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記事No.6908に関するスレッドです

松の木が自由自在に枝を伸ばしています / 勘太郎
 ソローの文より
「われわれが自発的貧乏とよぶべきである有利の地点からして以外には、何人も人間の生活の公平もしくは賢明な観察者であることはできない。」
 
 凡人には書く事ができないことばではないかと思います。このような言葉が散らばって書いてあります。人気のある本ですけれども、おいらも含めて、どれだけの人が、判らないままで言葉をなぞっているのでしょう。
 判らないまま、この言葉の奥を想像しながら読んでいます。無門の前をうろうろ歩き回ります。このウロウロもそれなりに楽しいです。すべてが徒労に終わる事ながらそれを行っている時は楽しいです。                    
近所の裕福な庭は毎年、春秋に植木屋さんが世話をしていました。皆さんお亡くなりになり、この家を老人ホームとして使っています。丹精した植木達を切り払って、明るい庭になりました。これはこれで又良いものです。
 

No.6906 - 2019/09/07(Sat) 17:37:23

Re: 松の木が自由自在に枝を伸ばしています / ubik0101
その書名は見たことはありますが・・・貧乏になろうとした。というのではなく、公平、賢明な観察者であろうとしたら、結果として貧乏になるよ、という話なんでしょうか。

たぶん世界一の金持ちも、全世界にある金額の数%も持ってる訳ではない・・・年金機構から、あなたはとても貧乏だから、月額3,500円ほど、年金を増やします。という趣旨のハガキが届きました。

No.6907 - 2019/09/08(Sun) 06:40:22

Re:お金の貧乏とは限らず、そう云うモノを超越した / 勘太郎
  無門関10則に「清税孤貧」という題があります。清税という坊さんが、師に私は貧しいですので何とかしてください。と問うたところ、師は「お前さん銘酒を腹いっぱい飲んでいるのに、なにが貧乏だ。お前さんは、天下の大富豪だ。

 自発的貧乏とは、お金はないけれども、無限の物を所有している人のことを言っていると読みました。ソローは自分でも覚醒していると書いていますからそういう自覚があったとおもいます。
覚醒なしには賢明な観察者には成れぬと言っていると思います。

 自分を飾る洋服など無駄だ。大きな屋敷を持つことは荷物をしょい込むことでしかない。1862年に死にましたので、文明の負の面はそれほどひどくなかったとおいらはおもうのですけれども、今読んでも新鮮なほど、過度の文明を批判しています。

 台風ひどそうですけれども、大きな被害が無いことを祈ります。台風の影響か?きれいなレンズ雲が今日現れました。18時の小樽の上空です。

No.6908 - 2019/09/08(Sun) 20:18:24

Re: 松の木が自由自在に枝を伸ばしています / hato

悟ったという人たちを指す貧乏のはなしは置いといて、清貧というくらいだから、欲を孕んだ物や金に偏るな、という自戒はどこの国にもあるのでしょう。イエスも、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。と言ったのでしょう。

欲にまみれることは、ほとんど不要な関係とか、煩雑なことが有象無象に増える気がして煩わしいです。意識する以前に、そういう関係のところにいられません。長居できないのです。自分にとっては、単にそういうもんなんだろと思います。

きちんと誠意が通じる、努力すればなんとか出来る、持続できる形式、を考えたら、今の仕事の形になりましたが、お金は、支払いがくるすこし前に、殆ど奇跡的に入って、入った分は速攻で出ていきます。やっぱり足りないので、銀行にもすこし借りてます。仕入もあるので、きっと皆さん笑っちゃうか、青ざめるくらいお金はないです。

でも、ubik0101さんがすきな似せビールや、ささやかですが、晩ご飯のおかずにも事欠かないので、とくにいいのです。所有していなくても、庭を楽しみます。

仕事や生活は、おそらくどの仕事や生活とも同様、とても大変です。お金があったら、・・と考えるのも楽しいものです。

思考と同じで、欲も物も、振り回される敵として、精神世界界隈では殆ど嫌われ者です。人が、そこを用いるようになればいい、と思います。

No.6911 - 2019/09/08(Sun) 23:56:40

Re: 松の木が自由自在に枝を伸ばしています / ubik0101
清税孤貧・・・グーグルって見ました。どうやら、すっからかん、てことも掴んじゃいけないよ。て、話かもしれません。たとえば、無所有、無欲、無私、空、因果・・・それはたしかにそでも、たとえば眼はその眼だけじゃありえない・・・耳は耳だけじゃありえない・・・手は手だけじゃありえない・・・じゃ、全体?いや、全体ということも掴んじゃいけないよ。

なにもないでもないよ。認識だって、たとえば貧乏だけど無限なものを所有してる人。というように貧乏、だけじゃ成立してないでしょう。二項対比だから変だ、ということでもあるけど、変だということを勘定にいれないでもいいけど・・・思うのですが、たとえば無我という言葉、認識なしに、無我であることはあるのではないでしょうか。人は何か体験します。あるいは、この日常。

それは無我とか、真我とか、縁起とか、認識しないでも、言葉にしないでも、そなのでしょう?なので、そんなことを言葉で掴んで、ほかの誰かが目標にする必要はないよね。だからそう目標にしてもいいということもあるけど、たとえばキリスト者が、森の生活者が、仏教者が何か体験したら、その経緯で自分の体験を解釈しがちかもしれないけど、たとえば貧乏に捕まって、それは自分の認識を縛ってしまうこともあるかもしれません。

こちらスーパーなどで半額シールを見つけると、ちょっと嬉しくなります。

No.6913 - 2019/09/09(Mon) 06:34:00