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記事No.6904に関するスレッドです

台風、大きな被害が無いことを祈ります / 勘太郎
 願いは皆さん同じ。

 子供の頃、台風が来ると山栗の実が落ちるので、山に栗拾いに毎年行った記憶があります。北関東です。栗がはじける時期ですから秋も押し詰まったころだったのでしょう。

 悪い事ばかりでなく、栗の実を山里の子供にプレゼントする様な働きもあるのでしょうけれども、やっぱり台風は困ります。

No.6885 - 2019/08/14(Wed) 20:27:08

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / ubik0101
いつのことか部屋にいて、外は雨が降っていました。なんか嫌だな、、でも、こう考えました。この雨で植物は成長するのだろう。農家は喜んでいるだろう。自分の都合だけではいけない。

この世界はとんでもないところで、誰かが生まれ、病気になったり、結婚したり、ある動物を可愛がり、ある動物をCENSORED食べる、そして人は死んでしまう。なぜこんなことになってるのか、理由は判らない、整合性はないように思える、理不尽、奇妙、でも・・・これは、こうでいいから、こうなんだろう。これはこれでいい、この個人としては、そうなんです。でも誰かは、こんな意見を嫌うとします。それもそれでいい。台風の進路から外れてよかった。直撃だ、困った。

その、この理由の分からない世界で人は解脱します。いつか何十年の前に読んだ詩の一節を思い出し、検索してみました。ロバート・ブラウニングの作でした。

時は春、

日は朝(あした)、

朝は七時(ななとき)、

片岡に露みちて、

揚雲雀(あげひばり)なのりいで、

蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、

神、そらに知ろしめす。

すべて世は事も無し。

No.6886 - 2019/08/15(Thu) 08:42:00

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / hato

庭に、この季節の楽しみ、高砂百合が咲き始めています。

No.6887 - 2019/08/16(Fri) 21:48:12

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / hato

緑に白く映え、うつくしいです。

No.6888 - 2019/08/16(Fri) 21:50:34

Re: 学生の頃、公害問題提起が盛んでした / 勘太郎
 公害がどんどんひどく成れば、解決も早まるから、どんどん悪くなれ!と思いました。

 問題が問題解決の最大要因。

 私自身の妄想を見ていると、何もかもスムーズに行く白昼夢(宝くじが当たって、夢が全部叶う)よりも、悪い人が現れて、問題を起こす。その問題を、私が解決するというお話の方が多いです。

 何も問題がない世界よりも、問題がある世界の方を私は選ぶようです。

薄暗い森の中に生えています。花の大きさは5センチ程でしょうか?毎年は咲きません。これを見ると生きていたか!と愛おしくなります。

No.6889 - 2019/08/17(Sat) 14:17:36

この世界は広くて私の知らないことで一杯 / ubik0101
たとえば雨が降ったら農家は喜ぶだろう。じゃ、どこかの知らない誰かは?それぞれの都合があるだろう。さらに犬は猫は蝶は蜂は蟻は?それが宇宙の運動として、どいう意味がある?

このあたりで意識は拡散して、対象を把握してることができなくなるのではないでしょうか。つまり、意識は、意識の届かないということがあること、認識できないということ、を認識できます。

どこかで・・・意識とは、その内容なのだ・・・という文を読んだことがあります。それを端的に言えば、意識することは、常に自分の都合、これを外れないということです。

でも、意識されないということがあるということ、たとえば地球は回転してる。と、思うとその内容が意識になります。それはそう意識されなくても地球は回転してたのです。

これは証明できないかもしれません。でも意識が、意識の内容が、自分都合から外れる。意識が拡散して、内容も掴まえることができなくなる。ということは起こります。

たとえば空想であれ、ありもしない現実であれ、意識の内容になると、その人にとっては、リアルに、自分都合になります。意識外のことは意識できない。これに気がつくだけで、その内容に掴まれることはないでしょう。

ありもしないことで誰かを非難したり、噂話。波瀾万丈のヒーローになるとか、白昼夢にさまざまなタイプがあるでしょう。それは単なる、意識の内容、それだけのことです。簡単なことなんですが、言うと難しくなるようです。

No.6890 - 2019/08/18(Sun) 20:15:53

Re: 意識に注目するつもりが、意識の内容の思案にすり替わってしまう / 勘太郎
 瞬間と言ってもよい程素早く、意識の内容に移ってしまいます。

 それで、息を数えたり、むーと叫ぶのでしょう。暇になると、意識を音や見える景色、自分の胸の奥に向けようとします。そうして「あ!また意識の内容にハマってる!」と我に返ります。その繰り返しです。

No.6891 - 2019/08/20(Tue) 07:07:28

対象のない意識 / ubik0101
たぶん意識が意識に注意することは、できないでしょう。もしかして無思考を試してるのでしょうか。たしかに思考は止まりますが、それも、止まった。とか考えてしまったりしてもしなくても、自然に始まってしまい、そのことに気がついてしまいます。

おそらく探るべきはここではないです。意識は対象を必要としています。レーダーの電波が発射されて何かに反射して映像になる。このレーダーの電波、ソナーの音波。それだけが、対象なしにも、ある、ということはあるでしょうか。それでなければ、見たり聞いたりできないでしょう。

なので人は、見るということは、この自分が、聞くということは、この自分が。見る聞くこと。をしている、その自分がある。と感じるのではないでしょうか。知覚だろうが思考だろうが同じです。これは単純なのですが、偏りです。対象のない意識ということを摑まえて自分都合にしてるのではないでしょうか。

それで、意識の範疇がある。意識は対象が必要だ。意識の届かない範疇がある。対象のない意識がある。まだあるかもしれませんが・・・ふつうはいつのまにかどこかに錨を降ろしてしまって気がついてないのでいるので、そでないことがあることに気がつくこと、で偏りから抜け出すこと、でないでしょうか。

うまくしたもので、なんでもいいかもしれませんが、意識は対象が必要だ。見るには意識が必要だ、と決め、脇目もふらずそれだけを探ったら、そでないことが見えるでしょう。思考が問題だ。を探ったら、そでないことも見えてくるでしょう。それはそれだけで成立しないと、それが教えてくれるのです。

No.6892 - 2019/08/20(Tue) 08:07:34

Re:すべて世は 事も無し / 勘太郎
 神 空にしろしめす、は解りませんけれども。
すべて世は事も無し、は解ります。

 今朝気が付きました。犬の散歩の遊歩道の木々が少し、緑から赤になりかけています。

 づっと疑問に思ってました。自分が苦しいのは耐えればよい。
 自分が不注意で重大交通事故を起こしてしまった。或は、3,11の地震の時の東京電力福島第一原子力発電所の所長はどうしたらよいのだろう?と

 今朝、思いました。その自分を演じる(引き受ける)。苦しいだろうけれども、原発事故の責任を感じるままに生きて行くしかない(お亡くなりになりましたが)
 交通事故はある確率で起きるから、その当事者になることはあり得る。そうなったら当事者として生きて行く。

 「西部戦線異状なし」という題の小説があります。主人公が戦死したけれども、部隊の当日の報告書には、平日の戦死者数なので、異常なし。

 「すべて世は事も無し」とは内容が異なるかとも想像しますけれども。私の段階においても、すべて世は事も無しであるような気がします。

No.6893 - 2019/08/22(Thu) 20:32:30

そいえば。 / ubik0101
どこかhatoさんと10年ほど前に行った図書館でした。なにかの書の一行目・・・世界は事象の総体である・・・という文を読んだことがあります。これ哲学?と思ったのですが、と言うのも・・・意識はその内容だ。意識内容は自分都合だ・・・と言ってるだけに思います。

グーグルってみたら、なんとかペディアに紹介されてて、なんとかシュタインの書のようです。高速ななめ読みしてみると最後に、語りえぬことは沈黙、とかなんとか書かれてあるようです。違います。言葉にできないことを言葉にするのが、学ぶ哲学ではなく、する哲学です。思考です。

神、そらに知ろしめす・・・知られ得る(意識内容)と、知られ得ないことの障壁が消え・・・ありとあらゆることと、ありとありえないことの融合・・・つまり森羅万象・・・ほかの言い方では、日々是好日・・・すべて世は事も無し、です。

ほかの言い方では、私は、神でもない、悪魔でもない、人でもない、仏陀でもない・・・ただ、それだけのことです。どこかで、無相の自己、という言葉を聞いたことがあります。そこでたとえば、私は誰、が、私は誰。であったりします。

No.6894 - 2019/08/23(Fri) 07:00:07

Re:AはAでない、故にAはAである / 勘太郎
 禅の本によく出てくる言い方です。AはAでない、故にAはAである。

 私は神でもない、人でもない、ブッダでもない。故に私は神である。
私は誰 は私だれ、でしかいないのですけれども、納得できません。困ったものです。

 隠れているいる、意識に登らないところの可能性的出来事があるという事に注目して

〈たとえば空想であれ、ありもしない現実であれ、意識の内容になると、その人にとっては、リアルに、自分都合になります。意識外のことは意識できない。これに気がつくだけで、その内容に掴まれることはないでしょう。>
このところを探ってみます。

No.6895 - 2019/08/24(Sat) 15:06:14

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / ubik0101
たぶん、見える意識内容だけでは、日々是好日。また、神、そらに知ろしめす。は納得できないでしょう。

たとえば貧乏で、病気で、友達もなく、辛い。。けど、それが、日々是好日。神は天の国にいます。この世界は大丈夫です。

これを自分に実現しようとしても、とても努力が必要。無理がある。不満を感じなくすることかな。とか空想も渦巻くかもしれません。

そんな不平不満不安で、意識内容は、満ちていませんか。たとえば自我な誰かがいるとして、その思いによって行うとして、それを他の誰かが、ものごとの都合でものごとをするんだよ。と、指摘するとして、いや私には私の都合なんかない、私は間違ってない・・・そんな様子でいることは、まま見受けられることではないでしょうか。

そしてその、私は間違ってない、ということの根拠、理由、その自我を守る理由、その意識内容に留まる理由は、実に全世界が協力するように、幾らでも見つけられるのではないでしょうか。

その思いによって行った事実は、こうだよね。間違ってる。と指摘しても、その事実さえ認めない、事実を歪ませても自分は間違ってない、そんなことも多々、見受けられるのではないでしょうか。

ありもしないことであれ、意識内容にあれば、その誰かには、あたかも事実のように機能する、そのように自他に見せかけることができるのではないでしょうか。

たしかに思考には、事実と虚偽を峻別する機能がついていません。これに振り回されるなら思考は確かに問題です。大雑把に言えば、意識内容は、そのような誤謬によって成立してるのではないでしょうか。

神、そらに知ろしめす、は、ロバート・ブラウニングの小説の一節で、それを下書きにして、芥川龍之介は小説、藪の中、を書いたとされています。映画、羅生門、の原作です。見えるところの、意識内容は、総て藪の中、自分都合です。なにか1つ、真実があるわけではありません。

これに気がつくところ、それはこちらの場合、自分の思考の、行動の、発言の隠れた前提を探ることでした。どこかで誰かに学んだりしたことがないのでなんとも言えませんが、これしか知らないです。自分を掘り下げる。これが出来ない人も、どうやらいるらしいです。

なにか判断するとして、判断は総て自分勝手、総て誤謬。判断しないという決心。こんな経緯もありました。

どこかで誰かの真実らしい話を聞きます。そして後でまた誰かの似たような話を聞きます。ああそうだ、私はそれを知ってる、解った。こんなことは、とても馬鹿馬鹿しい・・・総て打ち捨てる。

こんなことが自分にとっては一番簡単だったのです。無意識は何も知らないけど、知る必要がないのでしょう。安心である必要もなく、安らかなのかもしれません。なんだか波と海の喩えのようになりました。

No.6896 - 2019/08/24(Sat) 20:26:25

Re: 無意識の話 / 勘太郎
 何度も繰り返して、書いているので、自分でも厭きましたけれども。ラマナ・マハリシが「汽車に乗っているのに、荷物をどこかに運ぶ必要はない。汽車に任せなさい」と言っています。

 「犬と散歩に出かけようと」と意識した時には、すでに犬と散歩に出かける行動に体は動いている。意識は後追いでしかない。は脳科学者の云うところです。

 笑い話ですけれども先日叔父と話しました。
叔父の知人が「私は、大筋では間違っていないよ」とよく口にするそうです。これが大きな間違いと私と大笑いしました。
 ところがどっこい、おいら自身も心情的には「おらは、大筋では間違えていないよ」と感じているのです。理性においては、おらはやっぱりよく間違えると理解していますけれども。強いのは理性よりも心情的(感情)の方がづっと、おらを支配する力が強いです。

 今日は浜頓別(札幌から300k北のオホーツク海沿いの町)まで行ってきました。産まれて初めて行きました。保健所から、保護猫を運んで札幌の譲渡会に出す為です。
 行く途中の景色が素晴らしく美しかったです。浜頓別の手前に中頓別(なかとんべつ)という場所があり、盆地でしょうか、山に囲まれて、波打った農地が緑の桃源郷でした。
 帰宅して、この風景を思い出すと、夢だったのか?本当に行ったのか?区別がつかないような気がします。

No.6897 - 2019/08/26(Mon) 18:43:27

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / hato

なんという青さ。北海道、透き通る空気ですね。

結婚して、神奈川の小さなアパートにいた頃、あるときubik0101さんに、「あれは意識じゃなかった。」と言うと、ubik0101さんは、「うん。」と小さく頷きました。そして尚、人は意識として、意識を用いて生きていくと思います。

無意識に持ってる前提が解放されて、意識のなかで、隠し合う、隠す要素がなくなると、その見る、聴く、意識されることがらは、ありのまま素通しになり、スッキリ、明らかになることができるのでしょう。

不可-思議の場所。そこは人や物事に、ことさら判断する必要がみつからないところ。ニュートラルで、本来のやさしさに満ちた場所かも知れません。
そして尚、言葉と思考は、そこから出てくることができるのです。

好雪片々不落別處。これを味わいます。10数年前、ubik0101さんが掲示板に載せた古文で、すきな一文です。

その雪片は、ことさら意識されることも必要もなく、そこに落ちます。発生するそこ、行き着くそこ、それは素通し、ただその通りです。

近くの神社の参道脇に、1メートルくらいの背丈の山椒が数本生えています。前回、前々回来たときは、2人で探して見つからず、あったよね、と不思議でしたが、夏まで繁っていた、ほかの緑で見えなかったみたいです。

No.6898 - 2019/08/27(Tue) 10:28:14

Re: 日々これ好日=すべて事もなし / 勘太郎
 イコールがほぼ成立するのでしたら、日々好日も理解できるような気がします。おらの場合には元々において事もないのではなくて、けっかにおいて何もない。
 
 羅生門朗読を聞きました。こんな短い小説だったのかとおもいました。こんなのを高校生が解るのか?解る人は解るんでしょうけれども・・・おら全く解らなかった。話の筋を追って読了。今もそれほどは解っていません。

 聞いた後に元気がでます。どういう元気か?生きよう!ですかね。死と隣合わせ、必ず死ぬから・・・。説明はできませんけれども、励まされます。

 主人から不景気で解雇された下人が、泥棒で生きる決心がつかず、荒れ果てた朱雀門で雨宿り。門の2階で、転がっている死体の髪を抜き取り、かつらにしようとしている骸骨の様な老婆がいた。死体を愚弄するとは許せんと老婆を責める。老婆は言う「この死体のおなごも、蛇を魚なの干物として売って生きておった。死後に私が髪を抜いたとて、責めはしまい」
 下人は、老婆の来ていた着物を奪い取り、朱雀門を駆け下りて闇に消え去った。こんなあらすじで、

あらすじを聞いても元気はでないけれども、小説を読むと元気がでる。
オラも小説家になりたいと思ったことがありました。大江健三郎の「遅れて来た少年」という小説を読んで。これも元気が出ました・

 預かり猫の嫁入り先が決まった様です。最終決定は飼い主の自宅を訪れて様子を調べてからだそうです。
 

No.6899 - 2019/08/31(Sat) 14:06:54

感想文。 / ubik0101
羅生門、聞いてみました。死人の髪を抜く老婆も、その老婆の着物を剥ぎ取る下人も・・・その私が正しいという、ああでもあるこうでもあるという理由は・・・まるで世界が応援してるかのように見つけることができる。これは羅生門という世界の闇に立つ舞台で演じられ、その下人もまた闇の中に消えていく。とても馬鹿げてて、とても悲しく醜く滑稽でしょう。

このあたり、こちら事ですが、理由なく生きる・・・つまり自分を正当化するための思考だろうが、事実だろうが、それを対象にして自分の根拠として掴まない・・・これを数年だったか十年以上だったかに渡って、やってたというか、そなってたことがあります。これは結論を、決着を求めないということで、辛いものがあるのですが、役に立ったと感じます。

それと同じようなことですが、公平であろうとすること。たとえば社長であろうと新入社員であろうと、大統領も平民も、平等。傲慢も卑下もなく生きる。差をつける理由なんか、どこにもないのに・・・たとえば何だかの才能、適性があることは、金が欲しい、ポジションが欲しい、自分は正しくありたい・・・ということは、不公平でありたいという隠れた前提があるかもしれません。

これはごく当たり前のことなので、そであって、そであると認識できないで、そのようであることもあるようです。もちろんここに問題を見出さなくてもいいのですが、この訳のわからない世界で・・・理由なく生きる、公平であろうとする。特別感、優越感を嫌う・・・そんな経緯を辿るということもできる、ということです。

理由なく生きれば、老婆が死人の髪を抜くことを正当化できないでしょう。下人も老婆の着物を剥ぎ取ることを正当化することはできないでしょう。老婆も下人も、自分だけが正しいという不公平がなければ、戦うこともないでしょう。思考も行動も発言も・・・あるでもない、ないでもないこの奇妙な世界ということを口実にして・・・美しくない状況を成立させてるのかもしれません。

そのような、なんか、ああでもない、こうでもないの理由があれば、不公平があれば、差があれば・・・日々是好日。神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。ではないでしょう。理由なく生きることは、たとえば物事の都合によって物事をする。たとえば、ご飯を食べたら茶碗を洗う。あたり前のことを、当たり前に。

No.6900 - 2019/08/31(Sat) 19:24:02

もっと具体的に / ubik0101
たとえば車が追い抜かれたから、煽り運転した。たとえば女が蛇を魚と偽って人に売ったから、死んで髪を抜かれても当然だ・・・これ、原因と結果が結びつく必然は全然ないのです。つまり、理由でないことを理由にして、加害者は、その自分の言動を正当化してるわけです。そしてどんなことでも、架空の因果になりえます。交通ルールを守って、ゆっくり走ってる車が気に入らないから、煽り運転した。女が美人だったから、意地悪だったから、ただ気に入らない女だったから、死んで髪を抜かれて当然だ。このように、あることないこと総てが、理由になり得ますが、理由にしてるのは、理由にしてるその人でしかありません。もともと、ない関係なので、これに囚われる必要は最初からありません。こんな簡単なことです。またその架空の因果の範疇にあるとしても、煽り運転を見て、自分もやってみようとか、自分はしないとか、その人には、その人に全権、全責任があります。
No.6902 - 2019/09/02(Mon) 17:50:29

Re: 私が光の焦点であり光源 / 勘太郎
 想像(妄想)からです。
全世界の事柄が焦点である私に入力されます。その入力を私からの発信として全ての光源となります。

 他人に見られるから、きれいにする」と云います。他人は見ません、見ているのは他人と云う鏡にうつる自分を自分で見ています。この誤解を一般的には世間体とか言います。
 おいらは、誰がどうしようと私に直接関係しない場合は注意を払いません。

 因果は他所から来るから、私は玉つきの玉と同じで、自分では何もしないと思ってました。力のベクトルに従って動くと。

 ubik0101さんのおっしゃる通り、因果ではなくて自分で選んだ方向に進みます。ご飯を食べたら茶碗を洗うとは、限らない無限の行動を行うことができます。どうするかは私の全くの自由気ままに行動します。束縛が在ると感じるのは私の誤解です。

No.6903 - 2019/09/03(Tue) 21:13:55

Re: 赤い壁紙の部屋の中では、赤い色を認識できない。 / 勘太郎
 自分の事を解らない、のは自分に囲まれているからなのだろうと思います。
 
 古本屋で1951年初版の「ヘンリー・ソローの森の生活」を買ってきました。13版で1987年発行。
神吉三郎のys+6‐‥訳です。(猫にキーボードを打つじゃまをされて、書き進めらえれません。くだらない事を書かずに、私と遊びなさいと言っているのでしょう。)

No.6904 - 2019/09/05(Thu) 19:44:21

Re: 台風、大きな被害が無いことを祈ります / hato

>私が光の焦点であり光源

人(ひと)、というのは、ひ(光)、が、と(止、泊、留)まる、という言霊があると、聞いたことがありました。真偽はともかく、言葉は不思議です。また、人の存在というところも、どちらでもあって、どちらでもない・・・という不可-思議です。それでも、成長してく、していける、てちょっと凄いと思います。


>因果は他所から来るから、私は玉つきの玉と同じで、自分では何もしないと思ってました。

そういえば、数年前に掲示板にいらしてた、ゆらぎさん、という人が、この世界は総てプログラミングの一環で、その意味での自由はない・・・とお話しだったのを思い出しました。諦観かも知れません。でも、ちょっとつまんない。とわたしは思いました。

ご飯を食べたら茶碗を洗う・・その当たり前は、概ね現前と当たり前で、その当たり前を、人は、(あるいは不可知である誰かは、)どうにでもできる、・・・たとえば、楽しんですること、悲しんだり愚痴を言いながらすること、・・・そこに自由があるよね、・・もありかな、と思います。

それは、世界のことは世界に任せておきましょう、・・・マハリシが言われた、汽車に乗ってるのに・・の譬えごとと同様です。世界のことを、ことさらどうこうすること、(もちろんしてもいいんだけど、)というよりは、当然のなかに自由を見て進めるよ、というなら、ちょっと幸せ、な感じでしょうか。

たとえば、思考することも、理解することも問題じゃない。こうであることが問題じゃない。そこを、問題にする、なにかが問題。というのは、・・宇宙的パラドクス、・・ユーモアとも言えます。


読書好きだったんですよ。羅生門は、高校生の頃。現国の先生が、俳人の加藤楸邨の息子さんで、加藤穂高先生。楸邨の3人息子はすべて山の名前が付いてる、・・と噂されてましたが、穂高先生は、なんか任侠映画に出てきそうな、ちょい悪そうな、渋い、えらい恰好いい人で。授業も静かな人気がありました。穂高先生の羅生門。内容はすっかり忘れたけれど、凄かった。下人の面皰。短編に、人間の獣性をえぐり出した龍之介の文に衝撃を受けた。文章って凄い、と確かに思った。なので、というわけでもないけど、食傷な感じがあり、映画は見ていません。

ソローの森の生活、はじめて知りました。良心的納税拒否。うーん、凄いです。こちらは、それなりに頑張ってるのですが、拒否する以前の納税免除です。

夏が終わります。北海道はもう冷えるでしょうか。先日2人で行った、山椒の近くの境内にある、松の木。うつくしい剪定でした。

No.6905 - 2019/09/05(Thu) 21:28:19