| すこし振り返りますと、将棋、碁のように総てが見えるように思えても、指し手の意向とかは、まあ見えないということなら、見えることと見えないことがあるということは、将棋、碁、トランプ、麻雀とかに共通してるかもしれません。この、見えない、ということは、どういうことでしょう。
ここではよく出す例ですが・・・ピアニストが、ご飯を食べたり庭に花を植えたりしてて、まったくピアノのことを忘れていても、やはりピアニストです。トラック運転手でも、数学の教授でも、棋士でも、そのような事態は同様です。ピアニスト、トラック運転手、数学の教授が、棋士が、
そのような技術を習得してないとき、習得した後。それぞれの技術をまったく考えだにしてないでいるとして、どう違うのでしょう。考えだにしないでも、習得以前は、ピアニストではなかった。考えだにしなくても習得以後は、ピアニストだと言えるのではないでしょうか。
もちろんこれも、一生が修行とも、習得以前も以後も違うとも違わないとも、どっちでもないとも言えるのです。ここでは、ごく当たり前のことは見えない、見ない、それでそうでないことを見る話を続けます。一方には、自分が自分を見えないことは諸悪の根源です。
しかしまた、総てが露で自分の言動思考が自分で見える・・・その自分が自分自身を見えないことは・・・それがまたそれを滅したところでもあります。白と黒の違いがあるとしてですけど、白と白の違いは無視できるでしょうか。
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No.6422 - 2018/02/21(Wed) 07:05:48 |