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記事No.5922に関するスレッドです

続・ / hato

ゆらぎさん、こんにちは。長くなりましたので、スレッドを変えますね。

昨晩、庭では蛙の合唱で、わたしのすきな、ケロロ・・とかわいく鳴く、蛙の声を聴いていました。雨がすこし降った、しずかな朝です。


>何故なら、あるレベルでしか世界は認識されないからです。
>素粒子レベルになれば、この人間の世界は認識されません。
>素粒子の世界は不確定であり、エネルギーのひとつの形態に過ぎませんから、この世界は実体と呼べるものではありません。
>つまり、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。



そうですか、ゆらぎさんは、素粒子レベルになって観た、ということでよかったでしょうか。また、素粒子の世界が不確定、ということは、ゆらぎさんが素粒子になって、その不確定さを経験された、ということでしょうか。

自己は、不可知であり、として、素粒子として見えるその世界=自己、とはなり得ないでしょうね。

つまり、世界の探求から、或はその学問と知識によって、自己を説明することは困難、ではないでしょうか。また、意識上に見え隠れする、相対としてのあるない、は、相対した世界として語れること、と思います。

ひんやりとした、曇り空が心地いい日です。

No.5905 - 2017/05/25(Thu) 10:08:25

Re: 続・ / ゆらぎ
おはようございます。
今日は久しぶりに本降りの雨です。

> ゆらぎさん、こんにちは。長くなりましたので、スレッドを変えますね。

はい、ありがとうございます。

> >何故なら、あるレベルでしか世界は認識されないからです。
> >素粒子レベルになれば、この人間の世界は認識されません。
> >素粒子の世界は不確定であり、エネルギーのひとつの形態に過ぎませんから、この世界は実体と呼べるものではありません。
> >つまり、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。


> そうですか、ゆらぎさんは、素粒子レベルになって観た、ということでよかったでしょうか。また、素粒子の世界が不確定、ということは、ゆらぎさんが素粒子になって、その不確定さを経験された、ということでしょうか。

ubik0101さんとの対話で述べたように、主旨は「人間も存在しているように思えますが、少し焦点をずらせば、たちまちその存在は消えます。臓器、細胞、分子、原子、素粒子、エネルギー・・・それぞれのレベルでは「そのもの」は認識できますが、人間は認識できません。拡大方向も同じで、家、町、国、地球、太陽系、銀河系、宇宙・・・。」
つまり、あるレベルを認識するためのセンサーとプロセッサーが与えられているだけで、レベルが変われば認識できなくなるのでえすから、この世における全てのものは「実体としてはない」ということです。
しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。

> つまり、世界の探求から、或はその学問と知識によって、自己を説明することは困難、ではないでしょうか。また、意識上に見え隠れする、相対としてのあるない、は、相対した世界として語れること、と思います。

思考だけでなく、体験も同じです。
(思考も体験のひとつですが)
自分が認識したもの全ては、自己ではありません。

「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできています」とubik0101さんが書かれている通りです。
私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。

「それがある」、ただそれだけです。

No.5907 - 2017/05/26(Fri) 07:16:12

Re: 続・ / hato

こんばんは。

またもや、夜更かしなわたしで、すみません。長話しになってしまい、お疲れでないようにと思います。


>しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世>という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方という>ことがないのです。


ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。


>思考だけでなく、体験も同じです。
>(思考も体験のひとつですが)
>自分が認識したもの全ては、自己ではありませ>ん。



ゆらぎさん、ごめんなさい、
不愉快でしょうが、ここは同じと言えません。

強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。

その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。

この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。


>「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできていま>す」とubik0101さんが書かれている通りです。私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。


自分は、この件についてはつねに、単刀直入です。

「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?

自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、

そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、

先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。

庭の畑のネギ坊主が、とてもお洒落でした。

No.5908 - 2017/05/27(Sat) 00:56:25

Re: 続・ / ゆらぎ
おはようございます。
爽やかな朝です。
最近、精神的に疲れることがなくなってきており、自分でも驚いております。
ので、ご安心を。(笑)

> >しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世>という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方という>ことがないのです。

> ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。

そうです。
意識上以外の「ある・ない」とは何でしょうか?

> >思考だけでなく、体験も同じです。
> >(思考も体験のひとつですが)
> >自分が認識したもの全ては、自己ではありませ>ん。


> ゆらぎさん、ごめんなさい、
> 不愉快でしょうが、ここは同じと言えません。


全然不愉快ではないですよ。
hatoさんがそう思われるなら、それはhatoさんにとっての真実ですから。

> 強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。

自我がないという経験は、意識下の出来事ではなかったということでしょうか?
そうであれば、なぜその経験を認識できたのでしょうか?
世界の範疇にある意識とは何でしょうか?
個の意識ですか?集合的無意識ですか?
そして、なぜその意識は経験を学ぶ必要があったのでしょうか?

> その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。

自分が認識できないものを、何が認識したのでしょうか?
そして、何かが認識したものを、なぜ自分が理解できたのでしょうか?

> この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。

『この場合の、「ない」』とは、経験した「ない」であり、思考から導かれた「ない」とは違うということでしょうか?
その違いに、どんな意味があるのでしょう?
経験した「ない」が、どのように優れているのでしょうか?

> >「ただ人は、自分自身であれということです。そして世界中を探しても、それは見つからない・・・その自分は、自分で掴めない・・・このように完璧にできていま>す」とubik0101さんが書かれている通りです。私は、何を思い、何を体験しようが「自分自身であることしか出来ない」と思っていますが。
>
> 自分は、この件についてはつねに、単刀直入です。
>
> 「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?


偏りとは、どのような基準に対して対して偏っているのでしょうか?
そして、その基準が基準たる根拠は何でしょうか?
また、それが転換されるとは、どうなることでしょうか?

> 自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、
>
> そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、


自我の目的は生き残ることであり、そのために自分自身に対する問題をつくることが仕事です。そのために狡猾さが必要ですが、自我とはそのようにプログラムされたアプリケーションソフトですから、そうあらざるを得ないのです。

> 先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。

希求したら、素直と言えなくなりませんか?
また、正しくと言った瞬間に、逸れていきませんか?

hatoさんは、自我のない経験をされる前と後では、何がどのように変わったのでしょうか?

質問だらけになってしまいましたが、hatoさんの仰られることを理解することが目的であり、困らせるつもりはありませんので、ご容赦下さい。

No.5909 - 2017/05/27(Sat) 07:15:24

Re: 続・ / hato
ゆらぎさん、こんにちは。(^^)

返信を、ありがとうございます。

表現したいことを、きちんとお話しできるように、と思っています。こちら改めますね。

今朝はやくに、二人で仕事場に行くと、窓際に、中くらいの蛙が来ていました。アマガエルのすこし大きいの?と聞くと、あのケロロ・・と鳴く、シュレーゲルだよ、とのことです。うれしい!です。

No.5910 - 2017/05/27(Sat) 10:10:44

Re: 続・ / hato

こんばんは。数日朝晩仕事が立て込み、やっとこのページを見ています。東京から友人が来ており、田舎の春を味わい、明日帰ります。この春は我が家に、かつてちょっとない、お客様ラッシュな日々でした。


> >しかし、夢の中なら夢の世界は在ると感じるように、この世の中であれば、この世という世界はあると感じるのため、あるとないの両方があり、どちらか一方ということがないのです。

> ですので、意識上に於いての、ある、ない、ですね。
> そうです。
> 意識上以外の「ある・ない」とは何でしょうか?



ある、または、ない、についての「事実」です。実在は知覚上、いずれにしても、ない。です。それは、世界が知覚されるされない、に依りません。


> 強いてあの体験とは、言葉として、経験、というと適切でしたが、先に書いているように、それは意識ではなかった、と言うことができます。世界の範疇にある意識(と表現するとして、)はその後に、経験を学ぶ必要があった、ということなのです。

>自我がないという経験は、意識下の出来事ではなかったということでしょうか?
>そうであれば、なぜその経験を認識できたのでしょうか?
>世界の範疇にある意識とは何でしょうか?
>個の意識ですか?集合的無意識ですか?
>そして、なぜその意識は経験を学ぶ必要があったのでしょうか?



意識とは、世界です。眼耳鼻舌身意が世界、です。意識された何某かを、自分と見做すことによって立ち現れていた自我、それまで有る、とされていた世界が、自分として消失した、その刹那は、意識下にありませんでした。起きたなら、経験を、人はあとから、学びます。


> その経験の刹那、それまでの自分は文字通り、ないのですから、「自分が認識すること」はできませんでした。了解とは、不可‐思議です。

>自分が認識できないものを、何が認識したのでしょうか?
>そして、何かが認識したものを、なぜ自分が理解できたのでしょうか?



自己です。と表現します。なぜ自分として、理解できるのか?自己に通じる経験から学ぶからです。自己(これは単に呼び方ですが、)は、身体や意識にとって、圧縮データのかたまりで、漠然と、解凍する必要があるとの感じを長く、持っていました。


> この場合の、「ない」と、一方でゆらぎさんが言われていた、世界はプログラミングされているようなもので、「自分を含め、すべては無自性であり、自由意思もないということが腑に落ちた、つまり自分がないということに疑問がなくなったということです。」の、ない、は違いますね。

>『この場合の、「ない」』とは、経験した「ない」であり、思考から導かれた「ない」とは違うということでしょうか?その違いに、どんな意味があるのでしょう?経験した「ない」が、どのように優れているのでしょうか?


人がたとえば、いつかのスレッドでお話した、ある意味、一方通行の自我として生きる場合、知識と思考から導かれたことが、その人としての事実の「ない」に届くことは、おそらく、困難です。

その経験が事実なら・・・人はこの世界で、誰も知らない野原に咲いてる、一輪の花のようです。


> 「自分で掴めない自分」、それは困難なことに、自我であっても、自己(ここでの表現を使います)であっても、そのようにあります。ではその違いはなんでしょう、もし、人がただ偏り(自我)から転換されていなかったら、どうすればいいのでしょう?

> 偏りとは、どのような基準に対して対して偏っているのでしょうか?
> そして、その基準が基準たる根拠は何でしょうか?
> また、それが転換されるとは、どうなることでしょうか?



人が、真実の「ない」を経験しないとき、これはまったく喩えですが、その自分(自我)を、暗闇でなにも見えないところを歩いている人、としますと、一方は、見えない一縷の糸に繋がり、足元を照らす灯を携えた、と言えると思います。偏りについては、これまでお話していることで、ご理解頂けるのでは・・と思います。


> 自我は多く、ものごとにすり替えが可能です。微妙に狡猾、それは特徴として、そうあらざるを得ませんが、 そのことに、ほんのすこしでも、気が付くことができたら、

>自我の目的は生き残ることであり、そのために自分自身に対する問題をつくることが仕事です。そのために狡猾さが必要ですが、自我とはそのようにプログラムされたアプリケーションソフトですから、そうあらざるを得ないのです。

> 先ず人は、自分自身に、ではなく、世界の事象に、でもなく、「不可思議という事実に」素直であること。それを正しく希求すること。だけです。

>希求したら、素直と言えなくなりませんか?



希求。この場合、発心とも言います。糺したいと願う、とも言うことができます。正しいことは、ただ正しい、としてあること。反対がない、ということはシンプルです。いいわるい、でない善い、とも言うことができます。相対する何某かでない、それとしてあること、です。


>また、正しくと言った瞬間に、逸れていきませんか?


人や世界は言葉と接着しておらず、としてなにか無理に接着しょうとする必要なく、正しいは、ただ、正しい、です。


>hatoさんは、自我のない経験をされる前と後では、何がどのように変わったのでしょうか?


もし人が、そのことを経験したとして、眼耳鼻舌身意。持っているものは変わらないと思います。hatoちゃんも、まあまあ、hatoちゃんです。

そして尚、多く言い方があるとして、いいわるい、でない善い、ことを生きることができる、その可能性に拓かれることは、幸せかも知れない、と思います。

といってこの日常。とくにこうして書いていなければ、神も自己もない、とくに不思議も必要ない、ご存じの通り、とてもとても、ふつうです。

びっくりするほど、ふつうですすす。。。

No.5915 - 2017/05/30(Tue) 01:54:07

Re: 続・ / ゆらぎ
おはようございます。

お客様ラッシュの中、超めんどくさい質問にお答え頂きまことに有難うございました。

残念ながら、私にはhatoさんの書き込まれた内容を理解する能力がありません。どこが私の質問に対するお答えなのかさえ、さっぱり分かりません。

まことに、hatoちゃん恐るべし!です・・

ということで、このあたりでお終いにさせて下さい。

No.5918 - 2017/05/31(Wed) 05:40:51

Re: 続・ / hato

こちらこそお気遣いをさまざま、ありがとうございました。どうぞお元気でいてください。(ubik0101さんとお話してください)

先日、ubik0101さんと知人と、森林がとてもいい、小國神社に行きました。数十メートルはあるような杉の木立ちを見上げると、上のほうに、たくさんの花が咲いてる・・・桜のような・・・・風蘭でした。きれいに撮れませんでしたが、とても素敵でした。

それでは、また。

No.5922 - 2017/06/01(Thu) 23:23:59

Re: 続・ / ゆらぎ
> こちらこそお気遣いをさまざま、ありがとうございました。どうぞお元気でいてください。(ubik0101さんとお話してください)

有難うございます。
ubik0101さんへの返信に、「私はシュミレーションが目的ではなく、3次元の映画だと思っています。・・・どちらにしても、ドタバタ・ジタバタするわけで、それを一所懸命演技することが、生き甲斐なのだと思います」と書きました。
目を通して戴けると幸いです。

No.5927 - 2017/06/04(Sun) 08:31:21