし、「言葉は、事実を示さない、」というのも、言葉です。「思考」という言葉は思考です。

そして(b)は、

しかし、愛という言葉は、愛なのです。あるいは愛を示します。ほかのことを示したり、なにか隠し持ったことがありません。愛が、自分で,愛と、言うのです。A=Aです。

ここは、言葉は、それを示さないも、示すも、全体が滞りなく活性化しています。嘘を言い得るゆえに真実を言い得るのです。言葉と、それが表現することと、まったく無関係、ゆえに言葉は正確に機能します。

ここで言葉と知覚との分離がなく。見える、聞こえる、熱い、冷たいなどと同じく、思考は知覚です。知覚に分離、乖離がありません。説明ですが、見える聞こえる知覚になにも問題がありません。思考も知覚です。

このように説明すると難しいのですが、この日常にあって、素直であること、真摯であること、それだけです。怒るなら、全身全霊、怒るのです。笑うなら、全世界が笑うのです。これだけです。

No.5084 - 2016/01/27(Wed) 21:12:59

Re: ・・・では、知覚って、 / hato

暮れのすこし前に行ったきりの、久しぶり、待望の海に行きました。午前中にそれぞれ仕事を済ませ、午後の成り行きで車を飛ばします。

ここ数日としては温度がありましたが、冬場の強風が、まるで見えるような日中の海岸でした。

No.5085 - 2016/01/27(Wed) 23:10:37

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
hatoさんが、

思考が問題だ、というのは嘘つきということ。と、言います。

うん、まあ、そう、では、意識って何?

意識は世界です。

・・なかなかです、奥さん。


ところで思考は、過去未来、真実、虚偽、誰彼・・・に制限されないで、機能しています。たとえば百年前に誰かが書いた、何十万年後の世界の物語でも、まるで目前?に、展開します。昨日のことを思考するのも、

何億年先のことを思考するのも、思考には障害がありません。ただこの思考の自在さに振り回される、思考に使われると、思考が問題だ、となるのかもしれません。もしかして思考がない、なにか気づいたそこに思考がない、ということで

なんか気がついたことがあるなら、それを切っ掛けとして、そのような体験を得たのです。その体験と、悟りは、おなじであっても、違います。思考は問題だ、は不要です。ここで、

できればですが、真理と思われることを打ち捨てるのです。なんでもいいですが、総てはひとつでも、実在と現象でも、無我でも、今ここでも、基底でも、愛でも、自分は仏陀です、でも、

なんでもいいですが、打ち捨てるのです。それは図らずも必然的に、自我とか、ぐちゃぐちゃした時間とか、葛藤とか、衆生とか、真理と思われない、虚偽も捨てること、です。たとえば、今ここには、今ここは、ないのです。

総てはひとつには、総てはひとつは、ないのです。私は仏陀には、私は仏陀、もないです。これそのことが、その反対としての障害、たとえば過去未来という迷いの時間、分離、自我も、葛藤、もないということです。

こういえばなにか難しそうですが、普通のことです。ご飯を食べてて、自転車に乗ってて、ヤカンが熱ッで・・・そんなことを感じても障害になりません・・・ですが、

そんなことも思ってもいない・・・その普通の日常が、そう、です。ここは、善悪、優劣、神、愛、縁起、基底・・・何も自分の頼りがないのです。説明すれば、世界は、日常は、このこと、歩くこと、働くこと、思考すること・・・が、

ぽっと、あるだけです。なかなか洒落た言い方を東山寺、せったん和尚はしたようですが《糸の切れた凧》。もとより何も失いません。たとえば・・・ジェットコースターは、出発点に戻るのです。青い鳥は家にいたのです。なんてこと・・・を信じてはいけません、よ。けっ。

No.5086 - 2016/01/29(Fri) 09:29:57

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101

たとえば光は・・・山、木、花、雪、鳥と接触して、
その世界の姿になります。

たとえば風は・・・冬の草原を渡り、枯れ草の波が起こって、
その世界の姿を現します。

たとえば水は・・・流れ、溜まり、蒸発し、雲となって巡り、
その世界の姿を現します。

たとえば火は・・・マッチに燃え、ストーブに燃え、また消えて、
その世界の姿を現します。

たとえば地は・・・高く隆起し、深く浸食され、耕され、
その世界の姿を現します。


たとえば、緑は、緑です。熱いは、熱いです。愛は、愛です。つまり、知覚は、A=Aです。これで、それがそれに乖離がありません。自明ということです。なぜそこで言葉だけが、これがこれを示さないことがある、と感じられるのでしょう。

たとえば色には、緑があれば、黄色があります。赤があれば青があります。熱いもあれば、凄く熱いもあれば、寒いもあるでしょう。そうです。さまざまな知覚が、相反するのですが、それは矛盾と感じられてない、というだけではないでしょうか。

しかし。たとえば、砂糖の味と、塩の味が、逆の知覚でしょうか?違います。そのように逆の味と思い込んでるだけなのです。赤に緑・・・補色関係・・・もそうです。熱い,寒いも、反対の感覚ではありません。

慈しみと、憎しみは、反対の感情ではありません。簡単なのです。反対のことでないことを反対のこととして認識して、そのことに気がつかないでいる領域で、人は反復運動し、発振状態になるだけです。おなじく言葉にも、慈しみという言葉、憎しみという言葉、ほかにさまざまあります。

つまりそれが機能してて知覚され得ます。それと、たとえば寒いというのは、この今ここでの、感覚です。でも、熱かった(たとえば過去)、快適ということも有り得る(たとえば未来)ということもあるでしょう。

これは矛盾といえば矛盾ですが、そうは感じません。実に言葉もそうなのです。嫌なら、ただ嫌。好きなら、ただ好き。これで、過去とか、今とか、未来とか、その特定な状態に、こだわることも必要ありません。

ここの要点は、意識が対象に接着しない、ということです。たとえば光は、風は・・・何かに触れて、関係して、世界を現します。しかしそれ、対象?に接着しないでいいのです。意識?自分?は・・・宇宙開闢138億年とか、なんであれ真理とかに触れてもそれに、接着、固着しないということです。

No.5087 - 2016/02/01(Mon) 08:40:08