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記事No.5343に関するスレッドです

自問自答 / 勘太郎
 ティクナットハン師より「こころの対象は心にほかならない。 物理的、生理的心理的領域にあるものはすべて、心の対象でありながら心と分離していません。身体・感覚・心、心の対象の全ては心の対象です。対象と心は一つですから、心が何かを観察するとき、本質的に心が心を観察しているという意味でつかわれています」

 おいらはこの言葉を読んで理解もできないでいました。
 ニサルガダッタマハラジの言葉
 質問者 マハラジは、私がいなくなれば世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。

 マハラジ 物質とマインドは分離したものではない。一つのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうすればあなたは宗教を手にするだろう。

 質問者 しかし、何が真実なのでしょうか?マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?

 マハラジ どちらも先に現れはしなし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらは共に世界を作る。浸透し超越するのが実在、純粋な存在ー意識ー至福、あなたの本質そのものなのだ。

 おいらには最後の文を理解することはできませんが。世界の片面が物質であり、裏面が意識であるのを朧気ながら想像することができます。

 紹介いただいた「栄宗寺住職」さんのページをパソコンを開く度に見ています。

No.5341 - 2016/11/21(Mon) 20:23:25

Re: 自問自答 / ubik0101
> ティクナットハン師より「こころの対象は心にほかならない。 物理的、生理的心理的領域にあるものはすべて、心の対象でありながら心と分離していません。身体・感覚・心、心の対象の全ては心の対象です。対象と心は一つですから、心が何かを観察するとき、本質的に心が心を観察しているという意味でつかわれています」

ティクナットハン師も、知らないので、この文章だけを見ての印象を話します。

なんであれ、知覚されるのだから、認識するのだから・・・心であれ、生理的心理的領域にあることであれ、物質であれ・・・差の認識でありそれは・・・対象することと、対象されることと、さまざまな対象も・・・完全に違うことでも、完全に同じことでもないです。

そして、なにかを観察すれば、それを対象にすることが対象にしてるのだから、極端に言えば、対象を観察することを観察することにしかならないのだ。あらゆることは投影。見るものは見られるもの。心が心を観察している、ということでしょうか。たとえば世界はひとつ、という眼で見たら、ほんとうに、そう幻のように世界は見えてしまう・・・です。

なんにしても、その分離がない、という側から見るのは、みんな関係あるよ。あるいは無我、ということを強調したいのでしょうか。それは緯(よこいと)系の特質です。けど自分は、世界は、どんな、もの、ことも、完全な分離も、完全な同一もない、と睨んでいます。つまり分離も同一も認めるゆえに世界は、どちらでもない、です。

ほかの言い方では、この世界は、実在でも虚無でもない、です。語弊あるかもしれませんが、世界は半実在。あるいは糸の切れた凧。それで縁起、無常が成り立つのでしょう。実在も虚無も、縁起が一応はですが成り立たないと見なせます。この縁起が完全に機能して縁起を超えるのが、ここで言う解脱です。

> おいらはこの言葉を読んで理解もできないでいました。
> ニサルガダッタマハラジの言葉
> 質問者 マハラジは、私がいなくなれば世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。


おそらく、私がいなくなれば、世界はないです。知覚としては、そう思います。ただ質問者は、私がいないということがありますか?と質問してもよかったかもしれません。

> マハラジ 物質とマインドは分離したものではない。一つのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうすればあなたは宗教を手にするだろう。

> 質問者 しかし、何が真実なのでしょうか?マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?

> マハラジ どちらも先に現れはしなし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらは共に世界を作る。浸透し超越するのが実在、純粋な存在ー意識ー至福、あなたの本質そのものなのだ。

これはアートマン、真我、自己を前提にした、名称と形態の説明です。名称と形態からの自己への道・・・その道はないのですが・・・このように説明するのでしょう。力?足りなく解脱に至らなければ、総てはひとつ、となると睨んでいます。

> おいらには最後の文を理解することはできませんが。世界の片面が物質であり、裏面が意識であるのを朧気ながら想像することができます。

> 紹介いただいた「栄宗寺住職」さんのページをパソコンを開く度に見ています。

エダマメが枯れたので、収穫してみました。デッキでしばらく乾かそうと思います。

No.5343 - 2016/11/22(Tue) 14:04:23