さて。自分はない、ということと、自分で自分は知覚でき、ない、ということは同じでしょうか?違うとしたら、どう違うでしょう。とても大雑把に言うと、自我は虚構でその中心は、ない、です。
自分はないという場合、おおむね、この自我がない、ということを言ってるようです。自己(真我)はそんな自我をない、とするなら、ある、です。しかし自己は自己と差がなく、自己を認識でき得、ない、です。
主体が主体を認識でき得るとしたらこれは矛盾であり、不可能です。この不可能事をなしとげようと、世界、人、自分とかの関係にあって、自分で自分を知ろうとしてるのが自我とも言えます。
その、知ろうとしてることは、知ろうとしてないということと対です。どっちに転ぶかは、その人それぞれの姿勢かもしれません。それでも、あっちに、こっっちに気を散って、
自分の問題から外れ外れ生きても、それはそれで自分は自分で認識でき得ない、あるいはものごとを掴まない、ということの過程ということもあるかもしれません。おおむね自我も自我を認識不可能です。できるとしたら空想です。
また自我はないと体験できるのは自己の発現ですが、その自我と自己の対比で、その自己を認識できると思い違いするのが、迷悟の対立で、私は悟ってる誰かは悟ってない、というのは体験ゆえの迷いです。
誰かは悟ってる私は悟ってない、という迷いもあるでしょう。世界、人、自分との関係にあって、自分を認識できない、迷いも悟りも失ったところ、つまり世界、人、自分とかも、あるとかないとかでもない・・・普通の日常が探求の総てです。
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No.6827 - 2019/05/23(Thu) 07:50:38
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