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記事No.5344に関するスレッドです

自答 / 勘太郎
そして普段私たちは

この「貪」「瞋」「痴」の三大煩悩を、架空の「私」に帰属させています。

「貪」「瞋」「痴」の所有者を勝手にでっち上げ

「”私”が三大煩悩を所有している」というふうに思い込んでいます。

「貪」「瞋」「痴」を所有することで「煩悩所有者としての”私”」を実感しようとします。

苦しむことで「苦しむ”私”を実感しよう」としているのです。


 これを読んで、今、おいらは実感しました。

自ら 苦しみをつくりだしています。何もない無色の感情に楽しいうれしいを感じたくて、お金を欲しがります。透明な感情でいたら喜びもありませんが悲しみ・憎しみ・後悔・期待も感じません。親が死んでも子供が死んでも悲しみはありません。心は何も感じないだろうと思います。

覚醒とはどんなかんじなんでしょう。思考で感じることは、「感情は自分で創造しているのだなあ」です。

No.5342 - 2016/11/21(Mon) 22:12:47

Re: 自答 / ubik0101
ここで、楽しい、嬉しい、などの、いわゆるプラスの感情と・・・いわゆるマイナスの感情、悲しい、欲しい、苦しい、を区別、分類しないで、感情が問題なら一律、問題として考えてもいいです。そして、そいうことを感じたとして、自分を感じることになるのでしょうか?

それは、その自分は常に嬉しい、悲しいの裏に隠れてある架空のこととして設定されてるので、自分を感じることにならないでしょう。でも、自分を知った気分だけは味わいたい、代償行為、それが・・・実は絶対に犯人が見つからない推理小説・・・その世界を自分で創造してる気分になるので、あるいは拗ねて楽しいのかもしれません。

そいうことは、自分で悟りの邪魔をしてて、人生を消費する楽しみを・・・肴も食べず酒だけ飲み続ける人が《命を肴に飲むことは最高に美味》と言いましたが・・・その補償行為で誰彼なく愛されることを望んでいましたが・・・そんな自分で自分を卑しめることをしてるのかもしれません。

あるいはまた、そんな自分の邪魔をする人は・・・非難と正当化、不公平、正邪、愚鈍・・・奇妙な矛盾した言動をするのが普通です。こんな変な私を見て!こんな狂った私を誰か助けて!ということかもしれません。どう考えても誰かのことは空想ですが、でも、最も簡単な自分で自分を助ける道があるので、そいう複雑なことは完全に不要。初めから論外です。神は、自らを助ける者を助ける、です。

この探求の基本は、空想の奴隷にならないということです。自分で自分に切り込むだけです。透明な感情だと表現できるとしても、それは悲しみ・憎しみ・後悔・期待・悲しみ、を感じることの反対、ただ感じないということではありません。それなら何かの病気です。

すこし莢を剥いてみました。丸くて黒い大豆です。

No.5344 - 2016/11/22(Tue) 14:08:33