hatoさん
> > > こちらは、いってみれば、単極です。 > > > > >単極だと「それは在る」、シュミレーション仮説は、「それも幻想」となりませんか? > > > > > > > > 「それがそれとしてある、」というとき、このことは、なにか事象を見比べて、その差を読み解くことではないと言うことができます。なぜなら、うまく言い得ているかわかりませんが、それは、知覚で判断されることでは、ないからです。 > > > > この世界で、知覚とは差の認識、であることを学びますが、それがそれとして在る、ということを、なにか差の認識をもって理解することは、できないと言えます。
> > すなわち、これは完全に別のこととしてあるので、知覚の理解としての比較を用いることは、厳密には、できないのです。こうしたことは大変微妙で、繊細なところですが、「そうなのです。」としか言いようがないところです。
申し訳ありません。 私の「それは在る」の「それ」は、「真の自分」という意味ですが、hatoさんの「それがそれとしてある、」の「それ」は、神羅万象全てを指していますね。 例えば、「月は月としてある」「桜は桜としてある」という具合に。 確かに、桜を見て認識したとしても、薄いピンクの色や形を認識しているだけで、桜そのものを認識したことにはなりません。 「桜は桜としてある」、それ以上どうにも手が付けられないです。
勘太郎さん(ですよね?)
> > この書き込みが「言語道断」である事の説明で一番(すでに比較で表現してしまっています)ぴったり納得できました。思考を停止することはできる様になりましたけれども、その後の知覚できないが知覚できません。ニサルガダッタ・マハラジは「人ができるところはそこまでだ」と言っているとおもいます。ここら辺も想像で全くの勘違いかもしれません。皆既日食の様にコロナは見えるけれども、太陽は見えません。見えない太陽はいつも地球を照らしています。
ニサルガダッタの「私は在る」を「それは在る」と言い換えました。 何故なら、「私」は認識できないからです。 認識とは、主体と対象があって初めて成り立ちます。 「私」とは主体であり、自分の中に浮かんで来る思考や感情、そして肉体は認識できますので対象です。
つまり、思考や感情や肉体は、「私」ではないということです。 突き詰めれば、認識できるものは全て「私」ではない、つまり、この現象界では、「私」を認識することは出来ないということになります。 これが私だ!と認識できたとしても、それを認識している別の自分がいることになりますので、際限がありません。
しかし、現に認識は起こっていますので、認識する主体が「在る」ことは否定出来ません。 この現象界に「私」がいないということは、別の次元にいるとしか考えられません。 「とんでも」の世界ですが。(笑)
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No.5836 - 2017/05/01(Mon) 07:33:36
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