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記事No.5999に関するスレッドです

(No Subject) / ubik0101
ゆらぎさん

>通常、完成とは機能の目的ではなく、機能する対象のことでは?

もしかして、ゆらぎさんの指摘は、設計図は船ではない、設計図そのものが変化して船になるのではない、という意味でしょうか。こちらは、一連の過程が終わった、という意味です。でも、もともと人は完成してるので変化はない、過程もない、悟りはない、ということなら、そこを探るといいかもしれません。

>知覚と意思は別です。
>知覚はセンサーであり、意思はセンサーからの入力に対して処理した結果であり、処理そのものが自由ではなく、単なる反応に過ぎないということです。


もしかして、知覚を認識するという処理は単なる反応だ、ということでしょうか?たとえば初夏の庭が窓の外に展開してるなら、そのまま見える。どこか遠くを走る自動車の音がそのまま聞こえる・・・眼は見えるように、耳は聞こえるようにできてて、それは自由ではない・・・たぶん、こいうということではないでしょう。

おそらく、知覚という受動に対する能動を意思と呼ぶとして、それは単なる反応だ。ということでしょうか。でも、たとえば、ゆらぎさんの投稿に、さまざまに反応できます。どうしようかな?賛成も、反論もできるでしょう。さまざまな反応・・・でも実際に起きることは、起こすことができるのは、その内の一つの道筋です。たとえば返信する、返信しない、を同時にできません。

ひとすじの道しか起こらなかった、起こらないから・・・なにかを変えた所で、ありとありえる起こらなかったこととの、対比ができません。それで、変えたとしても、変わったとしても、なにも変えられなかった、と常にこれしかない現状だけを見て判断することができるのではないでしょうか。これは、あれこれ迷わずにすむという利点はあるようです。しかしまた、ひとつの結果を見て、なにかを変えた、とも判断できるでしょう。

この、知覚からの反応を選択できない、選択できる・・・どちらにしても選択するだけということなら予め、なにがなんだかわからない世界から、特定の個別のこと・・・返信する、しない、賛成、反対とか、優柔不断とか・・・いわゆる既知のこととして切り出してから、すでに反応の範疇で見ているのではないでしょうか。いわゆる思考の範疇ではないでしょうか。

それと・・・知覚からの反応に、ゆらぎ、はないのでしょうか?また・・・とある知覚がないと絶対に、行動は、発言は、思考は、不可能でしょうか?また・・・人が、反応したことではなく、その人のありとあらゆる反応しなかったこと、は知覚からの反応に数えられるのでしょうか?

また・・・決定されたことを見て、なんであれ理想的なことしか起こらないので、自由意思はなくていいと見るということでしょうか?もしかして、ただ反応、その連鎖が起こってるだけなのに、それを自分で起こしてると思う・・・世界が人にしてるのに、人が自分でしてると勘違いするのが自我・・・ということなのでしょうか。いろいろ探ると、また長文失礼です。

もっと簡単に・・・歩いてて雨が降れば傘を差す、傘を持ってなければ走る、水たまりがあれば飛び越える・・・また、誰かの投稿に返信するなら、いい加減な返信でなくあろうとします。なるべく正確に話そうとします。なので反応だとしてもそれはその人の状況、状態、境涯を現す、ということでしょうか。

なんにせよ、なにか起こったことは・・・自由意思があろうとなかろうと・・・その人のしたこと、しなかったことは、これは絶対に変えられない・・・変えられない過去になる今を、人は今つくってるのではないでしょうか。

悪いことをせず善いことをしよう。真善美。それほど人は大事なことをしてるということで、その場その場で全力を尽くす・・・自由意思があるないの探査は面白いとしても、世界が夢でも仮想でもリアルでも縁起でも即今でも、どうでもよくてと、思うのです。

ところで。滑らかに動く時計の秒針が、どうして止まって見えるのか?しかも再び動き出すとき、スキップしないで、その止まった位置から動き出すのだろう?と疑問を感じてて、ネットで探ってみたら、こんなのがありました。

https://matome.naver.jp/odai/2139045663922760601

No.5990 - 2017/06/27(Tue) 07:25:58

Re: / ゆらぎ
一週間のご無沙汰です。

> >通常、完成とは機能の目的ではなく、機能する対象のことでは?
>
> もしかして、ゆらぎさんの指摘は、設計図は船ではない、設計図そのものが変化して船になるのではない、という意味でしょうか。こちらは、一連の過程が終わった、という意味です。でも、もともと人は完成してるので変化はない、過程もない、悟りはない、ということなら、そこを探るといいかもしれません。


揚げ足を取るつもりは毛頭ないのですが、「その目的が完成した」と書かれておりましたので、目的が完成するのは変でしょ?ということが言いたかっただけです。
「その目的が成就した」ということだったのですね。

> >知覚と意思は別です。
> >知覚はセンサーであり、意思はセンサーからの入力に対して処理した結果であり、処理そのものが自由ではなく、単なる反応に過ぎないということです。


> もしかして、知覚を認識するという処理は単なる反応だ、ということでしょうか?

そういうことです。

> おそらく、知覚という受動に対する能動を意思と呼ぶとして、それは単なる反応だ。ということでしょうか。でも、たとえば、ゆらぎさんの投稿に、さまざまに反応できます。どうしようかな?賛成も、反論もできるでしょう。さまざまな反応・・・でも実際に起きることは、起こすことができるのは、その内の一つの道筋です。たとえば返信する、返信しない、を同時にできません。

選択肢が無限にあるわけではありません。
反論するにも、浮かんできた思考から選択するしかありません。
そして、選択も自動的に起こっております。
結果的にそれしか選択できなかったのですから、自由はありません。

> それと・・・知覚からの反応に、ゆらぎ、はないのでしょうか?また・・・とある知覚がないと絶対に、行動は、発言は、思考は、不可能でしょうか?また・・・人が、反応したことではなく、その人のありとあらゆる反応しなかったこと、は知覚からの反応に数えられるのでしょうか?

反応しないということも、反応の範疇でしょう。

> また・・・決定されたことを見て、なんであれ理想的なことしか起こらないので、自由意思はなくていいと見るということでしょうか?もしかして、ただ反応、その連鎖が起こってるだけなのに、それを自分で起こしてると思う・・・世界が人にしてるのに、人が自分でしてると勘違いするのが自我・・・ということなのでしょうか。いろいろ探ると、また長文失礼です。

理想的なことだけが起こるわけではありませんし、自由意思がなくていいとか悪いとかも考えたことはないです。
ただ起こっているのに、自分が起こしているという勘違いは、自我の機能の一部だと思います。

> もっと簡単に・・・歩いてて雨が降れば傘を差す、傘を持ってなければ走る、水たまりがあれば飛び越える・・・また、誰かの投稿に返信するなら、いい加減な返信でなくあろうとします。なるべく正確に話そうとします。なので反応だとしてもそれはその人の状況、状態、境涯を現す、ということでしょうか。

「反応だとしてもそれはその人の状況、状態、境涯を現す」と定義すれば、そうなります。

> なんにせよ、なにか起こったことは・・・自由意思があろうとなかろうと・・・その人のしたこと、しなかったことは、これは絶対に変えられない・・・変えられない過去になる今を、人は今つくってるのではないでしょうか。

自由意思が無ければ、つくっているのではなく、起こっているという表現になります。

> 悪いことをせず善いことをしよう。真善美。それほど人は大事なことをしてるということで、その場その場で全力を尽くす・・・自由意思があるないの探査は面白いとしても、世界が夢でも仮想でもリアルでも縁起でも即今でも、どうでもよくてと、思うのです。

私も全く同じ思いです。
どうでもよいので、探求が止みました。
新しい朝が来て、用意された舞台に飛び込んでいく。
そして、そこで最善を尽くす、ただそれだけです。

> ところで。滑らかに動く時計の秒針が、どうして止まって見えるのか?しかも再び動き出すとき、スキップしないで、その止まった位置から動き出すのだろう?と疑問を感じてて、ネットで探ってみたら、こんなのがありました。

脳は、この世に現実感を与えるために、いろんなことをやっています。
明暗の錯視には、驚かされます。

http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/v/checkerShadow/ja/

No.5996 - 2017/07/01(Sat) 07:55:13

Re: / ubik0101
>理想的なことだけが起こるわけではありませんし、自由意思がなくていいとか悪いとかも考えたことはないです。
>ただ起こっているのに、自分が起こしているという勘違いは、自我の機能の一部だと思います。


そうです、自我の一部の機能です。ひとつの解釈です。それで、それだけならどうも、たとえば、もの、ことは、ただ起こってるだけ、自分はない、とか。その理解に接着してしまう傾向があるようです。

ほかにも・・・たとえば思考は問題だ。たとえば過去未来は問題だ、とかあるようです。その意見は自我の否定を基礎にしてるので自我の範疇です。まあ自我も世界の機能なので、どうでもいいですけど。

なにかを自分が起こしてるでも、世界が起こしてるでも、ただ起こってるでも、人それぞれの解釈なのですけど、やはり人としての実際、真実、ではないです。探求はそんな程度で終わることではないです。

なるべくなら、というより自然にそうなるのですけど、どこかで聞いたことではなく、ひとつの解釈ではなく自分で自我の機能のさまざまを理解して、その特定の個別の理解からも離れることが大事と思います。

>脳は、この世に現実感を与えるために、いろんなことをやっています。
>明暗の錯視には、驚かされます。


これは動いて見える静止画のサイトです。こんなのを作画する人もいるのですね。

http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/index-j.html

No.5997 - 2017/07/02(Sun) 20:22:04

Re: / ゆらぎ
> そうです、自我の一部の機能です。ひとつの解釈です。それで、それだけならどうも、たとえば、もの、ことは、ただ起こってるだけ、自分はない、とか。その理解に接着してしまう傾向があるようです。
>
> ほかにも・・・たとえば思考は問題だ。たとえば過去未来は問題だ、とかあるようです。その意見は自我の否定を基礎にしてるので自我の範疇です。まあ自我も世界の機能なので、どうでもいいですけど。
>
> なにかを自分が起こしてるでも、世界が起こしてるでも、ただ起こってるでも、人それぞれの解釈なのですけど、やはり人としての実際、真実、ではないです。探求はそんな程度で終わることではないです。
>
> なるべくなら、というより自然にそうなるのですけど、どこかで聞いたことではなく、ひとつの解釈ではなく自分で自我の機能のさまざまを理解して、その特定の個別の理解からも離れることが大事と思います。


それらは全て、ubik0101さんの解釈に過ぎません。
私の解釈とubik0101さんの解釈を並べて、あーだこーだと言ってもしょうがないのですよ。

出来ることは、生きることだけです。

今日も新しい朝が来ました。

舞台の幕が上がったのです。
私は、その舞台で最善を尽くす、ただそれだけです。

No.5998 - 2017/07/03(Mon) 06:35:07

Re: / ubik0101&hato
そいうのは、現実に現実逃避・・・て、実に久しぶりに誰かに言いますが・・・たしか新しい芽さんにその掲示版で言ったことがあるのですが・・・これは難しい問題のようです。

もう5〜6年前の夕暮れ時、2人で散歩してると、とある家の前で名前を呼ばれました。聞くと、10棟ほどのガラスハウスでメロンを作っているそうです。

それから3人で、遠くの山に登ったり、ご飯に呼んだり、メロンや山菜を貰ったりしていました。仕事場を探すのを手伝ったりしてくれました。先日、膵臓がんで死にました。

なんか、なんとも言えないのですが、ほんとに人って死ぬのです。焼かれてしまうのです。たぶんですが、明日は来ないのです。この舞台の幕は開かないのです。意識はその先を知りませんが、自己は知っています。

もちろん知識として誰も知ることはできるのですが・・・それでも、これが何であるかも知りませんが、ほんとに何も知らない・・・何にも納得できず、その意味での腑に落ちるどんなこともないです。なにか自分にとって、なんであれ目標がある探求は、探求と呼べないのでしょう。

これ、がこれでなくていいのに、これ。この日常が不思議、神秘。そんなことも忘れますが、おおむねですが、自分の状態は自分の状態に現われてる、それを見るだけで、探求が探求を導きます。

これは特定の誰彼に言うわけではないですが、なにか思ったら、たとえば人生は舞台、人は役者。自分はない。そんなに選択肢はない。私は神。誰かが好き、嫌い、腑に落ちた・・・なんであれ、こうだ。ということがあるなら・・・

それだけを、まあ大袈裟に言えばですが、それから逃げず自分に浸透させるように見る・・・ただ見るということですが・・・こいうことに慣れてないなら、それをあらゆる角度から見る、あるゆることに適応してみる。その奥を見る、

とくに誰から学んだことでもないのですが、これだけが自分の探求です。ガイドも地図も不要です。ふつうの日常がそうなんです。これは一般性、普遍性があるかどうか知らないので、やってみて欲しいのですが・・・です。

ubik0101

汝我を知れ・・・と、太初の昔から言われているそうです。一体なんなんでしょう。そして、でも、我を知ることに、世界の優れた学問や知識が、ことさら必要とは、思えないのです。

それらは、興味の対象として面白いけれど、それはそれだけのこと、ではないでしょうか。つまりそれは決して、本来の意味に於いての、自身を知る、ことにはならないと思います。

自分をプログラミングされたなにかと納得したら。それはまるで自死のよう。それはまったく、明らめるではない、人であることを、諦めているようなものではないでしょうか。これは念のため、諦観とは、言えないようです。

そんなことを、思いました。

紫陽花、きれいです。色とりどりのあじさいを楽しみます。

hato

No.5999 - 2017/07/03(Mon) 20:33:16

Re: / ゆらぎ
ubik0101さんもhatoさんも、私のためを思ってアドバイスを下さるのは、たいへんありがたいのですけれど、そこのところは通過してきました。
探求しているうちは、見つからないのですよ。
自分の翼がどこにあるのだろうと探しているうちは、決して飛べません。
そんなことは放っておいて、ただ羽ばたけばいいんです。
そうすうると大空に舞い上がり、今まで見えなかったものが、見えてきます。

hatoさんは、自分を知る人になりたいのでしょうか?
私は、何者にもなる必要がないことに気が付きました。
何もコントロール出来ないので、何者にもなれないのです。
それは、自死ではなく、新しく生まれたのです。
何もコントロール出来ないから、自由なんです。
何者にもなる必要がないから自由なんです。
逃げているのではなく、挑戦する自由を得たのです。
自由意思が無いから自由なんです。

要は、頭の中でこねくり回していないで、自分が腑に落ちたことをやってみればいいんです。
私は今、人生が楽しくて仕方がありません。
不安や恐怖の感情がわいてくることが激減したので、いろんなことに挑戦しています。
若いころから悩まされていた神経症的な症状も殆ど消失しました。
人生って、こんなにも変わるんだと驚いています。

これまで、自分が生まれてきたこと、自分が存在していること自体を肯定出来なかったのですが、今は自分自身を、満面の笑みで眺めています。

No.6000 - 2017/07/04(Tue) 06:20:14

Re: / hato
こんばんは。すっかり暑い頃ですね。

そうですね、うまく、言えないのですが、探求は、なにかになるため、或は、この世界の人生を上手に乗り切るため・・・ではないです。生きる限りは、見つけて終わり・・・というものでもなさそうです。

人生をうまく渡っていても、それはどういうわけか、それだけのことだ・・・どんなに世間に認められていても、素晴らしくても、感動的で涙が出ることでも、自分を肯定しても否定しても、

もし人が、その自己、というところを学んでいなければ、それだけのことだ・・・

ということを、この自分は了解している、だけです。

自我とはたとえば、この世界のなにかひとつの状態を切り取って説明することができない・・・こんなことをしていたら、感じていたら、自我だ・・・これも自我、あれは無我・・・それなら、枝葉末節のようです。自己というところ、その真実は見えないかも知れません。

そうでなく、先ず人が、その偏り、(一方通行の様相の自我、)を脱しているとき、或は、そのことに気付いて、「自己」として真摯に学ぼうとするとき、

人は「自己」として生きて学べる・・・進むことができる・・・どういうわけか、世界は、人は、そのようにできている・・・そうしないことも、可能だけれど、先ずはそのようにできている・・・ということが大事、て思います。

として、ゆらぎさんの人生が、楽しみに満ちていて、とてもよかった。


わたしのいまの、ささやかな幸せは・・・

仕事の合間に家に戻り、数分、ソファに横になって、デッキの先のみどりの庭の、大きな桜の風情をぼんやり眺めていると、窓から初夏の、やさしいそよ風がやってきて・・・ふいに、なんともいえない幸福が湧き起こり・・・というところ・・・割り込みごめんなさい、それではでは。

庭にたくさん植えているトネリコの花が、満開です。

No.6002 - 2017/07/07(Fri) 00:39:37

Re: / ゆらぎ
おはようございます。

> 人生をうまく渡っていても、それはどういうわけか、それだけのことだ・・・どんなに世間に認められていても、素晴らしくても、感動的で涙が出ることでも、自分を肯定しても否定しても、
> もし人が、その自己、というところを学んでいなければ、それだけのことだ・・・
> ということを、この自分は了解している、だけです。


自己を学ばなければならないというのが、hatoさんの物語なのですね。

> 自我とはたとえば、この世界のなにかひとつの状態を切り取って説明することができない・・・こんなことをしていたら、感じていたら、自我だ・・・これも自我、あれは無我・・・それなら、枝葉末節のようです。自己というところ、その真実は見えないかも知れません。
> そうでなく、先ず人が、その偏り、(一方通行の様相の自我、)を脱しているとき、或は、そのことに気付いて、「自己」として真摯に学ぼうとするとき、
> 人は「自己」として生きて学べる・・・進むことができる・・・どういうわけか、世界は、人は、そのようにできている・・・そうしないことも、可能だけれど、先ずはそのようにできている・・・ということが大事、て思います。


そして、心の偏りを脱しているとき、「自己」として生きて学べる・・・進むことができるというのが、hatoさんの物語なのですね。

人は、それぞれに自分の物語をえがき、その実現に向かって努力します。
そして、壁にぶち当たっては、度々その物語を書き換えます。
私も、長い間、そのようにやってきました。
しかし、今は物語をえがくことを止めました。
物語は、既に出来上がっており、えがく必要がないことに気が付いたからです。
〜するべきものは、何もないと気が付いたからです。
そうしたら、前に書いた通り、日々是好日が現実のものとなりました。

> として、ゆらぎさんの人生が、楽しみに満ちていて、とてもよかった。

有難うございます。
今は、90歳近い両親と家内との4人暮らしであり、楽しい日々です。
父は要介護2であり、母も若い時のようには体が動かないとこぼしています。
年老いて施設に入るのは気苦労もあってたいへんだけど、仲の良い家族に囲まれて暮らせるのは天国のようだと、父母は言います。
「〜するべき」が無ければ、天国なんです。
家族のやりたいことを実現するために、お互いが協力し合う、ただこれだけなんです。

家庭菜園で採れた、キュウリやトマトやナスがホントに美味しい季節です。
暑いせいか、今年のトウモロコシは甘くて絶品でした。

No.6003 - 2017/07/09(Sun) 07:00:27

Re: / hato

こんにちは。なんと、すっかり夏の庭から、お送りします。もう7月。暑くなりましたね!


> 自己を学ばなければならないというのが、hatoさんの物語なのですね。


そうですね、、、これは、とてもとても、わたし個人に限ったことではないのですが、いまのゆらぎさんにご理解頂くのは、困難なことかも知れませんね。たびたび、ご不快承知で、書いています。

人に、その「自己」であるための変容・変化(成長)が必要か?不要か?ということでいえば、この対話のはじめのどこかでお話させて頂いたように、人生というところを味わい、充分に生きることのためには、とくに不要とも言えるのでは、と自分は思っています。

ですが、人の意識の変容・変化について理解し合うとするなら、どうしても人に、そのための「発心と時機」が不可欠と思います。それは年齢、それまでしてきたこと、今していること・・・というよりは、自己に誠実であること、嘘やすり替えのない、光線のように怜悧、瞬発力をもってものごとを見る力、そうであることを可能にする資質を要します。

それは、精神の成り行きをただ一気に俯瞰させて、自身に抜け道を作ることでない、どこまでも自身を見ていく、詰めていくことで有効です。

ここで、ゆらぎさんの方法論通り、もし人生の経緯、流れというものが、(プログラミングされた内容が、)その人に、なにかについてほかの反応、選択を許さないとしたら、この場合のことでいえば、単に時機では、ないのかも知れません。

なぜ、ここまで言わねばならないかといえば、これまでのお話から、もし、その変化を経ていたなら、或は、自己というところに誠実であろうとするとき、そのようには考えない。ということが明らかです。ここは不可逆、戻れない道、といわれる所以です。

この意味で、経験した人、しない人、それぞれの2人が、同じ土俵で理解し合うことは、「理解しょう」という意志がない限り、困難なことかも知れません。どうしても、文面、文脈以前に、疎通されていなければならないことがあるからです。

誰にとっても、ほんのちょっと、の誤解と、それを守ってしまう頑なさが、本当は問題なのでしょう。誤解は、自己についての不誠実さから、起きていると思います。

人生を十全、十分に生きよう!とすることは、いいわるいでない、善、です。

夏野菜のみずみずしさ、たまりませんね。静岡は森町の、人気トウモロコシ、甘甘娘(カンカンムスメ)も美味しいです!

いまあちこちに、
薄紫のアガパンサスが咲いています。

No.6004 - 2017/07/10(Mon) 16:28:14

Re: / ゆらぎ
久しぶりのこんばんは!です。

> > 自己を学ばなければならないというのが、hatoさんの物語なのですね。
>
>
> そうですね、、、これは、とてもとても、わたし個人に限ったことではないのですが、いまのゆらぎさんにご理解頂くのは、困難なことかも知れませんね。たびたび、ご不快承知で、書いています。


不快ではありませんし、理解も出来ます。
みんなが歩む道ですから。

それにhatoさんの物語を否定しているわけではありません。
おとぎ話は、楽しいのです。
希望がありますから。

何かを求めるか、何も求めないかの違いです。

私は、希望がありません。
希望が必要なくなったのです。
何も求める必要がなくなったのです。

そうすると、喜びが自然にやってきます。
面白いものですね。(笑)

一つ、質問です。
hatoさんにとって、私の何が問題なのでしょう?

No.6006 - 2017/07/11(Tue) 20:21:04

Re: / hato

いつもこんばんは。☺

人生の若輩が、ごめんなさい。単刀直入がよしわるしなんでしょう。気が短いのです。

まったく無関係ですが、とても久しぶりに、愚さんの書いてるページをのぞいて見たら、愚さん変わった。とちょち、うれしいくなりました。。
まあ、それなりです。(←パパ割り込み)


希望があるように見えるのは、なんだか、こっぱづかしいものですね!(嬉)

おそらく、ゆらぎさんや、この掲示板を読んでいる方が思う通りの私たち、ではないかも知れませんが、

自分も、いつのことか、その意味では「こうしたい、」ということを、なんとか捻り出すようなところにいました。なにも、とくべつなにもない。けど、「こうしたい!」ということも、風任せなことも・・・どちらも、あっていいのです。
希望があるから自我、ないから無我、神、ということでない、自我も無我も、ある意味偏りです。

希望がない。それも人生の道なりなのでしょうが、

ゆらぎさんのお話しの通りですと、量子理論やプログラミング・・・・自身がただ、そうであることを、知識で補完されるのは、とてもちがいますね。

なにかの中間にも、極端でもない・・・たとえば、偏りない、ということです。十全であること。十分(じゅうぶん)、ということ。

求めないことが、求めることの先にある・・・だけではない、こと。或はそれは、対にあるわけではないこと。また、自分を肯定できることが終点でも、ないこと。

「どこまでも行こう!」

とubik0101さんがうたいます。生きてるということ、それが探求です。希望がないと、思いもよらないほど、ないのに・・・その自分をうち捨て、打ち捨て、進む、進む、進む、・・・静かに壮絶です。


なぜか??

それが、自己だから。

十全な、自己だからです。


なにかを諦めるとか捨てたとか、自我とか無我とかそれすら手放し、躊躇わず、どんどんいきます。なのでなにか、聞かれたら、そういうことを話すこともあるけれど、ふだんは、殆どばかみたいに忘れている日常です。でもね、まったく忘れていても大丈夫。なんの見返すこともなく、心配しなくても、話の続きは、きちんと続いてここから出てきてくれることを、意識はあとから知ります。意識とはそのようなことです。意識はあとから、学ぶことができます。


ところで、いま住んでいる家は、自分たちの所有ではありません。管理人さんのようです。すきなようにしていいとのことで、ubik0101さんが、庭を作ってくれています。いろいろあって、手元に残るお金は、いつも数万円。が、そんなこんなのてんてこまいも、了解!できることを、しょう!

こんな感じでしょうか。


5月に、垣根にヤマホロシを植えてくれました。
薄紫と白い、可憐な花がたくさん咲きます。

No.6008 - 2017/07/12(Wed) 00:33:44

Re: / ゆらぎ
暑い日が続きますね。

私の説明が宜しくなくて、hatoさんが勘違いされているようですね。

量子論やシュミレーション仮説は知識の補完ではありません。
自分や世界は実体ではないことが腑に落ちてから、いろんなものが結びついただけのことです。
シュミレーション仮説の存在を知ったのもごく最近であり、世の中には自分と同じように感じている人がこんなにも多いんだとビックリしました。

いくら、知識を積み上げても、それだけでは探求が止むということは、起こりません。
そんな単純な話ではありません。
自分自身はごまかすことが出来ません。

そして、「〜でなければならない」とか「〜は間違っている」と決めつけることは、おとぎ話なんです。

勿論、量子論もシュミレーション仮説もおとぎ話なんです。
おとぎ話と分かったら、それを手放すことが出来ます。
探究が止むということは、すべてのおとぎ話を手放すことなんです。
私は既に手放しました。
hatoさんは、まだ握りしめているように見受けられます。

ですから、今の私は、ただ生きるだけです。
それが、自由で楽しいんです。
日常生活に対するスタンスは、hatoさんやubik0101さんと同じだと思いますよ。

No.6010 - 2017/07/16(Sun) 10:45:56

Re: / hato

おはようございます。
暑さがくる前の、清々しい朝です。

いつもお付き合いを、ありがとうございます。


>量子論やシュミレーション仮説は知識の補完ではありません。
>自分や世界は実体ではないことが腑に落ちてから、いろんなものが結びついただけのことです。



そうですね、なのでゆらぎさんのお話しの主体は、つねにその自分、ではなかったでしょうか。腑に落ちるその自分、とは、実態のない自分、ではなかったでしょうか?


として、ここで終わりますね。

今日もいい日でありますように。


>そして、「〜でなければならない」とか「〜は間違っている」と決めつけることは、おとぎ話なんです。


自己とは、法。

おとぎ話に、おさまりません。

それは、生きて学ぶこと。学ぶとは創る、こと。

ということを、承知しているのだと思います。


猛暑の折、ご家族ともに、どうぞ身体を大事にしてください。

No.6012 - 2017/07/17(Mon) 07:41:40

Re: / ゆらぎ
今日は休日なので、のんびりです

> >量子論やシュミレーション仮説は知識の補完ではありません。
> >自分や世界は実体ではないことが腑に落ちてから、いろんなものが結びついただけのことです。


> そうですね、なのでゆらぎさんのお話しの主体は、つねにその自分、ではなかったでしょうか。腑に落ちるその自分、とは、実態のない自分、ではなかったでしょうか?

ご質問の意味がよく分かりませんが、実体ではない自分が自性が無いことを了解したということです。
それが、何かおかしいでしょうか?

> >そして、「〜でなければならない」とか「〜は間違っている」と決めつけることは、おとぎ話なんです。

> 自己とは、法。
>
> おとぎ話に、おさまりません。
>
> それは、生きて学ぶこと。学ぶとは創る、こと。
>
> ということを、承知しているのだと思います。


そう決めることをおとぎ話と表現しております。

> 猛暑の折、ご家族ともに、どうぞ身体を大事にしてください。

皆様も、どうぞご自愛ください。

No.6014 - 2017/07/17(Mon) 09:45:21

Re: / hato

こんばんは。


>ご質問の意味がよく分かりませんが、実体ではない自分が自性が無いことを了解したということです。それが、何かおかしいでしょうか?


もちろん、他人に自分を理解される必要はないのですが、

「実体ではない自分が自性が無いことを了解した」というなら・・・・端的にいえば、ここでは、それが自我、ということですね。


そしてゆらぎさんは、そのゆらぎさんの、理解できる・・・できない・・・・を、基準にされてきたのかも、知れません。それは、自我の機能であり、先ず手放す必要のあること、と言えるでしょうね。

として、どこかで聞いた、真理のような知識を継ぎ接ぎして考えることも・・・世界にはありで・・・・それはその人の自由、自己責任と思います。

煩かったでしょうが、わたしは必要なことを、お話しできました。


> そう決めることをおとぎ話と表現しております。

おとぎばなしと決めた、のですね。


梅雨の名残り、おたくさがうつくしいです。

おやすみなさい。

No.6021 - 2017/07/18(Tue) 00:15:16

Re: / 大阪
どっちでもいいすやん笑笑
No.6022 - 2017/07/18(Tue) 00:31:46

Re: / ゆらぎ
おはようございます。

> >ご質問の意味がよく分かりませんが、実体ではない自分が自性が無いことを了解したということです。それが、何かおかしいでしょうか?
>
>
> もちろん、他人に自分を理解される必要はないのですが、
>
> 「実体ではない自分が自性が無いことを了解した」というなら・・・・端的にいえば、ここでは、それが自我、ということですね。


そうです。

> そしてゆらぎさんは、そのゆらぎさんの、理解できる・・・できない・・・・を、基準にされてきたのかも、知れません。それは、自我の機能であり、先ず手放す必要のあること、と言えるでしょうね。

自我の機能は手放せません。
手放すと、日常生活が成り立ちません。

> として、どこかで聞いた、真理のような知識を継ぎ接ぎして考えることも・・・世界にはありで・・・・それはその人の自由、自己責任と思います。

誰にも何の責任もありません。
ただ、起こっていることです。
そこに自分を持ち込むのでおかしくなります。

> 煩かったでしょうが、わたしは必要なことを、お話しできました。

それが、hatoさんのおとぎばなしです。
自分を持ち込まなければ、必要なことは何もありません。

> > そう決めることをおとぎ話と表現しております。
>
> おとぎばなしと決めた、のですね。


おとぎばなしの定義です。
定義は、おとぎばなしそのものではありません。

No.6023 - 2017/07/18(Tue) 06:04:38

Re: / hato

>自我の機能は手放せません。
>手放すと、日常生活が成り立ちません。



そうです。

ゆらぎさんは、その自分をそのようにして、守ってこられたのでしょう。いつか、腑に落ちるといいです。

このように論点のすり替えを、時々で起こして逃げることで、その自我はすり抜けてきたでしょう。ご自身は、辻褄を合わせて返答されているだけなので、気が付かないかも知れませんが、自己に誠実でない、ひそかに狡猾であるその自我ということは、表現されているものなのです。

自我、或は(無我を張った自我)、は一旦解消され、きちんと理解されることが望ましいです。その上で、この日常をして、さらに進んでいくことができる、ということでした。


> 誰にも何の責任もありません。
> ただ、起こっていることです。
> そこに自分を持ち込むのでおかしくなります。



それは、解消されていない自我故に。偏り故に。

自己は、責任ということも、過不足なく受けるだけです。

きっといつか、
ご理解頂ける、かも知れない、と思っています。


垣根のヤマホロシが咲いています。

それでは。

No.6025 - 2017/07/18(Tue) 12:33:26