| とくに死ななくても、と思うけど。CENSOREDって、なぜそう言うのでしょう。自分を忘れるってこと?忘れても忘れても、自分だから、安心して忘れていいのでしょう。そーいえば、どこか哲学のサイトで《なぜ人は自分を人違いしないのか?》という疑問を見たことがあります。
ぐっすり眠って、それまで意識がなくて、朝起きて・・・幼なじみと遊んだことも、自分の名前も年齢も性別も、思ってもなくても、やっぱり自分です。なにやっても、やらなくても、自分です。
その理由は、ともかく、いくら捨てても、死んで死んで死にきっても自分だから、そんな自分を、わざわざ自分で確認しなくてもいいと言えるのでしょう。
溺愛してるてことは、やはり自分を見てる自分がいる、自分を確認したい、ということなんでしょうか。そんな必要ないでしょう。またたとえ自分、自分の境遇を嫌いでも・・・ふつうは、
この好き嫌い、快不快などの両極端が発振して、その自分を確認するという運動を形成しますが・・・どちらも見てる自分がいるってことは同じでしょう。また、キムタクになりたいも、ほかの人が嫌いとか、
また誰かから愛されたい、あるいは嫌われたくない、あるいは誰かを好き、あるいは無視する・・・嬉しい悲しい苦しい・・・として誰かに自分の気持ちを投影して・・・自分で自分を見てるのも同じかもしれません。
なんにせよ自分で自分を見るという、不可能なことをしようとしてるのです。それは1本の糸がもつれているようです。あやとりで、東京タワー、はしごを編んでるようなことです。
そして何かを縛るように、そこで、ない、はずの幻想の自分を編んで、守ってるかもしれません。それは苦痛なはずですが、それも自分で自分を自覚しようとすることなので、
たぶん愉悦でもあるのでしょうが・・・そんな人間関係の情の深さを抱えて生きれば、実際には存在しない世間様の一員。それにはその役割はあるけど・・・捨てて探求は始まるてこともあります。
きっと情が深いと抵抗はあるでしょうけど、それを世界は、物語として、思いとして生起もしますが、壊滅もします。捨てても壊滅しても、自分を人違いできませんから・・・素でいいのです。
どうやっても、自分は認識できないのですから、完全だから自覚でき・・・ない・・・のですから、確認しようとする必要はないです。そして素になろうとすることも、あやとり、になるので、ただ素でいいのです。すでに誰でもそうなのです。この瞬間が世界の壊滅で開闢です。
どうして世界にいなければ、世界に依存しないということが、あり得るでしょう。世界がなければ、世界に依存しないということもないでしょう。好き嫌い嬉しい悲しいに・・・
どうして自分になければ・・・どうして生死になければ・・・森羅万象になければ、それに依存しないということがあり得るでしょう。まず、世界である・・・自分である・・・それがそのまま。
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No.5291 - 2016/10/27(Thu) 08:12:02 |