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記事No.6828に関するスレッドです

(No Subject) / ubik0101
さて。自分はない、ということと、自分で自分は知覚でき、ない、ということは同じでしょうか?違うとしたら、どう違うでしょう。とても大雑把に言うと、自我は虚構でその中心は、ない、です。

自分はないという場合、おおむね、この自我がない、ということを言ってるようです。自己(真我)はそんな自我をない、とするなら、ある、です。しかし自己は自己と差がなく、自己を認識でき得、ない、です。

主体が主体を認識でき得るとしたらこれは矛盾であり、不可能です。この不可能事をなしとげようと、世界、人、自分とかの関係にあって、自分で自分を知ろうとしてるのが自我とも言えます。

その、知ろうとしてることは、知ろうとしてないということと対です。どっちに転ぶかは、その人それぞれの姿勢かもしれません。それでも、あっちに、こっっちに気を散って、

自分の問題から外れ外れ生きても、それはそれで自分は自分で認識でき得ない、あるいはものごとを掴まない、ということの過程ということもあるかもしれません。おおむね自我も自我を認識不可能です。できるとしたら空想です。

また自我はないと体験できるのは自己の発現ですが、その自我と自己の対比で、その自己を認識できると思い違いするのが、迷悟の対立で、私は悟ってる誰かは悟ってない、というのは体験ゆえの迷いです。

誰かは悟ってる私は悟ってない、という迷いもあるでしょう。世界、人、自分との関係にあって、自分を認識できない、迷いも悟りも失ったところ、つまり世界、人、自分とかも、あるとかないとかでもない・・・普通の日常が探求の総てです。

No.6827 - 2019/05/23(Thu) 07:50:38

Re: / hato

猫散歩もすっかりルーティンワークになり、2年目に突入しつつ、我ながらよく付き合ってるなあ・・・でもこれがまた、ちょっとした楽しみです。運動ついでの草取りに、実は猫っちたちが付き合ってくれてるとも言えます。

No.6828 - 2019/05/23(Thu) 20:48:18

Re: / hato

身体がすこしおっくうで、悠長になりがちです。加齢も感じつつ、生活力。というところが難ですが、しょうがないなぁ・・・頑張ろう!。久し振りの金ちゃんです。

No.6829 - 2019/05/23(Thu) 20:54:05

Re: / hato

コタロウ君は遊びたい盛り。夜な夜なコタロウに追いかけられ、受難なおっとりナナちゃんも元気です。

No.6830 - 2019/05/23(Thu) 21:00:49

Re: / hato

2009年にやってきたノンちゃん。10年目頑張ってます。チュリルも頑張って、ノンノンにこんなに近寄れるようになりました。ノンちゃんチュリル、いつもありがとう。

No.6831 - 2019/05/23(Thu) 21:10:26

Re: / ubik0101
それで、それがそれであれば、それを自覚できないということです。ここで、赤でも、青でも、透明でも、ない、でも、ある、でも、猫でも犬でも鳥でも神でも悪魔でも、その自分はその自分を認識出来得ない、という意味で、ない、です。これは、それ、が、それ自体、であるということを示します。たとえば、私が私である、その事態です。この、ない、は、世界と対立せず、ある、と対立せず、どんな特定の、ない、でもなく・・・まったく普通の事態です。ここで例えば、私はない、世界はある、物事はある・・・物事はない、私はある、というのは変なのです。どれも経緯して、どれでもないです。ない、は個別のこととしてあるわけではないです。ふつうの日常、自分で自分を自覚できないということは、説明すればですが、私が私である、ということです。私はないということは、私は私ですということです。ない、繋がりで、総てはひとつ、と感じられるかもしれません。いろんな経緯があるようですが、これでは個別と全体の対立は残るようです。

一週間ほど前に見つけましたが、ほとんど毎日見ています。

BABYMETAL - Catch Me If You Can「かくれんぼ」Full Live compilation


No.6833 - 2019/05/30(Thu) 20:33:01

Re: AはAでない、故にAはAである / 勘太郎
なかなか納得できないのですけれども、今日のお話は私なりには納得できました。

 一つだという感覚は、まったく理解できなままでいます。ドアを私が見ています。

雨が降らないので、山の畑はカラカラです。

No.6834 - 2019/05/31(Fri) 21:06:14

Re: / ubik0101
ドアを私が見てるという勘太郎さんの話を聞いて・・・ドアが・・・時計が・・・部屋が・・・周囲が私を見てる・・・朝の鳥の鳴き声が私を聞いてる。もあると感じました。
No.6835 - 2019/06/01(Sat) 06:51:13

御老師の言葉 / 勘太郎
「言葉では伝えられない、この感覚は判ってもらうしかないんだ」。この話の時の御老師様は少し悲しげに私の目には映りました。

 判ってほしい、判る方も真剣にやっている。だけど一筋縄では捕まえることができない。

 この言葉で伝えられない感覚を身に着けた人とそうでない人には明確な違いがあるように、私には感じられます。
 悟る人はいない、と言われたりしますけれどもこの感覚なしに、話ても、暦に書いてある一日一善の訓話のように、錨のない船になってしまう。

反対に錨の無い船に乗っていることを知らないで、安心して大船に乗っていると勘違いして、飲めや歌えの大騒ぎをのが非覚者。

 悟った人。悟っていない人と判断することは煩悩の現れだと言われます。

No.6836 - 2019/06/04(Tue) 06:47:39

Re: / ubik0101
およそ錨のない船は底なしの海に浮かびます。浅瀬は安全ではなく、隠れ岩に座礁するでしょう。

1人あって、その自分しかいませんから、ほかの誰かと較べることが不可能なので、違いがない、と言うことがあります。

また見たり聞いたり触ったりの知覚機能は違わないので、迷悟に違いはないと言うことがあります。

勘太郎さんの言うように迷悟の違いを言うのは迷いで、その違いを認められないので、違わないと言う場合があります。

それでも、どう違うか探ってみます。迷ってる人がいるとして、なにをしても話ても、その人がしてるのではありません。世界の構成要素が、つまり物質、知覚、思考などが、その人のために、そうしてるだけなのに、その人が自分でそれをしてると思い違いしてるのが自我で、迷いと言えます。つまり自我は自己の代理。自我とはその人にまだ自己は発現してないということです。その人が生きてるわけではないです。といっても、自己は、違いはあるとかないとか範疇にないです。なにか違うのだったら、何か好いことを選べばいいのですが、それぞれの人の道があり、ただそんなことではないです。まったく同じことが迷いの道であり、まったく同じことが悟りの道です。

No.6837 - 2019/06/05(Wed) 06:50:37

Re: / ubik0101
たとえば、善いことをしよう、悪いことを避けよう。というのが、迷いの道です。まったく同じ、善いことをしよう、悪いことを避けよう。が、悟りの道です。嘘をつかないようにしよう。真摯であれ、素直であれ。死ぬのが怖い、なんとかしよう。自分を観察しよう。悟りたい・・・おなじことが、迷いの道であり、悟りの道です。これは、迷ってる人がいるとして、なにをやっても、迷ってるだけ、そんな結果論ではないです。また具体的に例で話すと、それぞれに理由、反対意見とか、いくらでも思考出来得るでしょう。それは対象になり得ることで、また数えられることです。とても微妙ですが、これがこうした、どれがどうしたということではなく、絶対的に、見えないけれど対象にならないけれど、その人の姿勢の違いがあるかもしれません。その人を傷つけるのも、卑しめるのも、その人にしかできないように。その人のことは、その人に全権があります。なんか対象になり、数えられる、ほかの所為ではないです。たとえば虐められて育ったから嘘をつくようになる?いいえ。その人の事はその人に全責任があります。そしてその時、その経緯の総てが活動します。
No.6841 - 2019/06/09(Sun) 19:00:30

Re: / ubik0101
たとえば意地悪されて育ったら、意地悪な人になるでしょうか?いいえ。虐められて育ったら、優しい人になるでしょうか?いいえ。優しくされて育ったら、優しい人になるでしょうか?いいえ。どんな人になるか、総て自己責任です。けれど、なになにだから、なになにだ。ということがあるなら人は生きていません。環境、性格、年齢、性別、条件・・・因果・・・に左右されてるだけです。その人はもしかして、その人が言ってることも何を言ってるか分からず、することもなにをしてるのかも分からず、ただ環境にやらされてるだけかもしれません。どうだから、こうだからというわけでなく、その芯。どうであれ、人がそうである、それ。それは学ぶこともできず、付け加えることも、削ることもできない・・・なにがなんだか判らないけど、どんな個別のことでもない・・・それを守ってるのが自我の殻です。自我はプレ自己です。それは削除されるのではなく、完成されないことが、問題といえば問題なのです。どうすればいいでしょう。簡単です。とくに誰かに推奨するというわけではないですが、ふつうの日常、なにか考えるでしょう?その思考が成立する前提を自分で探るだけです。その思考の真意を、どうしてそうなのか。もしかして、ほかの誰かの言動の意味を、その真意を、こうかもしれない、ああかもしれないと探ったりはしないでしょうか?それを、自分に向けて、自分の感情でも、行動でも、思考でもいいかもしれませんが・・・その真意を探るだけです。それは発見に次ぐ発見で、楽しいことです。その見たこと、自我の殻は消えていき、芯に近づく道で、素直に真摯になる道です。そしてそれが始まると、あとは探求が探求を導き自動と言っていいです。
No.6842 - 2019/06/12(Wed) 07:04:29