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記事No.6688に関するスレッドです

そのつど、そのつど、 / ubik0101
私たちは・・・と、いう言い方は・・・ほかの人のことはまったく知らないので変なのですが・・・日常、何かをしたり、しなかったりしています。働いたり働かなかったり、誰かに会ったり会わなかったり、思考したりしなかったりの生活をしてると思われます。そして、

そのつど、そのつど、私は私を創っています。なんでもいいですが、たとえばTVや掲示版を見るとします。そして、面白いな、これは実験してみよう。と、感じるとします。すると、面白いな、これは実験してみよう、という自分を創っているのです。また、

あんなこと言ったりしたりすると地獄に行くぞ、と感じるとします。そこで、あんなこと言ったりしたりすると地獄に行くぞ、という自分を創りました。それはすぐに過去になり、見えなくなりますが・・・畢竟、過去は変えることが困難だということです。もちろん、

たとえば道に落ちてるゴミを拾わなかった、とします。子供が危険なところで遊んでるのを見て、注意しなかったとします。そうすると、そのつど、なんかしなかったことで、そんな、なんかしなかった自分を創ってるのです。なにかを考えた、なにかを言った、行動した、しなかった、

ということで、たぶん私たちは・・・と言うのは変な言い方ですが・・・自分で自分を創ってるのです。この投稿を読んで・・・そうだ。そうかな。そうではない。ふーん。私はその範疇にいないよ、とか・・・さまざま感じるかもしれません。そこで、その自分が創られたのではないでしょうか?なぜ、

こんなことを言うのか、もしかして、どのように誰かのことを見て聞いて考えたとしても、それは総て、空想、かもしれません。問題は、そんな空想ではなく、この自分がどうなのか、ということが大事だということです。もちろん、ここでそういう、そんな自分を創ってるのです。

もしかして続きます。

No.6678 - 2018/10/14(Sun) 07:15:05

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
 ubik0101さんのおっしゃる「創っている」は、私は元々無い。無いものから瞬間瞬間に、じぶんという幻想の私を創っている、ということなのでしょうか。
 それとも、理屈抜きに創っている・・・いや、やっぱり、葦を集めて小屋を作る様に、世界の中に私は無いけれども、世界の中から私を創り出してしまうんですね、たぶん。

 世界は、存在していますから、その上に自分をねつ造してしまうんでしょうかね。ここら辺はまるでSFを読んでいるような気分です。

 名前を忘れましたが、有名な哲学者の「過去は捏造されたものである」と書いてある本を繰り返して読んだことがあります。どう考えてもそうは思えないでいます。私の小学校の運動会の写真と私の記憶に違いはありません。

 ただし、心の記憶は(割合は別にして)ねつ造と事実(何が事実か?誰にもわかりませんが)がごちゃまぜになっているとおもいます。
 
 妻と喧嘩した時の、妻の言葉は事実です。「今、あなたがそう言うから、昔から私はあなたの事を嫌いだった」

 他人の経験談を聞く場合にも、私の認識とだいぶ離れていると感じることがあります。どちらの記憶が正しいかは、これまた誰にも判りません。

No.6679 - 2018/10/14(Sun) 20:37:55

Re: そのつど、そのつど、 / ubik0101
ここで勘太郎さんに質問です。

>世界は、存在していますから、

と、なぜ、そう感じるのでしょう?そして、

>妻と喧嘩した時の、妻の言葉は事実です。「今、あなたがそう言うから、昔から私はあなたの事を嫌いだった」

と、いう思考は、どんな状態にあって起きたのでしょう?これを探ります。

たとえば妻のことだとしても、人の真意は解らない、どう探っても空想だ。
しかし妻のその言った言葉は事実だ。

つまり、(a)心?とか気持ちとか思考とかは、あやふやで、不確実、あるいは、その人だけの問題。
その一方、(b)何か言われたとかいうことは確実で、事実、あるいは誰にとっても明らかに起こったこと。
この(a)(b)の思考と事実、誰かと自分、ごちゃまぜの複合二項対立関係が、一種の分別として機能し、

そこにいる自分から眺めると、

>世界は、存在していますから、

と、存在してる世界を出現させたのではないでしょうか?

つまり、勘太郎さんは、すでに自分で、ひとつの解を自分で話しています。なので、それを見つけるために・・・あるいはそこにはまだ明確には書かれてはないことが露になるために・・・自然に理解は進みます・・・勘太郎さん自身の投稿を、100回でも、飽きるまで読むことも有効です。

No.6680 - 2018/10/15(Mon) 07:47:05

Re: そのつど、そのつど、 / hato

海に行こ、と言ってたけれど、そぼ降る雨模様。疲れもとれるよう、今日はほぼ、家時間を過ごしました。

ここ数日、庭はまた季節が移り、なんともいい景色です。

No.6681 - 2018/10/15(Mon) 22:37:23

Re: そのつど、そのつど、 / hato

2人で気に入ってる、小さな草原です。

No.6682 - 2018/10/15(Mon) 22:47:38

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
無字の公案で、ムー ムー唸っても何もそれらしいものを掴むことができないで、御師家様の前に出ると、御師家様は何も言わずに、鈴を鳴らされる時もあります。
 解かったと勢い込んで行っても、「そんなもん違う」と言って鈴が鳴ります。
 寝る前の最後の座禅の後に禅堂で短い御師家様の言葉があります。印象に残っている言葉があります。
「皆は解らないだろうが、全員見性のすぐそばに来ている。残りの時間は少ないけれど、しっかりやってください」暖かい言葉です。

 ミズナラの苗木を作ろうと、公園からどんぐりを拾ってきました。水に漬けて虫をCENSOREDから土に埋めます。4・5年植え替えを繰り返して、やっと植えられるおおきさになるそうです。

No.6683 - 2018/10/16(Tue) 07:49:22

Re: そのつど、そのつど、 / ubik0101
こちらもクヌギの実を十数個ほど拾って、皿に置いてたことがあります。しばらくして、総てのクヌギの実の皮に小さな穴があいて、その穴より大きな白い虫が皿の上を這っていました。

>「皆は解らないだろうが、全員見性のすぐそばに来ている。残りの時間は少ないけれど、しっかりやってください」暖かい言葉です。

たしかに迷悟の差、あるとして・・・ふつうには差はないというのが一般的だと思いますが・・・ほんの僅かです。あるとして、自我と無我、反復横跳びほどの差はないです。そのために一生の努力が必要だったりして、これは何なんだろう。

>名前を忘れましたが、有名な哲学者の「過去は捏造されたものである」と書いてある本を繰り返して読んだことがあります。どう考えてもそうは思えないでいます。私の小学校の運動会の写真と私の記憶に違いはありません。

その哲学者が、どいう意味で言ってるのか知りませんが、過去は知覚できないのです。過去は透明です。それを知覚できるかのように思考する、想起する、映像として見る、ということは、そうしてるその人が創った、ということでしょうか。

No.6684 - 2018/10/17(Wed) 08:41:50

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
 今日は叔母の1周忌でした。坊さんが長い説教で数人の参加者ですけれども、すこし長すぎて困ってました。ふつうの人にお経を説いても、退屈でしょうに・・・。第一当人が判っているとは思えません。解っている人は普通の人に真我を説かないと思います。

 お経を居眠りしながら聞きました。一休禅師の「どうにかなるから、心配するな」の意味。受け取り手によりいかように受け取れる言葉。 一般的には、文字通り「どうにかこうにかなるようになるから、慌てるな」 もう一方で、「お前さん、何があったって、お前さんだろう」でしょうか。

No.6685 - 2018/10/17(Wed) 15:58:40

Re: そのつど、そのつど、 / ubik0101
お前さん、何があったって、お前さん。とは、なるほど、です。心配してもしなくても、その事態はその事態なのだ、心配するな。も、ありかもしれません。
No.6686 - 2018/10/18(Thu) 07:06:48

Re: そのつど、そのつど、 / hato

朝の庭は、朝露が緑と土を湿らせて、出始めの頃の太陽の光線が、細い草の穂先に、一粒一粒の光の玉になって輝き、えも言われぬ繊細な光景を醸し出していました。

No.6687 - 2018/10/19(Fri) 00:00:00

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
雪担御老師の体験談に「無字の公案で5日間、むーむーやって、肉体的にもうだめだって、ごろっと横になった。その瞬間、ガラッと何にも無くなっちまった。なんだこりゃあ、となりました」

 思惑が外れて、真我になってしまったんでしょう。おらの場合、いつも、思惑でいっぱいで、真我の芽が出るすき間がありません。
 あれ、思惑でいっぱいだと気が付いたら、自分の胸に思考を向かわせることを、しています。

 光の玉、写真でも美しいです。踏み跡のない草原がステキです。枕草子で「雪の積もった朝、子供の足跡のない雪が良い」と言っています。穂先の朝露の玉も美しいですし、快晴の秋の山もこれまたすがすがしい気分です。

No.6688 - 2018/10/19(Fri) 20:53:52

Re: そのつど、そのつど、 / hato

北海道の秋の山でしょうか。透き通った力強い気、明快な明るさ。陰影と彩り。

あれこれ、日常。

この事態、この、自体。

一体、なんだろう!?。

No.6689 - 2018/10/19(Fri) 23:16:19

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
事態、この、自体。
時計の音。やっぱり、音を聴いている自分がいます。

 と言って、自分のあり場所をさがして体の頭や心臓や手の先を探しても、自分の居場所を特定できないのですけれども、自分がいます。

 身体全体が自分と感じるのでしょう。境目は皮膚。
いや、やはり体は自分ではありません。

 時計の音や自分の身体はあります。自分は何処にいるのか?解りませんけれども、ここにいます。

No.6690 - 2018/10/20(Sat) 21:45:32

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
[そのつど、そのつど、私は私を創っています]が解りました。
 縁起の逆転。まず縁起の逆転によって迷いが生じ、その縁起の再逆転によって、人は完成します。理解ですから、未完成です。

 ダグラス・ハーディングという人が言っています「あなたは受容能力ではないですか。指差した方向を観ます。景色を見ます、自分の足を見ます、お腹、胸次に、自分の顔を指差します。そこには何もない自分があるのではありませんか。そしてそれは何ものをも受容する者ではありませんか」

 赤ん坊は全てを受容するので正常な縁起で、大人受容ではなく、自分から発信できると勘違いしている。そこには迷いがある。つまり縁起の逆転。

 正常な縁起においては、受容能力の自分に時計の音が届く、可愛い猫がにゃおんと来れば抱き上げて猫を抱く自分になる。バカヤローと言われたら、バカヤローに喚起された怒りになる。素敵だねと言われると嬉しい自分になる。「喜ばしい」だけなのに、なぜか喜ばしい主体である自分を仮定して、仮定の自分が喜んでいると勘違い!

 そのつど、そのつどの自分になる。

 自分という塊が元から在って、それが怒りの状態になったり、音を聞く者なるのではない。
 まっさらの受容能力がバカヤローで怒りの形になる。まっさらだから、昨日は敏子さんに惚れて、今日は陽子ちゃんに惚れることができる。
 まっさらだから、「今、あなたがそう言うから昔からあなたのことを嫌いだった」と感じることが出来る。過去は何の関係がなく今を受容できる。

 今日の縁起の逆転の読後感です。混乱・勘違いもありましょうが。

 
 

No.6691 - 2018/10/21(Sun) 19:49:21

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎

>  正常な縁起においては、受容能力の自分に時計の音が届く、時計を聞く感覚のみで完了。

 しかしながら、可愛い猫がにゃおんと来れば抱き上げて猫を抱く自分になる。バカヤローと言われたら、バカヤローに喚起された怒った自分に。素敵だねと言われると嬉しい自分になる。「喜ばしい」だけなのに、なぜか喜ばしい主体である自分を仮定して、仮定の自分が喜んでいると勘違い!

No.6692 - 2018/10/21(Sun) 20:01:17

Re: そのつど、そのつど、 / hato

> 事態、この、自体。
> 時計の音。やっぱり、音を聴いている自分がいます。
>  時計の音や自分の身体はあります。自分は何処にいるのか?解りませんけれども、ここにいます。



猫散歩をしてるとき、ベンチに座り、空を見ます。枯れていく木々の枝葉や、新芽を紡ぐ場所を見ます。そのとき、意図して意識に戻り、ここ、と確認すると、窮屈な、いまここ、を確認できます。自分は、そうして確認するとき、常にちょっと妙な・・窮屈です。言葉と意識で目指すと、とても奇妙です。

意識は厳密に、これ、(それ、)ではないです。

生活する上では、時間空間上の交点、その、意識は大事で、その、視点にいると安定する、落ち着く、確かな気がする、・・・焦点を定めたいときの、旗のようです。

自分にとって生活は、訓練で、それは時間と空間内での作業、いまとここでの作業。限定された意識と身体が訓練の場です。なんなんでしょう!、この奇妙な素晴らしさ。それは、意識され得る体験です。

でもその自己は、意識され得ない。

ここが、不可思議なところ・・です。

今日は爽やかな秋晴れ、十五夜あたりだそうです。午後から、海に行きます。

No.6693 - 2018/10/22(Mon) 11:23:49

Re: そのつど、そのつど、 / ubik0101
うろ覚えですが〈師〉一日中見っぱなしで、聞きっぱなしで、思考しっぱなしで、無心なのだ。〈弟子〉その無心だということは、何が判断しますか?〈師〉それも無心が判断するのだ・・・達磨が書いたとされる書(たぶん中央公論 世界の名著 禅語録)にこうあったと思います。

微妙ですが、たとえば虫の声を聞く、というのではなくただ、虫の声、です。つまり、虫の声を聞く、というのは、すでに聞いてる自分ということが虫の声の背景に微かにあります。その自分があるということは、虫の声が対象になってるということで、世界、あるいは自分と人、あるいは自分と自分との分離と説明されることもあるようです。

ただそれは完全な分離ではありません。もちろん完全な融合もありません。完全な分離も融合も、それでは何も知覚できません。分離と融合どちらでもないとか、どちらでもあるとか、ある、ない、ど言ってもしょーがない、わけのわからない世界のわけのわからなさが、そのまま見る聞く話す思考する行動するです。これは人の生まれつきの事態です。

ところで、世界を、人を、自分を見てる自分がいるとします。その見てる自分は、見えるでしょうか?ここで見てる自分を見てる自分を見てる自分を・・・と、合わせ鏡の無限反応が起こるような気がするかもしれません。しかし、実際は、それは起こらないです。見てる自分の背景には、なにもないです。

なんであれ世界の構成要素、それを周りから切り離して、対象にして見る聞く思考する、その自分があっても、そんな自我の機能そのことは、なにも問題はありません。ただ、ちょい無心、無我、には邪魔な迷いです・・・またその迷いがなければ悟りもない・・・そんな経緯もあるということです。

そんな自我の機能も世界の機能です。自我が問題なのは、未完だからです。完成してないからです。それに使われるからです。使うのです。そのつど、そのつど、自分がつくられるとしても、悪い自分を創らず、善い自分を創ろう。ということもあります。ここは仮定の自分の話ではありません。たとえば、ひとつの24色の絵の具の箱で、それぞれの絵を描くということです。

No.6694 - 2018/10/22(Mon) 19:38:37

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
おいらが、お二人のお話を理解できているように思います。

 意識(自我)→

注意(意識を見張ることができる。注意は学びで身に着けることが出来る)→
 
きずき(神の恩寵でしか「きずき」の状態に戻ることができない)

こんな図式らしいです、言い方はいろいろながら。

注意して、虫の鳴き声を聞く。鳴き声が自分の身体の中に、それこそ染み入るのを感じる。自分の意識をなるべく排除して、注意しながら生活しようとおもっています。

 セピア色の自分の写真を見たら、胸が締め付けられる様な哀しみを感じました。
 真我と離れていることが哀しみの元だと聞いたことがあります。まんざらでたらめではないかもしれません。

No.6695 - 2018/10/23(Tue) 07:56:06

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
自分の身体と外部の境目は探ってみると判らないと読んだので、自分でもやってみると、境目を見つけることはできないと感じます。鏡に映して、自分を見れば明確に輪郭がわかります。

 テーブルに腕を載せてキーボードを打ってると、天板と身体の堺を確定できません。
 特に目をつぶって猫を抱くと、柔らかく暖かい毛触りを感じますが、自分の腕と猫の区別がつかないで、自分の身体の芯にある塊のようなものが、柔らかく暖かいものを包んでいるような感じです。

 だからと言って、自分が無いとは思えませんけれども。思っている程、自分は明確でないのかもしれません。
 
 一段と秋が深くなって、裸になった木もあります。のんびり暖かい秋の陽の中で、花豆のさや外しをしました。本日の収穫花豆1合。次回は梅の木などの冬囲いが始まります。

No.6696 - 2018/10/26(Fri) 21:18:49

Re: そのつど、そのつど、 / ubik0101
たとえば、〈眼を閉じて〉なにかに触ってるなら、その触ってるところだけが身体です。足とか頭とかあるはずなのですが、感じられないです。そこで〈眼を開けて〉その手を見てみます。それは自分の手なんでしょか?と、感じてるその自分は、どこにいるでしょう?

それは頭のところにいますか?胸にいますか?ほんとうに?それはもしかして感じてる自分を自分で再確認し、その居場所を想定してるってことかもしれません。そうでなく、ただ見てみます。遠くの山とか、部屋の中の時計・・・どうでしょう?

No.6697 - 2018/10/27(Sat) 07:16:58

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
注意して、時計を見ると、私は在る(自分がいる)という感覚は薄れて、見ている事・見る(動詞)・・・・に近づきます。

 あれえ〜。書いていて思いました。
動詞には主語(主体)があります。見ている事であれば、自分は必要ありません。見るになってしまったら、無い自分が仮定の主語(主体)として現れる。???

 アムボムレッツ・スマサラーナさんの瞑想法を思い出しました。彼はお腹に手を当てて呼吸を感じなさいと書いています。「お腹が膨らむと言いなさい。膨らますと言ってはならない」と。

 私(自分)は産まれてからの学習で身に着けたものでありましょう、本物か仮定のものかは解りませ。んけれども。
 母親から私の身体は貰いましたが自分はもらってないです。
 
 もし母親から貰うものなら、母親は二つの自分を持っていなければなりません。分け与えてもらったものなら、それは私ではなく母親である私のはずです。

 見る事、なのか、主体を持つ見る者、なのか?区別はつきません。

No.6698 - 2018/10/28(Sun) 19:32:03

Re: そのつど、そのつど、 / ubik0101
その・・・見る亊、見えてる亊・・・には属性がありますか?たとえば年齢、性別、名前、優劣、善悪、自分がある、ない・・・これは、眼は見ようとしなくても見えてる。見ようとしても見える。眼で見てるのでもなく、眼が見えてるのでもなく、受動、能動、その対立融合たぶん総てありなんです。

なので、特定の個別のどれでもないです。どこかで見ましたが・・・聖を求めず俗を嫌わず・・・どのような属性もないのです。また、見えることが見えることである必要もないのに見えます。聞くこと、話すこと、思考すること、行動すること、それがそうでなくていいのに、そうです。で、その自分はどこ?

No.6699 - 2018/10/29(Mon) 07:34:15

Re: そのつど、そのつど、 / 勘太郎
>猫散歩をしてるとき、ベンチに座り、空を見ます。枯れていく木々の枝葉や、新芽を紡ぐ場所を見ます。そのとき、意図して意識に戻り、ここ、と確認すると、窮屈な、いまここ、を確認できます。自分は、そうして確認するとき、常にちょっと妙な・・窮屈です。言葉と意識で目指すと、とても奇妙です<

たぶん、自分を窮屈な自分の身体の中に押し込めたのでしょう、むりやり。

 自分にも、見ている対象も属性はありません。憎たらしい上司も、憎たらしい上司として居て、それ以上の属性はありません。

 黄色い葉が増えたゴムの木を見ている自分はどこにある?どこからみているのだろう。
 しばらく、にらめっこしています。感想は自分側には何もないと感じます。ゴムの木を見ながら、自分の胸や眼の奥・頭、思考実験で頭の天辺から親指の先まで眺めてみたら、床と接触する部分がジンジンするだけです。目も網膜もありません。ここまでが今の感じです。

No.6700 - 2018/10/29(Mon) 13:23:31

Re: そのつど、そのつど、 / hato

先週は、待望の海へ行きました。

No.6701 - 2018/10/29(Mon) 20:48:20

Re: そのつど、そのつど、 / hato

今朝はすこし、冷えました。
庭のオヒシバ、メヒシバたちもすこし、赤みを帯びました。

No.6702 - 2018/10/29(Mon) 20:51:45

Re: そのつど、そのつど、 / hato

数日前、いっとき雨が降りしきるなか、周囲が赤く夕焼けに染まり、幻想的な光景でした。

No.6703 - 2018/10/29(Mon) 20:58:14