〉つまりこの普通の日常・・・ご飯を食べて、歩いて、笑って、寒い・・・畑作業をして・・・思考して・・・なにも隠すことなく隠れることなく・・・ただそれだけのことです。たとえば強い欲望その他などは、ない、自我が隠れる影を探して作ってる。と、説明できます。〈
という事になるのでしょう。 「からっと晴れる」は雪担御老師が無字の公安で悟れなくて、「もうだめだ」とごろっと横になった時に、「なんだこれは!なんにもないではないか!」と悟られてときの言葉です。
今日の栄宗寺住職様の書き込みは、「普段は体のある事を忘れている、坐禅は5感を思い出すことだ」「5感を思い出すことで、今の世界をおもいだす。」です。
〉自分が行動したことは自分でわかる。話したことは自分で聞こえる。自分で思考したことは自分でわかる。このこと事態が不思議ですけど、これだけです。〈
〉理由なく生きる、嘘を言わない。〈
これらを合わせて、おいらが想像するのは、見聞き感じる自己 (自分を探ろうとすると、何もない空間のようなもの、じぶんというアイデンティティーも有るのか?無いのか?わからないもの) に見聞きする対象が、(からっぽの)自分に写っているだけ、なのだろうなあ〜です。
からっぽの中身は見聞きするものが写っていて、それで満たされているのでしょう。そこに思考はありません。
しかしながら、おいらは其処に居るのが苦手で、すぐに夢想の世界を作りはじめてしまいます。 夢想(希望)の世界は、現実とのギャップがありますから、満たされていないという不満が噴出します。 だんだん見聞きするだけの時間がながくなってきはいますが、思考を相当な力で縛り上げつづけていないと、夢想に流れてしまいます。鼻の孔に力を入れ続けていないと流れてしまいます。
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No.5422 - 2017/01/20(Fri) 21:46:31
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