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記事No.5708に関するスレッドです

この言葉への、 自我からの疑問です / 勘太郎
まったく知覚に依存し切って、感情に依存し切って、思考に依存し切って・・・そうと気がつけば、ただ老病生死に従い・・・この底知れない不安に安住。

 人の人生に意味など何もない。
 道端の草と同じだという意識で生きてよろしいのですよねえ・・・。

 勉強しろ!と親に言われて、いい大学へ行って、大企業勤務。それなりに一生懸命働いて、箱根の別荘で週末ゴルフ三昧。
 零細企業勤務で遠いアパートで通勤往復4時間三昧。50歳でガンで子供がまだ高校生と中学生、奥さんの体は弱い。

 悩み・望みは尽きないのだから、あたふたあたふたわけも解らずいきてゆくこれしかできません。

 もしかして、その中で覚者はあたふたしている自分を見ているのではないですか?

手前の7本青い種が空豆の芽です。寒さに強いらしいので、雪が融けたら移植予定です。

No.5701 - 2017/03/26(Sun) 08:13:03

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / ubik0101
たとえば見たり聞いたり笑ったり怒ったり思考したりでき得ること・・・もの、こと、意味無意味、よろしい、よろしくない、迷悟、この世あの世・・・

と、知覚感情思考でき得ない知覚感情思考してる自分、

・・・つまり知覚感情思考でき得ること、でき得ないこと・・・どこにも依拠でき得ない・・・それが底知れない不安。です。

この世界は6頭の巨ゾウの上に乗ってる・・・その巨ゾウは大亀の上に乗ってる・・・その大亀の下には・・・なにも、ない、のだ。なにもない恐怖と紙一重の世界。

こちら出窓のコリアンダー、けっこう生長してきました。

No.5702 - 2017/03/26(Sun) 09:53:52

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / ubik0101

ほかの説明では、依存して、依存しきって、その主体が、あるない、にも依存しきって、、、どのようなことにも無差別依存。ただそれだけで、なにか特定の個別のことに依存しようがない、です。

No.5703 - 2017/03/26(Sun) 14:39:54

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / 勘太郎
>
> ほかの説明では、依存して、依存しきって、その主体が、あるない、にも依存しきって、、、どのようなことにも無差別依存。ただそれだけで、なにか特定の個別のことに依存しようがない、です。


エックハルト・トールという方が「私も私の話すのを聞いているのですが・・・」と言ってましたので、覚者も自分をみているのかなあ?との疑問で諮問しました。
 自分を見ている感覚は自我の1形態だそうです(ニサルガダッタマハラジ)自分が二人いたらおかしいです。だけれども、自分で自分を観察できる様に感じてしまいます。

No.5704 - 2017/03/26(Sun) 21:36:08

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / ubik0101
そんな状態を、もう憶えてませんが・・・自分と時間、空間という距離を取ってそこから・・・ほかの人とか社会とか過去とか未来という仮の空想の焦点、視点をつくって・・・つまり自分が分裂してそこから・・・見た自分ということで自分を観察できる気がするのかもしれません。

「私も私の話すのを聞いているのですが・・・」というのは、この文章だけ見ると・・・ただ、自分の話してる声がそのまま聞こえる・・・鳴いてる猫がそのまま見える・・・感情、思考など・・・起こったことは、そのまま知覚される・・・素通し・・・ということを言ってるのかもしれません。

また、自分の話を聞いてる自分がいる・・・これは自我の機能ですが・・・それも世界の機能であって、自我の機能は、個人の自我とは言えない・・・という意味で言ってるのかもしれません。その自我の機能を使って、仔細に見る、ということをする、そんな時期、経緯もあります。

No.5705 - 2017/03/26(Sun) 23:16:58

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / brahma
直接の知覚
No.5706 - 2017/03/27(Mon) 00:44:34

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / ubik0101
これを言っちゃあ、お終いよ。なのですが、あくまでそんな程度の説明ですけど・・・神・・・第一原因・・・実在・・・が分裂して、というより拡散して、人、もの、こと、つまり世界として現れています。

つまり世界は神の自我です。つまり、神が神を自覚しようとしています。それが私たちの日常です。ここで人も、その神の機能としての自我が機能します。自分で自分を観察しようとします。

あっちこっち焦点、視点を拡散させて、あれこれの、もの、こと、人に、接着して、その関係から自分を知ろうとします。でも結局。それはこの自分を蔑ろにすること。中心を見てない、見れないです。自分から外れることです。それは神の振りをする傲慢です。

そのような悪魔のような傲慢な自分であることが、自分が、自分が、自分が、こうしたああしたの、自分が自分で感じられる気がする判断の中心にいることが、迷ってることが、葛藤が、嬉しいのです。けど、その知ろうとする自分は虚構で。ガランとした伽藍です。

そこで、なんとかして、ある意味で自分に気がつくからですが・・・自分そのことは自分そのことを自覚できないことに気がつく・・・自我から解脱する。その日常は、神も悪魔も、ひとつも分離も、真理も虚偽も、自我無我真我も、あるないも壊滅です。

No.5707 - 2017/03/27(Mon) 08:12:08

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / hato

母が作ったコースターに、菜の花とつくしで春の装いです。

なにかといそがしい春、頑張りましょう。

フレンチプレスで、キリマンジャロをいただきました。

No.5708 - 2017/03/27(Mon) 12:50:40

Re: この言葉への、 自我からの疑問です / hato

それで、パクチー。コリアンダーの花が咲きました。ニラの花に、似ているでしょうか。

香菜の花は可憐で、とてもチャーミングです。2人ともに、香り、味ともに大好物。

No.5711 - 2017/03/27(Mon) 19:33:01