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記事No.5400に関するスレッドです

坐禅三昧のお正月ではありませんでした。 / 勘太郎
 元旦は犬の散歩をしてから、ゆっくりと山に行ってきました。いつもながら山にいる時間は楽しい。雪も堅く締まって歩きやすく、蔓きりに励んできました。

 2・3日は覚者からあまり評判の良くないエックハルト・トールの朗読を聞いて居眠りして過ごしました。エックハルト・トールのニューアースという本の中で半分以上を自我の説明しています。後半では「その自我を意識で観察していなさい、それは覚醒への道だ」と言っています。
 彼の自我の説明は現実の生活において、役に立ちます。怒りは他との違いを極端に強化して、自分があるという感覚を強める。自我が自我を強化発展させる働きと説明しています。自分の輪郭線(レオナルド・ダビンチの発明した画法で個別の輪郭を強い色の線で型どる)を強く描くことになる。自分や他人を観察するとこれを納得できます。

 怒り・悲しみ・後悔・欲望・興味・話題・整理整頓したい気持ち・希望・明日の計画・・・が、おいらには感知できない・何もないようにみえるおいらの心の中に、池の中に石を投げ入れた時の様に、広がって波を作って広がって行くのを観ることができます。
 怒りなど強いものは、起きた!っと自覚できても、押しとどめることができない事も多いです。
「無限の二重鏡の様に自分を自分で分析する」と言われますけれども、おいらには、一組の鏡の様に思われます。短時間で別の合わせ鏡が現れます。
 これを使って、自我のコントロールをしているのでしょしょう。覚者はこのコントロールが外れるのかもしれません(自我が少なくなって、全体になるので、コントロールの必要が少なくなるだろうとも思います。
このコントロールを束縛とか苦と云うのかもしれません。怒りたくても、会社の上司に怒りをそのままぶつっけたら首になるからやめておこう・・とか・・

そんなこんなで、とってもよい骨休めの正月でした。

分かりにくいですけれども、山のネズミが出入りしている若木の茎です。もぐっては柔らかい皮を食べ表に出て別の餌を捜しにでかけるのでしょう。この木は果樹ではないだろうとは思いますが、積雪1mですから、もしかしたら、おいらの大切な果樹の先っぽかもしれません、ネズミさん果樹は除けてたべてください、お願いします。

No.5400 - 2017/01/04(Wed) 21:23:55

Re: 坐禅三昧のお正月ではありませんでした。 / ubik0101
とくに怒りを問題にしたことはありません。つまり暗黙にも、怒りがない、ということを想定したり、理想にしたことがないです。なので、怒りが恥ずかしい?劣ったこと?などという印象もなく、

それを制御?是正?しようとしての葛藤?に巻き込まれたことはないです。ところで怒りそのものって何でしょう。いまだに怒りは、怒りで、未知なことに思われます。ではそれは、どう理由づけられるでしょう。

たとえば偏った損得、快不快、好き嫌いに縛られた不公平な自分を誰かに攻撃されて、その自分を守るために相手を攻撃したい、そんな表現と考えられはします。

あるいは怒りは、相手を無視するとか、小馬鹿にするとかに、姿を変える場合もありそうです。また、相手の愚かさに、しっかりしなさい、と(たとえその自分が愚かであるとしても、賢明だとしても)叱咤激励してるのでもあるでしょう。

自分としては、相手の愚かさの指摘、その濃度が高いように思います。けど怒りの理由は、ひとつに固定されてなく混合してるようです。

No.5401 - 2017/01/05(Thu) 13:08:56

Re: 坐禅三昧のお正月ではありませんでした。 / ubik0101
ここらで、自分で自分を怒ることは困難。ということに気がつき転機があることがあります。怒りのように対象になりようがないから自分を、怒りようも、嫉妬しようも、誉めようもないでしょう。(自分が自分を自覚できないことが、また愚かさで諸悪の根源でもあるし、逆でもあるでしょう)。

どちらにしても、対象になりようがないから自分には、年齢も、性別も、学歴、職歴、病歴、時間もないです。あるいは怒りは現象としては、たとえば美しい流れ星のように現れた瞬間に痕跡もなく去って行く・・・

また完全に怒っていながら完全に冷静・・・また怒りそのことが私・・・その現れも様々です。このように怒りの理由を探ると明確に定義はできないで、勘太郎さんの言うように、

どんどん思考の輪が広っていくように思います。ここで、その理由の定義できなさ・・・怒りとはこんなことだという思考としては破綻・・・が見つかるように思います。それで思考一般、それに破綻がなければ、たとえば怒りについて、

あるいは何かを思考するそのこと、あれこれ思考するフィールドが広がることは不可能かもしれません。ところで怒りは問題にはなりませんでしたが、欲望とか、執着とかは、問題でした。

No.5402 - 2017/01/05(Thu) 13:09:55

Re: 坐禅三昧のお正月ではありませんでした。 / ubik0101
それが問題だった頃は、欲望は、なんだかの関係だとは感じましたが、やはりそれを明確に定義できなかったです。でもなぜか知りませんが、それは嫌悪すべきことでした。そのようにして、なにか解らないけど、

それを撲滅することへの、なんだかの志向が働いたのでしょう。そうですね。怒りが何か?欲望が何か?解らなくて、実は勝手な意味付けがあるのでしょう。それを思考するなら思考し尽くして思考のフィールドが広がる、

その破綻を見る・・・その自分は自分で知覚不能・・・そこで一般的に知覚できそうなことは・・・たとえば怒りとか、欲望とか、思考とか・・・それに接触しても接着できない・・・ある意味、対象とその主体の分離・・・そこで、それは人を覚醒させる触媒として機能する・・・と思います。

それに関して思考が停滞して、固着してるそこに、それも、ほかの誰でも、なにか他のことでもない、自分で罠をつくったと言えるでしょうけど・・・怒り、執着、思考は、その人の問題のあることを、隠す仕方で露にしようとしてる、とも言えそうです。

たとえば自他の区別、世界との分離。それは、ひとつ、を真理とするなら誤りにも見えるかもしれませんが・・・世界との自他の分離も、ひとつも、とくに必須ではない風景であり、明暗も、賢愚も、迷悟も、経緯でしかない・・・自己。ということでもあります。

No.5403 - 2017/01/05(Thu) 13:11:28