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記事No.5244に関するスレッドです
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木の写真
/ 勘太郎
引用
今度は映るかな
プレビュー押してしまったので失敗しました。
No.5244 - 2016/09/25(Sun) 21:23:01
☆
Re: 木の写真
/ ubik0101
引用
>自分が無いのは理解・推測・共感できるような気がしますが、対象が無いは理解を超えています。猫はおいらを引っかくし、犬は引き綱を引っ張って匂いを嗅いで回ります。
対象ではなく、鳥は鳥として、ない、てことです。
>対象がないと、パソコンモニターは自己に映るのでしょうか?
>言葉で説明できるものなら、とっくにおいらも理解しているのですから、答えられないとは思いつつもこの疑問多くの方が持っているでしょう。
コスモスの花びらを一枚ちぎり取ったとします。すると、もうコスモスは、コスモスではありません。つまり、花びらは、部分ではないのです。コスモスの必要不可欠な構成要素です。おなじように人は世界の部分ではありません。必要不可欠の構成要素です。
それで、自分と違うものとして、世界は対象にはならない、ということです。
そこで、世界から完全に切り離された者として・・・世界を見ることは不可能です。けれど、また世界と自分、まったく同じになると・・・どちらも消えてしまいます。
つまり、見えたり聴こえたりするということは、完全に同一でも、完全に違うものでもない、からです。ほかの言い方では・・・この世界は、実在でも、虚無でもない・・・空・・・と睨んでいます。
ところで、たしかに来る人、来る人が、自分という感覚は、感覚なので説明はできないと思います。でも、なんか見ることで、見てる自分が生起します。山を見てるとそれを見てる意識が生起します。それなので、たとえば歩いて来る人が自分だった、と感じるのかもしれません。どうやら意識って、そういことらしいです。
けれど、ふつうは、パソコンは自分ではなく、ふつうにパソコンが見えます。それは、自分というのが、実に、世界でもない、宇宙でもない・・・その構成要素でもない・・・ほんとに、とんでもない、無規定の、わけのわからないことだから、ふつうに、富士山は富士山、青空は青空なんだと感じます。
こちらも古い大きな梅の木に、宿り木が取り付いてて大きな傘のように繁り、ほとんど日陰になってるのがありました。その宿り木を取り外すのは大変でしたが、梅の実がたくさんできるようになりました。
今日は、hatoさんと、海に行きました。(かわいいといってよー、と言ってます。かわいいです。)
遠州灘としては珍しく凪の、いい色の海でした。
No.5245 - 2016/09/25(Sun) 22:46:33
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Re: 木の写真
/ ubik0101
引用
↑の写真ですけど、海に向かって腰に手をして立ってるのはubik0101です。その隣り、クーラーに腰掛けてるのは女性にも見えますが、この季節は夕方になると、
イシモチが釣れると教えてくれた、初めて会った男性の釣り人です。写真を撮ったのがhatoさんです。つまり、hatoさんは、どこにも映っていません。写真を撮る、
つまり、世界を見てる聞いてる思考してる、その人は映らない、ない、のです。カメラで自分を撮れるとか、いろいろ考えられるのですが、まずは、そこです。
もちろん勘太郎さんが撮った写真にも、勘太郎さんが映っていません。
No.5252 - 2016/09/29(Thu) 18:54:53