車で15分のお墓ですけれども、今年初めての墓掃除です。公園のような緑の中の墓地で風が爽やかでした。草むしったり・石を拭いたり、落ち葉を拾ったりの1時間。入っているのは母親一人ですけれども、そのうちに親戚一同皆で入居予定です。
なんで死んだ人の世話を今行うのか?の一つの答えが下記の栄宗寺住職様の言葉です。古仏も何でかわかりませんけれども、ご先祖様を敬います。自分の親だけを特別に尊ぶ古仏はいないとおもいますけれども。
「あなたは私たちにとって、
これだけの時間や手間をかけて見送るに値する存在でしたよ
きちんと正装をし、見送るに値する存在でしたよ」
生き物の死を見ると、当然ながら生の事が思いに産まれ「私は誰」という質問が起こります。
「私は誰」の回答は、対象ではないモノ。対象である言葉においては「意識できるモノ・コトすべては私ではない」となることは理解できます。
偏るを別の言葉で言い換えると、全ての可能性の中から一つの出来事・モノ・思考を選んで確定する、ということでしょう。 おいらはあらゆる可能性、時間・場所・形の中の一つを選択しエンターキーを押して顕現したもの。おいらの顕現は因果の結果であるけれども、究極においては何の脈絡も無く表れている。
突然の様に緑の中から純白の花が咲きました。元の住人が池の傍に植えたのでしょう。
![]() |
No.5964 - 2017/06/19(Mon) 21:45:06
|