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記事No.5528に関するスレッドです

ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。 物を書くのは、畢竟、一人称である。 / 勘太郎
なにかを見てるのが、私。ではなくて、私が対象を見てる、でしょうか・・・私が見てる。私が見てる、私が見てる・・・それなら、その見てる私を自覚できるか試してみるのも一興でしょう。
No.5481 - 2017/02/12(Sun) 17:50:33

 標題の文は「寝太郎さんと云う方」の出だしの部分から借りてきました。
ソローが言っているのが、自覚している私なのではないか?触わることも、意見を相談することも、明日何を食べたいか?第一にお腹が空いているのにも関係しない、おいらが誰を好きかも全く関係しないのが、見てる私 の様に思えます。

No.5506 - 2017/02/14(Tue) 21:53:43

Re: ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。 物を書くのは、畢竟、一人称である。 / brahma
真我は観照する。カルマに加わらない。
No.5510 - 2017/02/14(Tue) 22:13:48

Re: ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。 物を書くのは、畢竟、一人称である。 / ubik0101
ソロー、も知りませんが・・・コピーライターやってた時は、無人称で書いていました。ただ見てる自分?知覚そのことが自分?
No.5511 - 2017/02/14(Tue) 22:34:50

Re: ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。 物を書くのは、畢竟、一人称である。 / ubik0101
寝太郎ブログ、見つけました。その《つまり、一人称で書くぞ、自分のことを書くぞ、文句あるか、と宣言しているわけである。》その、自分です。その自分の裏打ちです。それを見るのです。

それが見えないのが、見えなくされてる?見えなくしてる?のが、つまり常に外を見て・・・それに、その内の暗さに気がつかないのが一人称の私です。その逆、なんとかその自分の裏打ちを見るのです。

そこにはなにもないです。マハリシ?が、スクリーン、と言いますが、また誰かは基底と言いますが・・・これは奇妙な感覚と思います。逆です。

たとえるなら神は、第一原因は、投射機、光源です。スクリーンはありません。外を向いてるなら・・・神はスクリーンでしょうが、基底でしょうが・・・探求者は、内を、上を、見るのです。

これが日常です。探求者は、常に神に向かって生きてるのです。その自分の裏打ちは、ない、です。その知覚としての自分は、世界の裏打ちです。

No.5526 - 2017/02/16(Thu) 10:12:22

Re: ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。 物を書くのは、畢竟、一人称である。 / ubik0101&hato
一緒に採ったフキノトウです。
No.5527 - 2017/02/16(Thu) 10:50:17

Re: ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。 物を書くのは、畢竟、一人称である。 / ubik0101&hato
天麩羅にしました。
No.5528 - 2017/02/16(Thu) 10:51:54

Re: ソローが『森の生活』の冒頭部分でこんなことを言っている。 物を書くのは、畢竟、一人称である。 / brahma
 プシャカラ

No.5529 - 2017/02/16(Thu) 17:17:22