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記事No.5282に関するスレッドです
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この書き込み板がお菓子でお茶をいただくお寺かもしれません。
/ 勘太郎
引用
ネルケさんのお話を流し読みしました。おいらもまったく勘違いしています。内側を探っている気分なんですが、実際は外を眺めているのでしょう。
内側を探るということは、今していることに集中する。すると何かが現れると期待して今を探ってしまうんです。
No.5279 - 2016/10/21(Fri) 21:52:27
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Re: この書き込み板がお菓子でお茶をいただくお寺かもしれません。
/ ubik0101
引用
すると、探求を止めなければならない、なんて言う誰かはいるかもしれないけど。ま、そんなこと嘘です。集中も、怠惰も、嘘も、素直も、内も,外も、ご飯を食べることも、探求も、総て役に立つのだけど、体験が起こらなくては、そうは言えないです。そのままでいいんだよ。というのは、どうしても違うのです。
そして悟りとは、いまこことか、即今とかとは、何も関係ないです。悟りの、結果、それが、そう、なのです。因果の壊滅です。そして、すでに、ずっと世界は人は、そう、なんです。そして誰も、そこから離れたことはないのです。それで、初めから、そう、だとも言えるのです。
たとえば自我は、削除されるのではなく、完成されるのです。ジグゾーパズルが完成したら、それはもうパズルとしての意味がなくなります。人間関係の葛藤とか・・・誰かから優れた人だと思われたいとか・・・未完だから、自分で自分を知ろうとする、完成させようとして、自我は機能するのです。
そしてジグゾーパズルは完成したとして、捨ててもいいのだけど・・・失われることも、なにもないのです。怒りも、悲しみも、喜びも、思考も、増えも、減りもしないのです。この日常が、そうなんです。なにか削除されたら、それはロボトミーか、なにかの病気です。それでも、
たとえば、嫉妬や偽善、不公平、葛藤・・・機能しなくなりますが、それは体験としての悟りとは無関係です。体験がなくても、それは機能しなくなることです。機能してるところしか見てないと、ずーとあるように思えるかもしれません。誰かが迷った、悟ったではなく、すでに、世界は悟ってるのです。
おおむね、好き嫌い、損得、快不快が・・・優劣、偽善、嫉妬、どう自分が見られるか、とかが、大事なことになるようです。それは代償行為です。逃げてるのです。諦めてるのです。人生を投げてるのです。それは日常、そうと自覚しなくても・・・素直、真摯・・・ちっとしたことで整っていきます。
この見えない自分が見えないと決すまで、そいうことがあります。何も知らない・・・この、見る聞くなどの知覚が、嬉しい悲しいが、思考が、なぜ、こう、なのか・・・これ、が、これ、であるのを知らない・・・知ってることが何かを、知らないことが何かも知らない・・・これは真理にあって・・・そうなのです。そして、誰もそうなのです。
おおむね愚かさは、よそ見をするということ、のようです。いつも大事なことの中心を外してしまう。たとえば苦悩に泣き叫びながらも、苦悩の中心から逃げて、そのことで苦悩を自分で持続させてしまう。何者でもない自分を自分で自分を卑しめて、なにが面白いのだろう。
楽しみにあって、心配を捏造してしまう。そのようにして自分で自分を確認したい・・・まったく逆のことをやってるのだけど・・・火の粉が飛んで、あちこちに燃え移って・・・それはもう充分なので、人生を消費してはならない、と思います。
その一瞬前にも、なにかが起きるということも、知らなかった。悟りを求めたこともなかった。
No.5280 - 2016/10/22(Sat) 09:30:18
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Re: この書き込み板がお菓子でお茶をいただくお寺かもしれません。
/ hato
引用
ここ数日、金木犀のいい香りにむせるようです。秋のはじめのいい頃になりました。
少し前に天竜川沿いをドライブし、川岸を散歩しました。
No.5281 - 2016/10/22(Sat) 10:46:46
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Re: この書き込み板がお菓子でお茶をいただくお寺かもしれません。
/ hato
引用
庭の西のほうに栗の木があります。
今朝は一緒に栗拾い。いい栗がおちていました。
No.5282 - 2016/10/22(Sat) 10:50:26