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記事No.6047に関するスレッドです

かぼちゃの新芽はそれほど美味しくない。 / 勘太郎
 美味しいと言う方もいるので、楽しみにしてかぼちゃ新芽茹でてたべたけれども、それほどでもありません。味がないので、味付けの好材料かもしれません。細長い宿毛かぼちゃ、9月の初旬には収穫できるでしょう・・・・。

 かぼちゃの芽の伸びる方向が興味深いです。登り斜面の笹を刈って、日当たりを良くしたら、そちらに伸びるだろうと想像していたのです。実際は上下左右どちらでも。肥料のある場所に向かって伸びるようです。つまり他の作物が茂っていても、そちらの方に多くの新芽を伸ばします。大概の作物は乗り越えてしまう。光を求めて葉の茎(葉の柄)は1m近くにもなります。
 肥料の効いた濃い緑の葉は、日差しの強い日中萎れますが、薄緑のものは暑い午後もピンとしたまま、見ていて飽きない光景です。20分草むしりして、40分は木陰の椅子であたりを眺めて、放熱。日中は蚊が出ないのがうれしいです。

 思考を1点に縛り付けるのは、短い時間できます。時計の音に、ゴムの木の皮の皴に。
「思考を出てくるままにいじらない」と云われます。これが出来ません。出てくる思考を眺めている観察者と思考者の2者に分離してしまって、良くないと思ったり、思考の連鎖になってしまうように想像します。
 おいらの思う「思考を出てくるままにしていじらない」は、いつもしている妄想の連続・・・買わない宝くじが当たらないかな…急においらの頭がよくなないかな・・悟って夢の様な安定し不安のない心境にならないかなあ・・・
ではないのかなあ?とおもうのです。
 

No.6047 - 2017/08/06(Sun) 08:44:51

Re: かぼちゃの新芽はそれほど美味しくない。 / ubik0101
なぜ思考を弄らない、と言われるのかわかりませんが・・・思考は知覚で受動なのに・・・その思考を見て、さらにその思考の善悪、正誤、優劣、その思考してる自分の正当性とかを認め、判断しようとすると・・・つまり能動的に思考を再確認する姿勢を取ると・・・その判断しようと意味付けしようとしてる自分が、生起するかのように感じられる。

そんな自分が生起するためには、ほかの誰かとの関係とか、知識とか、この自覚でき得ない自分以外の自分、過去や未来などの関係、自分と分裂した距離のある根拠、視点を要する。そのようなことは広く世界を知ろうとすることでもあるのですが・・・また、この自分を確認しようとすることかもしれませんが・・・実際は、この自分。これが疎かになりやすいのでしょう。

というのも、思考を判断、意味付けすることで、その自分を自分で確認しようとしてる。それは自分が明確ではないと言うことです。明確であれば、確認しようとする必要がありません。このように自分がないでもいいですが・・・無相でも、透明でも、あるでも・・・とても変な言い方ですが自分と距離がなく見えない自分がはっきりしてるなら、自分を確認する必要もなく・・・ぽっと、思考だけがある。それで弄くらない。とかいうことなのかもしれません。

ところで、思考を受信する、再確認する、その意味を探っても・・・そうすることに問題があるわけではなく・・・大事は、自己が明確かということにあるので、それが大大丈夫なら・・・思考の、発言の、行動の、受動も能動も人を束縛することはないです。これが、泣いたり笑ったり怒ったり思考したりの、ふつうの日常です。

ただ自分が自分を自覚できない、ということは、諸悪の根源でもあるでしょう。たとえば自分が自分を自覚できないから、悪いことをできるのでしょう。嘘をつけるのでしょう。なので真摯なこと、素直なこと、嘘をつかないこと・・・そのような経緯は大切と思います。

カボチャの新芽が食べられるて、知りませんでした。こちらでは今、たくさん花は咲いています。そのオシベ(苦いらしい)を取り除いて、ありあわせのポテトサラダを詰めて、炒めてみました。花は無味ですが、なんか高級料理って、感じです。

No.6057 - 2017/08/06(Sun) 19:42:09