[ 掲示板に戻る ]

記事No.6932に関するスレッドです

ここで話を続けます。 / ubik0101
その・・・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない・・・と、いうのは世界観ではなくて、事実、真理、絶対というわけでしょうか?

たとえばですが・・・この世界は平面で、その縁から海水がざあざあ流れ落ちていた世界でも(知識がないので、その時代だったかは不確かですが)、ソクラテスはソクラテス、アリストテレスはアリストテレス・・・そうでなく、(読んだことないですが)彼らの言ってることが彼らの世界観だとして、ほかにもその反対の、類似の、関係ない、いろんな世界観があるのでしょう。それは説明できますか。ほかの誰かは他の誰か、自分は自分、ということでしょうか。

ところで。この世界は、非剛体、なら、同じように、世界観も価値観も意志もコントロール出来ない・・・では思考が剛体で・・・非・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではないでしょうか。

いつかどこかで誰かの世界観も価値観も意志も変わった、とします。そこで振り返ります。ん、これは変わるようにプログラムされてるんだ。つまり、決まってたんだ。と考えれば、その通りでしかないのでしょう。でもそれは、自己確認、自己擁護という操作してるので、そ感じるのではないでしょうか。一種の二項対比矛盾による無限ループになりそうです。

このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?

No.6930 - 2019/09/13(Fri) 08:20:35

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
> その・・・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない・・・と、いうのは世界観ではなくて、事実、真理、絶対というわけでしょうか?

事実、真理、絶対は、そもそもコントロール出来ません。世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、文字通りの意味です。

>いろんな世界観があるのでしょう。それは説明できますか。ほかの誰かは他の誰か、自分は自分、ということでしょうか。

人間の数だけ、世界観があるでしょう。そして、その人の世界観はその人が自由に選んだのではないということです。それしか選べなかったということです。

>では思考が剛体で・・・非・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではないでしょうか。

そうです。何もコントロール出来ません。

>でもそれは、自己確認、自己擁護という操作してるので、そ感じるのではないでしょうか。一種の二項対比矛盾による無限ループになりそうです。

自己確認、自己擁護という操作をしているなら、それが起きたということです。

> このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?

このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。

No.6931 - 2019/09/13(Fri) 19:25:53

Re: 世界はプログラムされていないとおもいます。 / 勘太郎
 私にはついて行けない事柄なので、単語のつまみ食いです。

 ゆらぎさん得意の量子論では、それこそ過去のゆらぎは超拡大されていますので、先々が計画通りに進むことはありません。神様でも仏様でもできません。

何もおいらが選ぶことはできません。出来事がそれ自身で変化しながら動いて行くとおもいます。

 しかしながら、どうしてこうもうまい具合に変化するのか?全く分かりません。そういう宇宙だからうまく行く。無数にある宇宙の中にはどんな宇宙も無限にある。
 宇宙に存在できる素粒子の数は限られるので、もし宇宙が本当に無限個あったら、全く同じ宇宙も無限個あるそうです。私たちの宇宙の素数は10の88乗個と読んだことがあるような記憶があります。(あやふやです)

今日は気持ちの良い1日でした。来年の大収穫を夢見てイチゴの苗を植えました。買うと高いので地元のほったらかしのイチゴ苗もらって全部で100本くらい植えました。小さいし不ぞろいですが、本当に美味しい苗です。雨が少なかったので特別美味しかったのかもしれません。
 最近雨が良く降るので。木の中には新緑の様に葉を伸ばし始めたものもあります。水分が好きなインゲン豆もぐんぐん成りだしました。

No.6932 - 2019/09/13(Fri) 20:49:11

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
> >では思考が剛体で・・・非・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではないでしょうか。

> そうです。何もコントロール出来ません。

ここは・・・この世界は非剛体であると、非剛体の世界にあって、認識できるのでしょう。このシュミレーション世界の中で、シュミレーション世界だと認知できたのでしょう。自性がない世界で、自性がないと言えるのでしょう?

では思考も例外ではなく、非剛体ではないでしょうか?シュミレーションではないでしょうか?自性がないのではないでしょうか?シュミレーション仮説は、なにかガチガチのようにも見えますが・・・もっと変化できる、柔かいのではないでしょうか・・・という質問です。

そこで、世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではなくて、非・世界観も価値観も意志もコントロール出来ない、ではないか?と、聞いたのです。

どうやら思考は、シュミレーションでも、非・反シュミレーションでもなく。剛体でも、非剛体でもない、自性があるでもないでもない・・・そんな範疇のことではなく、ありのままを記述している。ということのようです。

それに、これはすでに同意があると思いますが、どんな世界観も不要。シュミレーション仮説が、シュミレーション仮説は不要だ。縁起説が縁起説は不要だ、実在説が実在説は不要だ。と言ってるかのようです。世界がプログラムされてても、されてなくても、無関係ということです。

それと、起こったことは起こったこととして決定してしまう。時間は不可逆。たとえ同じことを繰り返しても、それは常に、そのつど、そのつど、そのそのこと。物事は、なんであれ一度しか起きないということは、偶然はない、総て必然。なぜこうなってるかはわからない、ということです。

ときに言うのですが、私はないでも、あるでも、縁起でも、総ては1つでも、日々是好日でも、実在でも・・・これが真理だ、に気がついたら。その真理に聞いてみるのです。私はないは、なぜ、私はない・・・以下同様・・・これは、なぜ、これ?まったく知らない、ただ知らないです。

No.6933 - 2019/09/14(Sat) 00:08:22

Re: ここで話を続けます。 / hato

ゆらぎさんに感じた違和感がすこし、判明しました。

たぶん、無い、に偏重されている分、自分には奇妙に感じられたのでしょう。でもこれは、ただ、わたしが感じたことです。ゆらぎさんが、これでいいと決められたので、尊重したいと思います。

その上で、自分にとっての、をお話しします。

そのことを、実に経験、或いは心身まるごと、の意味で体験しますと、人は、あるないの、「ある、」にも、「ない、」にも多く偏れず、人の意識の器官としても、世界が起きてるから見ている自分が起こる・・または、この自分として、世界を見る・・・と、双方向の働きを生きるようになります。人はそのどちらでもあり、或いは本来どちらでもないのですが、あるないに一方的に偏ると、通常は、困難になるでしょう。

体験が起きますと、ゆっくりであっても、世界の機能を用いて、そのことを理解して、生を決着しつつ、柔軟に成長していくことができる、或いはその経験をしないでも、未知の空を仰ぎ、・・・泣いたり笑ったり、躓きながらも勇敢に、道を選び、進んでいくことができると思います。

プログラミングであるとして、その道を選べたなら幸いです。道があることすら、気付かないプログラミングに生きることも、あるかも知れません。それは自分にとっては哀しいことです。

でも人は幸い、誰でも一度は、空を見上げます。なんともいえない空に、焦がれて見つめる、「これはなんだったろう?」それは、未知への呼びかけです。決められたレールを生きる自分を、生きながらに変容(成長)していこうという、意志を示すことができます。

現前と決定されてる・・・かに見えるこの世界で生きる、ある意味息苦しい、生というところに、ぽっかりと、未知の空が広がっています。

不可-思議、というのは夢ごとでなく、逃避でなく、プログラミングされた生物の限界でもなく、未知の大事です。思考で構築する自分の正しさ、その一辺倒でない、・・そこには常に、世界にとっても、神にとっても、未知であるところの、空(虚空)があります。

自分のWindowsはIEも入れていますが、Firefoxで閲覧しても横長になりません。いろいろなんでしょうね。

No.6934 - 2019/09/14(Sat) 00:17:18

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
このあたりで、少し休憩しましょう。

https://gigazine.net/news/20150303-12-optical-illusions/

AとBが、こんなにも違って見えることに驚かれると思います。逆に、同じ濃さに見えたら、いったいこの世はどのように見えるのでしょうか?
リアリティが喪失し、仮想の世界ということがバレバレになるかもしれません。

人は、これを錯視と呼びますが、私はシュミレーション仮説のひとつの証拠と捉えています。この世の実在感、現実感を出すために、人の脳は錯視を起こすようにプログラムされていると。

この説は、今、ここで初めて紹介しました。
ネットでも見たことが無いので、今のところ私のオリジナルかもしれません。(笑)

No.6935 - 2019/09/14(Sat) 06:37:34

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
ドレスの色は「青と黒」? それとも「白と金」?

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO85079060R30C15A3000000/

私は、「白と金」に見えます。
少数派なのかな・・

No.6936 - 2019/09/14(Sat) 07:15:53

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
ようするに、実際ではない色が錯覚で見えるので、この世界も錯覚でもあり得る、ということですね。たしか図形でも錯視ということがあるようです。絵を見てるその状況で、錯覚が認められますが、まるごと世界総てが錯覚ということが成立するかは不明です。

つまり錯覚を見ることができるということは却って,その見ることのニュートラルさ、(スクリーンを仮定するとして、その)透明さを示してる、とも言えます。でも、あまりにリアルな予知夢とか見ると、また既視感、魔境を経験すると、この世界の怪しさを感じることはあります。

たぶんシュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の、現象界だけを見ると、その解釈としては成立するのだとは思うのです。この日常。縁起のことです。その原因は神、実在であったり、原因なしだ。無始、無終だ。とか思われるのですが、シュミレーション仮説では、プログラム、に設定されてるようです。

ドレスの色は、青と褐色に見えます。

No.6937 - 2019/09/14(Sat) 08:11:12

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
>まるごと世界総てが錯覚ということが成立するかは不明です。

世界総てが錯覚ということではなくて、この世界がリアルに見えるように、脳内で処理されているということです。恐らく、そのままで処理しなければ、現実感の無い見え方になってしまうと思われます。

> たぶんシュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の、現象界だけを見ると、その解釈としては成立するのだとは思うのです。

私も、シミュレーション仮説は現象界に限定しています。
仮想現実という現象界があるということは、それを創った実在界があるということです。
しかし、シミュレーションの世界から実在の世界は感知出来ないし、何かを感知したとしてもその正誤は判断できないということが腑に落ちたので、自分と実在の世界はどういう関係かなどの探求が止んだのです。

それで何かが困るかというと何も困らないし、シミュレーション世界だからバグがあって当たり前。各種の発達障害とか神経症、性同一性障害とか統合失調症などもバグのひとつかもしれません。
シミュレーション世界だから何をやってもいいという思いも起こりませんし、何も変わりません。変わったのは、全てをそのまま受け入れることが努力なしに出来るようになって、感情は動いても苦悩することが無くなったってことでしょうか。
ほんと、生きるのが楽ちんになりました。

> ドレスの色は、青と褐色に見えます。

私の母も水色と黒、家内は光の加減で両方に見えるとのことです。

No.6938 - 2019/09/14(Sat) 08:56:43

Re: 白と青に見えます。 / 勘太郎
 繰り返しです。白内障の手術をした同僚が言ってました。「今まで、事務所のホワイトボードを全く違う色に見ていた」と

 皆さんの感じる色を読むと、黄色・青・茶色と一般に云う場合、その人によりかなり違った色を青・茶色と認識しているのかもしれません。白内障でなくても・・。それは比べようがない。

 妻はあづかった保護猫に産まれる子供に喜んでその準備に忙しいです。保護猫は避妊手術をしますけれども、妊娠の疑いがあれば、産ませる方向みたいです。疑いの段階では処分しても仕方が無いように思いますけれども、そうはしないのが流れです。猫は妊娠期間65日、おっぱいがおおきくなってきました。

おいらも時間は無いと感じます、お金や名誉と同じ人の創った生活のための道具。
 よく考えたら、おらが時間がないと感じるのと覚者が時間が無いと云うのは、全く違います。

 覚者の時間が無いは、時間に平行した視点から観る。千年前は千年前に観る。常にその時の今からその時を見るので、時間は無い。

 おらの視点は自分という眼鏡の焦点から見ている。過去と未来と今はくっ付いている、今の右側が未来で、左側が過去そこに時間は在りませんし、過去・未来に奥行きは無く平面。現在と云うモノがあり距離のない左右の壁が過去未来。
 たぶん・・・・

No.6939 - 2019/09/14(Sat) 19:13:08

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
ところで、実在界という言い方は、かなり変です。界ではないです。実在、です。実在の、界、と言うと、この現象界のことです。

そして人が実在を感知するのではないです。こっちから認知しようとしてもそれは、事実ではない、虚偽かもしれません。

その体験は、起こすのではなく、起きることです。実在が人を感知する・・・その眼差しが・・・愛です。自我がその仕組を開示され、完成される、一般的な言い方では役割を終えて死ぬ、自己、真我の発現。それを神、実在が承認します。世界は人が感じても感じなくても、その愛にあふれています。その有無は知覚に依存しないです。意識と無意識が接合した超意識にあって、人としては、このあたりが限界だと感じました。

でもここです。ここで、♫どこまでも行こう。なんです。何度も何度も生まれ変わるかもしれない、この世界の未来にではない、実在の向こう側に。

そこで往くという感じではなく、還るという感じがするのですが、なぜかそうです。この世界がなんであろうと、とくにどでもいいです。

こっちもかなりの、とんでも話でしょうが、とくに隠し事はないので、どこかで誰かに学んだことではありませんが、どなたでも質問、疑問があれば答えます。

No.6940 - 2019/09/15(Sun) 06:23:54

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
勘太郎さんは、時間は横流れに感じるのでしょうか。こちらは上から下と、あるいは前から後ろと、縦流れに感じていました。

その時間がないというのは、単純に、それが知覚され得ない、というだけのことかもしれません。いわゆる思考の領域ではなく、知覚の領域?にあると、見える聞こえる・・・その見てる聞いてる自分はない・・・と言えば、この説明は明らかな二項対比ですが・・・仏陀がうまいこと言ってます。

うろ覚えですが・・・眼と耳などの知覚器官と、その対象、意識とその対象。これが一切である。そのほかにあるというのは虚偽である。と、言っています。これは無我ってことです。見えること、聞こえること、思考すること、ありとあらゆること、これは総て知覚です。これは静かなのです。

ここで人は知覚の有り様を巡りますが・・・大事なのは、あるいは思考は迷いであり、迷わないは知覚だよ。ということで、即今とか言われることもあるのでしょうが・・・知覚にあって時間は知覚できない・・・これに気が付きます。たとえば毎日が、今日。これだけのことです。

No.6941 - 2019/09/15(Sun) 07:04:37

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
> ところで、実在界という言い方は、かなり変です。界ではないです。実在、です。実在の、界、と言うと、この現象界のことです。

ubik0101さんの「シュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の・・」という文を受けて、実在界という言い方をしたのですが?

> そして人が実在を感知するのではないです。こっちから認知しようとしてもそれは、事実ではない、虚偽かもしれません。

そう思います。

> その体験は、起こすのではなく、起きることです。実在が人を感知する・・・その眼差しが・・・愛です。自我がその仕組を開示され、完成される、一般的な言い方では役割を終えて死ぬ、自己、真我の発現。それを神、実在が承認します。世界は人が感じても感じなくても、その愛にあふれています。その有無は知覚に依存しないです。意識と無意識が接合した超意識にあって、人としては、このあたりが限界だと感じました。

起こすことは何もなく、全ては起きることだと思います。
自我の仕組みはどうなっているのでしょうか?
完成するとは、どうなることでしょうか?
真我とは何でしょうか?
神はなぜそれを承認するのでしょうか?
愛とは何でしょうか?

> こっちもかなりの、とんでも話でしょうが、とくに隠し事はないので、どこかで誰かに学んだことではありませんが、どなたでも質問、疑問があれば答えます。

いろいろと質問させて戴きました。

No.6942 - 2019/09/15(Sun) 07:52:12

Re: ここで話を続けます。 / ubik0101
なにかを話したり、行動したり、思考したりします。それは予め、そする主体があって、してるのではありません。笑う、歌う、怒る、走る、思考する・・・時間をさかのぼって、そする、その主体が予めあるかのように、仮定してるのです。虚構。これを自我と呼びます。

これは、主体がなければ見る聞く思考する行動することはできないだろうという、ごく当たり前の感覚が、あまりに理論的なことが、数学の公理のように証明できないけど疑えないことのように、これを見ることの障害になっています。自分にあたえられた課題です。その自我の仕組が開示されることが完成です。

たとえばジグゾーパズル、ピースをあっちこっちと動かして迷いながら完成形を探りますが、完成するとその絵は、もう不要です。あるいはテトリスです。一列そろったら消えてしまいます。そして真我が発現します。とりあえず人としての探求は終わる。ということでも自我の完成、と呼びます。

また自我とは、執事のようなことです。主人と同じことを日常、こなしますが。主人が現れると、静かに引き下がるのです。また自我とは、小さな苗が成長するための支柱です。なくてはならないものですが、苗が大きくなると、なくならなくては邪魔になるものです。あるいは自我とは、真我が現れるための扉です。

それと、たとえば自我については、さまざまな事が言われます。ひとつの理解だけでは、それにしがみつく傾向にあります。ちょっと探してみましたが・・・たとえば思考が自我をつくるから問題だ(耕月寺HP参照)。偶然、それぞれの要素が集まってるだけなのに、それを掴んでるのが自我だ(濁川/全休氏記述HP参照)。いろいろあるでしょうが、自分の発見?を掴まないこと。いろんな経緯を巡って、それだけに固執しないこと、あるいは忘れること、は大事なようです。

愛は愛でなくほかのことだったら、愛ではないでしょう。生まれて初めて経験する事態でも、それは愛とわかる、そうとしか呼べないのです。たぶん人生のというか、実在の目的、目論見が、自己を発現させることなのでしょう。この世界でも、親が子を産み、子が孫を生むように。自我とは、そのために、親が子に課す、課題、かもしれません。それが解けたら、よくやった。なのでしょう。

真我とは、実在の直系です。そのためにあるのが自我です。こちらの場合はですが、自我の仕組みが解かれることが大事でした。この世界、あんなことこんなことに溢れています。そのテストは受けないよ、もあり。そんなことと関係なく、損した得した、嬉しい、苦しい、平穏だ。嫁いだ娶った、生きた死んだ。それが総て役に立ちます。この世界は、よくできてると思うのです。

>ubik0101さんの「シュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の・・」という文を受けて、実在界という言い方をしたのですが?

もしかして・・・誰かが自分のことを批判したと感じるなら・・・なぜ自分は批判されたと感じるのだろう。その、そう感じる、その理由。その見えない前提を探る。あるいはきっぱり忘れて、さまざまな思考の展開に眼を奪われない・・・こんなことが自分の道でもありました。

一応説明しますと、私が言ったのです。それを私が変な言い方だ。と、言ってるのです。それと、ubik0101さんは、現象界を実在界のように生きるってことですか?と質問されたことがあって、その区別はないよ。と返事しましたが、そんな言い方があるんだ。一般的な言い方なのかな、ということからです。

No.6943 - 2019/09/15(Sun) 19:37:53

Re: ここで話を続けます。 / ゆらぎ
ubik0101さん
丁寧な説明、ありがとうございました。
自我は真我を発現させるための執事であり、真我が現れると自我が消滅するという仕組みが開示される、つまりそれが実現することが自我の完成ということですね。
真我とは、実在の直系とのことであり、自我は真我と同じことを日常こなすとのことですが、実在及び真我とは何であり、それらは何をこなしているのでしょうか?

私は、自我とは肉体、思考、感情、本能などから「自分」というアイデンティティーをつくる機能であり、それらからの入力を処理し出力するアプリケーションと位置付けています。
ですから、「自分」というものは仮想にすぎません。hatoさんに、自分は無いと申し上げたのは、このような背景があります。
そして、自我は真我と切り離しており、真我のことは考えなくなりました。
真我だけでなく、実在も不要になり、非常にスッキリしています。

> 愛は愛でなくほかのことだったら、愛ではないでしょう。生まれて初めて経験する事態でも、それは愛とわかる、そうとしか呼べないのです。たぶん人生のというか、実在の目的、目論見が、自己を発現させることなのでしょう。

昔、「神との対話」という本が流行りましたが、ご存知でしょうか?

> >ubik0101さんの「シュミレーション仮説は、実在界/現象界とした場合の・・」という文を受けて、実在界という言い方をしたのですが?
> 一応説明しますと、私が言ったのです。それを私が変な言い方だ。と、言ってるのです。


そうだったのですね。
掲示板は対話形式なので、てっきり私に言われていると思い、???となってしまいました。

No.6944 - 2019/09/16(Mon) 05:37:07