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記事No.5293に関するスレッドです

西部劇で豆のスープを食べる場面について / 勘太郎
 テレビ映画によく出てきたので憧れています。コーヒー飲みながら、塩味のいんげん豆のスープをスプーンで食べる場面。山に行くようになってから、お腹が空くと疲れて動きが鈍くなるので、お腹が空く前に食べる癖がついたのか?ごはんが美味しくてつい食べ過ぎてしまいます。ズボンがきつくなりました。

 自分を捨てられないでいます。「接心では死んで死んで死にきれ!」と警策で打たれます。一度、死なないと糸の切れたタコに成れないようです。死ぬという事は糸が切れるという事だと思っています。心底自分を溺愛しています。「キムタクとおいらを取り換えてくれる」と言われてさえも、取り換えを希望しません。それでいておいらがキムタクに成る夢を見るのです。

No.5290 - 2016/10/26(Wed) 21:22:23

Re: 西部劇で豆のスープを食べる場面について / ubik0101
とくに死ななくても、と思うけど。CENSOREDって、なぜそう言うのでしょう。自分を忘れるってこと?忘れても忘れても、自分だから、安心して忘れていいのでしょう。そーいえば、どこか哲学のサイトで《なぜ人は自分を人違いしないのか?》という疑問を見たことがあります。

ぐっすり眠って、それまで意識がなくて、朝起きて・・・幼なじみと遊んだことも、自分の名前も年齢も性別も、思ってもなくても、やっぱり自分です。なにやっても、やらなくても、自分です。

その理由は、ともかく、いくら捨てても、死んで死んで死にきっても自分だから、そんな自分を、わざわざ自分で確認しなくてもいいと言えるのでしょう。

溺愛してるてことは、やはり自分を見てる自分がいる、自分を確認したい、ということなんでしょうか。そんな必要ないでしょう。またたとえ自分、自分の境遇を嫌いでも・・・ふつうは、

この好き嫌い、快不快などの両極端が発振して、その自分を確認するという運動を形成しますが・・・どちらも見てる自分がいるってことは同じでしょう。また、キムタクになりたいも、ほかの人が嫌いとか、

また誰かから愛されたい、あるいは嫌われたくない、あるいは誰かを好き、あるいは無視する・・・嬉しい悲しい苦しい・・・として誰かに自分の気持ちを投影して・・・自分で自分を見てるのも同じかもしれません。

なんにせよ自分で自分を見るという、不可能なことをしようとしてるのです。それは1本の糸がもつれているようです。あやとりで、東京タワー、はしごを編んでるようなことです。

そして何かを縛るように、そこで、ない、はずの幻想の自分を編んで、守ってるかもしれません。それは苦痛なはずですが、それも自分で自分を自覚しようとすることなので、

たぶん愉悦でもあるのでしょうが・・・そんな人間関係の情の深さを抱えて生きれば、実際には存在しない世間様の一員。それにはその役割はあるけど・・・捨てて探求は始まるてこともあります。

きっと情が深いと抵抗はあるでしょうけど、それを世界は、物語として、思いとして生起もしますが、壊滅もします。捨てても壊滅しても、自分を人違いできませんから・・・素でいいのです。

どうやっても、自分は認識できないのですから、完全だから自覚でき・・・ない・・・のですから、確認しようとする必要はないです。そして素になろうとすることも、あやとり、になるので、ただ素でいいのです。すでに誰でもそうなのです。この瞬間が世界の壊滅で開闢です。

どうして世界にいなければ、世界に依存しないということが、あり得るでしょう。世界がなければ、世界に依存しないということもないでしょう。好き嫌い嬉しい悲しいに・・・

どうして自分になければ・・・どうして生死になければ・・・森羅万象になければ、それに依存しないということがあり得るでしょう。まず、世界である・・・自分である・・・それがそのまま。

No.5291 - 2016/10/27(Thu) 08:12:02

Re: 西部劇で豆のスープを食べる場面について / ubik0101
なんか、名前だけしか憶えてなかったのですが、探してみたらありました。

http://swansong3478.web.fc2.com/2/essey0009.html

西部劇・・・夜の焚き火の場面・・・《バファローの干し肉だ、食え》・・・というのがあって、どいう味なんだろ。と思ってたことあります。

No.5292 - 2016/10/27(Thu) 08:33:42

Re: 西部劇で豆のスープを食べる場面について / ubik0101
フェイジョア、落ちていました。実が大きいマリアンを切ってみました。ミント風味のパイナップルて、感じです。
No.5293 - 2016/10/29(Sat) 10:16:17