受け取るおいらの側の準備ができていません。 ニサルガダッタ・マハラジが「グルは沢山いるにもかからわず、教えを受け取る人がいないのだ」と言っています。「あなたは欲しい、欲しいと言葉では言いながら、私が差し出すものを受け取らない」とも言っています。
今日は休日独り出勤だったので「ラリー・ローゼンバーグ」という人の 実践ウィッパサナー瞑想、「呼吸による癒し」を半分読みました。有名な本なのです。 少し長い引用です 「私たちは対象と一つになるのではありません、すでに対象と一つなのです。私たちを対象と隔てているのは、胃の痛みではなく、もっぱら自意識なのです。そして、それがあらゆる問題を創り出しているのです。自意識を手放すにつれて、私たちはありのままの自分になってゆきます。私はこの瞬間胃の痛みであり、呼吸であり、遠くでガタガタいっている機械の音であり、窓の外でカーカーという鳥の鳴き声であり、ページの上を走っているペンです。あなたはこのページを読み取っている目であり、あなたに起こっているその他すべてのことです。つぎの瞬間には、また別なものになっています。そして、何が起ころうとも、つねにそれが私たちの在り様なのです。
おいらはどうしても、観るものが自分で胃の痛みが観られる対象と感じてしまうのです。 この部分が今日読んだ中で一番面白かったのです。
去年の秋から生えている、捨てたトマトから芽生えて今窓きわでなんとか生きている苗です。徒長しても4月下旬に畑に植えてみます。すごい生命力です。この部屋はかろうじてマイナスにはなりませんが、帰宅時には4度Cとかです。ストーブつけると20度を越えます。
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No.5593 - 2017/02/25(Sat) 21:22:57
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