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記事No.5381に関するスレッドです

雀がたくさん来ています / 勘太郎
 異なった群れが巡回して食べにくるのか?同じ雀たちが食べては別の場所で遊んで又食べにくるのか?餌台に雀がいる時間は短いです。ちいちい騒がしいので来たことが解かります。

 勉強はやれば進度を自覚します。覚醒は進度が見えません。進度というものがないのかもしれません。そうとは思いつつも、此処と今はどこに行っても、いつでも、「此処と今」だなあ〜と確信ができると、理解も悪くないもんだと思います。「ここと今」だもの、何しても、宝くじが当たっても、「今と変わらないよなあ〜」と思います。覚醒後の「今と此処」とは違うんでしょうけれども。

この掲示板に書き込む下書きを書いている時に、理解が進むってことが多々あります。それで書く必要が無くなって、消して寝る。

 これから雪捨てをします。庭が狭いので少し離れた公園に運びます。平日帰宅後「ジョンバ」(軽いプラスチックスコップ)で庭の片側に雪を除ける場所つくり。
除雪(雪投げ)も楽しい作業です。

No.5377 - 2016/12/11(Sun) 08:50:32

Re: 雀がたくさん来ています / ubik0101
あの掲示版に、思考の主体は何?という問題提起がありました。それによると、思考の主体は、ない、あるいは、世界、だということです。うーん、とくに異議を唱えるつもりはありません。

けど、思考の主体は、その思考。だと感じます。ここで、その思考の主体は、その思考の主体です、と、その思考が思考してるのです。

と、このように見るとします。すると、思考の主体は何?と言う疑問はすでに。思考ということと主体ということを自分の眼の前に並べて見てるように見えます。

また、なにか思考して、その主体を探すということは、すでに思考とその主体を探すこととの時間差があるかもしれません。と、感じられてしまいます。

これは、もちろん、ほかの人の意見を見ると、そのように感じられてしまう、ということでもあります。そすると、問題が余計に複雑になります。

No.5379 - 2016/12/11(Sun) 14:14:49

Re: 雀がたくさん来ています / ubik0101
で、その時間差なしに普通の自分がする思考。それは・・・なんでもいいですが、どこからでもいいですが・・・その思考があるだけ・・・です。

たとえば、思考の主体は、ない、あるいは、世界、です。というのは、その思考が、そう思考した、ということではないでしょうか。その思考の主体は、その思考、です。

では、感情の主体はなんでしょう?その喜びの、その怒りの、その恥ずかしさの、主体は何でしょう?もちろん、その喜びは、その喜び、なのです。

そして、行動は?もちろん、その行動の主体は、その行動です。見えるの主体は、見える、です。沈黙の主体は、沈黙です。ない、の主体は、ない。世界の主体は世界です。

No.5380 - 2016/12/11(Sun) 14:16:39

Re: 雀がたくさん来ています / ubik0101
つまり、それ、だけです。と、思考が思考したとして、その思考がそう思考したがそう思考したがそう思考した・・・

これは無限退行にはならないのです。まず実際には、永遠にそう思考し続けることが出来ません、無限に思考でき得るとしても、それは、その思考しかない、それ、だけ、ということです。

その思考は、その思考。見えるは、見える。行動は、行動。喜びは、喜び。甘いは、甘い。沈黙は、沈黙・・・なんであれ、それ、は、ただ、それ。空想の因果の壊滅。ふつうの日常です。

たくさんのひび割れを木工パテで埋めて、hatoさんと交代しながら、サンダーで磨きました。これは結構、時間がかかりました。一緒に、なかなか、多忙な師走です。

No.5381 - 2016/12/11(Sun) 14:19:34