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記事No.6432に関するスレッドです

ついで話 / ubik0101
どこかの、おばあさんが言いました。将棋って、互いに盤面が見えてるのに、どうして勝負がつくの?トランプとか麻雀とかは、相手の手が見えないので勝負がつくと考えられるから・・・こんな疑問が起きたのかもしれません。ところで将棋の基本ルールは、なんでしょう。

それは歩とか飛車などの駒の動きでしょうか?それだと、ずいぶん昔には、現代の将棋とは違うルールの将棋があったそうです。チェスもあります。おそらくですが、将棋とかの基本ルールの一つは、対戦者が必要で、交互に一手を指す、ということにあるかもしれません。

であれば、将棋や碁のように盤面が見えてる、トランプや麻雀のように一部が見えないに関係なく、どうしても勝負がつかざるをえないのではないでしょうか。この、交互に指す、ということは、あまりに当たり前で、ルールブックに載ってるか知りませんが、実際に将棋とか麻雀とかをしても当然で、格別に意識されないところかもしれません。

さらに基本ルールは、盤面は見えても相手の考えは指すまでは見えないとか・・・さらには、生きてなければできない、ということもあるかもしれません。ルールブックには、たぶん、将棋をするのは生者に限るとか、こんなことは載ってはないかもしれません。これは意識されなくても、やっぱりそうです。たとえば将棋の達人も、将棋をしたことない人でも、やっぱりそうです。

No.6420 - 2018/02/19(Mon) 12:33:21

Re: ついで話 / ubik0101
すこし振り返りますと、将棋、碁のように総てが見えるように思えても、指し手の意向とかは、まあ見えないということなら、見えることと見えないことがあるということは、将棋、碁、トランプ、麻雀とかに共通してるかもしれません。この、見えない、ということは、どういうことでしょう。

ここではよく出す例ですが・・・ピアニストが、ご飯を食べたり庭に花を植えたりしてて、まったくピアノのことを忘れていても、やはりピアニストです。トラック運転手でも、数学の教授でも、棋士でも、そのような事態は同様です。ピアニスト、トラック運転手、数学の教授が、棋士が、

そのような技術を習得してないとき、習得した後。それぞれの技術をまったく考えだにしてないでいるとして、どう違うのでしょう。考えだにしないでも、習得以前は、ピアニストではなかった。考えだにしなくても習得以後は、ピアニストだと言えるのではないでしょうか。

もちろんこれも、一生が修行とも、習得以前も以後も違うとも違わないとも、どっちでもないとも言えるのです。ここでは、ごく当たり前のことは見えない、見ない、それでそうでないことを見る話を続けます。一方には、自分が自分を見えないことは諸悪の根源です。

しかしまた、総てが露で自分の言動思考が自分で見える・・・その自分が自分自身を見えないことは・・・それがまたそれを滅したところでもあります。白と黒の違いがあるとしてですけど、白と白の違いは無視できるでしょうか。

No.6422 - 2018/02/21(Wed) 07:05:48

Re: 自分の事を解らない。 / 勘太郎
 普段の生活において、自分がピアニスト(覚者)であることを意識できない。

 世界は私の意識が作り上げた創作であると言われても、信じられません。やっぱりヒヨドリは窓の外の街路樹の枝でピーピーと啼いています。

 覚醒時のかぼちゃの味とおいらが味わうかぼちゃの味に違いがありようがありません。白に、白と違う白があるはずがありません。
 
だとしたら、おいらは覚者だ!と言っても言わなくても区別はつかないと云う事になります。残念ながら、そうは思えなくて、覚者になったら、世界はバラ色になるのだろうと思っています。

No.6423 - 2018/02/21(Wed) 14:51:23

Re: ついで話 / ubik0101
バラ色というより透明ですが、それも消えます。人に進化段階があろうと、迷悟の違いがあろうとなかろうと、いつだって、その自分は、その自分の0地点にいます。その、なにもない、なんでもない、日常です。庭にジョウビタキが飛んでいます。

なにか変わるとすればですが、自分で自覚でき得ない自分なので、見える聞こえる対象、世界がどうだという亊ではない、とも言えます。それで、なんかそれらしい体験がないと自分を納得させられないのかもしれません。

いつも言いますが、この自分が、こうなりたいという、なにかゴール、結果を求めるというのではなく自分が立ってる、スタート地点を掘り下げていました。なにかの修行法とか、まったく知らなかったので、

ほかに出来ることなどなかったのですが、これ、いつまでやればいいのだろう?というか、終わりが感じられないで情けないなとは感じたこともあります。高度なことではなく、基本研究ばかりしていました。

なんであれ、始まった思考の展開を、自分でブロックしない・・・その自分の状態を成立させてる隠されたところは自然に思考が露にする。思考とは見ることです。そして嘘のない普段の生活、ふつうの日常それが探求・・・と思うのです。

ごく当たり前のことは、見えない、見ないのです。そして、それを前提として、見るのですが、それは見えないことから外れ外れて思考されます。たとえば愚かであって、愚かな自分を見ない、見えない・・・それで外を見る。

みんな外れます。これは思考の性質ではなく、その愚かさの特質です。たとえば自我であって、そんな自我な自分を見ない、見えない・・・それで外を見る。たとえば誰かの言動を見る。たとえば意地悪であって、たとえば偽善者であって、たとえば怠惰であって・・・その自分を見ない、のです。

そこで公平な思考、厳密な思考、もともと思考はそのような・・・誰とか彼とかのものでもなく、立場をつくるものではないのです・・・その思考で、自分の言動思考を度外視しないで、自分に切り込む。これだけです。意識と無意識が融合したらこれは普通の思考ですが、思考にはもともとその資質があります。

No.6424 - 2018/02/23(Fri) 07:53:10

Re: ついで話 / hato

バラ色の人生、ということでふと思いました。イエスや仏陀の人生は、バラ色だったのだろうか。

というよりは、艱難辛苦をものともせずいける、なにか、と思います。透明であることは、露になることをそのまま見る、と言う意味で、世界に関るなかで、より困難な人生であるとも言えるかも知れません。通常はそうでありたくないので、夢を見ていたいということがあると思います。

チャレンジの人生。皆、チャレンジしているのかも知れません。

世界で人を生きているのだから、自分が自分を糾すように、まったくの他人としても、それを見、意見できます。

でも、余計な拘り方が出来なくなる・・・人に関わらない、ということではないのに、
沢山の人たちや友人、隣人、世界に、親しみを持っており、意識として接着しない、できない。ということではないでしょうか。人との間に、余計な熱情がない、取り憑かれない、ではないでしょうか。このことは、楽、といえると思います。

ふと昔ubik0101さんに聞いた、医療関係に従事された神谷三恵子、という人を思い出しました。

No.6426 - 2018/02/25(Sun) 06:45:10

Re: 神谷三恵子さん、使命感に殉じた一生に思えます。 / 勘太郎
 ウイキペディアでざっと読んだ感想です。束縛された人生と観れば、これほど締め上げられた人生も少ないでしょう。hatoさんの言葉から推し量るとubik0101さんのお話は「使命に殉じて自由だった」と感じさせるものだったのでしょう。

 接心の食事は口の中の感覚と御師家様、周囲の食事儀式の進行次第に意識を集中する訓練を兼ねての修行です。接心時は解りませんでしたが、
 自宅に戻って口の中の感覚に意識を集中させるとき、食べているのはおいらではなく説明できない「何物にも接着しない」なかにおいて食べている感覚があります。

 雪解けが待ち遠しいのです。さて誰がまちどおしがっているのか?とおいらに尋ねると。この質問は明るい小雪の舞う窓の外の景色の中に消え行ってしまうような気がします。

 

No.6427 - 2018/02/25(Sun) 10:25:40

Re: ついで話 / hato

もしかすると、下記ページほうがわかりやすいかも、と思いました。

http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kamiya.html

その歓喜に、人と世界に尽くさずにいられない・・・自分の某かなど、どうにでも、という精神を感じます。

春は、まだほんの少し先ですが、ここ数日ストーブを焚いてると、蒸してきます。庭のフキノトウは収穫されました。

No.6430 - 2018/02/27(Tue) 00:50:33

Re: バラ色の人生は、一見血に染められている / 勘太郎
 バラ色の人生は歓喜の体験が有ろうとも、外見はキリストの受難の人生の様な出来事の連続なんでしょう。

 ニサルガダッタ・マハラジは言ってます。「人が望む幸福とは、永遠に続くエクスタシーの連続なのだ」。そのようなモノに人間の脳は耐えられないのだ。
 おいらが夢見るバラ色の人生はマハラジの言葉そのものであるようです。
 ただ自国の選手の勝利の場面を繰り返し続け、自分の存在をそこに置換させる、テレビ新聞のヒステリックな叫び声と同じものを、おいらは求め続けているようです。

 神谷三恵子さんの様に恵まれた方も、貧相なおいらも同種の葛藤の中で死んでゆくのは面白く感じられます。

No.6431 - 2018/02/27(Tue) 10:54:05

Re: ついで話 / hato

> おいらが夢見るバラ色の人生はマハラジの言葉そのものであるようです。


えっ、本当に!??・・・

としたら勘太郎さんは、とてもバイタリティがあるのでしょう。こちらもう聞いただけで、ひぇ〜、な気がしてしまいます。


>  ただ自国の選手の勝利の場面を繰り返し続け、自分の存在をそこに置換させる、テレビ新聞のヒステリックな叫び声と同じものを、おいらは求め続けているようです。


本当ですか!???うーん、人は、違うから面白いのでしょうね。男女の違い、個性の違い、・・・人はたいてい、自分を立てたい、出来る、凄いと思いたい・・・

今と違うなにかになりたい、というのは、成長したい人の、動機でもあると思います。


>  神谷三恵子さんの様に恵まれた方も、貧相なおいらも同種の葛藤の中で死んでゆくのは面白く感じられます。


人が持っている道具は、変わりがないんでしょうね。

言い方はなんであれ、自我が真実に降参したら。

何よりも立てたい自我、人に認めてもらいた
い、見て聞いてもらいたいその自分が消失した、或いは理解されたあとの自分は、「大事どころ」、が自ずと変わっていると思います。

そのことは、日々日常で少しずつ学び、深めていくことができること。

何気ない平凡な、汗かきベソかき、ちょっと幸福なこの日常には、自分が学び、理解できる要素の総てが、ある、でも、ない、でもなくあります。それは恩寵であり、幸せなことではないでしょうか。


さてこちら、オリンピックは、時々に胸熱く見ました。なんであれ、これと決めて努力、努力、その一瞬に総てを懸ける姿は、美しいです。人って凄いね、やれば出来るんだね!と、元気を分かち合った人も多いのではないでしょうか。


ところでコタロウ。もう、可愛いんです!

自分の好きなおもちゃは、この鏡の前に集めています。いつでも遊びたいときはここにいて、な
にか転がしてる音がすると、コタロウ君です。

No.6432 - 2018/02/28(Wed) 20:08:18