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記事No.6983に関するスレッドです

(No Subject) / hato

ゆらぎさん、こんばんは。待望の休日が終わるって、はやいです。

>「成長した人」になろうとしているのではないですか?hatoさんご自身が、「成長していない今の自分」はわるいと思っているからではないですか?


体験は、数十年前です。変化については既に書きました。意識は、そのことをあとから学びます。人は人生ある限り学び、理解が整備される、深まることができる、というのはなかなかよくできてる、て思います。自分にとって、頑張って生きるというのは、この意味です。出来る限り、ここを深めたいのです。人からどう思われようが、これにとっては一大事です。

さまざまな喧騒のなかにも、日常ひとりあって静かに、しあわせです。生ある限り、喧騒も混乱も、世界と人との難も喜びも、頑張って生きると決めています。

人は、生まれたそのままでは未熟、というのは自然なことでしょう。それは、この段では、わるい、という範疇にないでしょう。また実際、このことが分離、という範疇にもありません。ただ人がもし、なるべくする変化を拒むとしたら、・・わるいのかも知れません。または、なるべくしない人も、・・あるかも知れません。


>そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか?
そして、成長とはどうなることですか?
終わりがあるのですか?


ひとつには、人は、そうでなければ、迷う可能性、を秘めているからです。

世界は膨大無尽蔵の様相、なんでもありです。なんでもあり、の様相を生きる必要がなくなる、ためです。ゆらぎさんは、もしこれからの人生に組まれてるプログラムに、ゆらぎさんが思うところの、悪、を為す展開が訪れたとして、喜んで行うのでしょうか?たとえば、自分を守るために嘘をつく、とか、・・そんなことです。プログラムは選べないのでしたね。人は、そこに従うだけ、というのがゆらぎさんのこれまでの言説です。


念のため、このスレッドで、ゆらぎさんは、

> 人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。そして、勝手に起こって消えていくのです。


とお話しですが、すこし前のお話しで、ゆらぎさんは、

> このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?

との問いに、

> このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。


こうして、人の対話の展開にまで、プログラムが関与している、とお話しです。人はプログラムされてないと言われますが、人はプログラムを生きるのですね。なら、プログラムされてないという、人に、なぜ変化、変容が不可能なのでしょうか?決まって起きてくる本能や感情や思考を生きるためだけの人なら、プログラムされているのと同じことです。ある意味、動物がそうではありませんか。この場合、人ならば、この意味での成長が必要では、と考えるのは自然なことです。

いま一度、今回の対話の、初めから、こちらで書いてることも含めて、じっくり、再読してみて頂くといいと思います。ゆらぎさんのお話しは、以前もすこし感じたかも知れませんが、微妙に、少しずつ、すり替わっていくところがありますよ。一貫性というのは、成長の果実です。


死んでなくなるのに努力してどうなんだ、という、生きてもいないところの結果が欲しいでしょうか?自分はとくに、気になりません。

  そしてどうなるのか?

それは自身で生きてみないといけません。そうではありませんか。

No.6979 - 2019/09/25(Wed) 23:33:53

Re: / ubik0101
> > ムージは、思考の領域ではなく、知覚の領域にあれ。と話してるのでしょうか。

> 違うと思います。思考も知覚も幻想であり、勝手に起こって消えていくとしています。自分というのは、それらに気づいている意識であるとしか言っていないのでは?

>> ムージは、自我も世界もある。と言ってるようにも聞こえます。

> それらは幻想であると言っているのでは?

そのように言ってるようには聞こえませんが、そのように言ってるのだとして、もしかして気づいてる意識は、幻想ではない、ということですか?

ところで、思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていくのでしょうか?

ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?

No.6981 - 2019/09/25(Wed) 23:42:18

Re: / ゆらぎ
hatoさん
> 人は、生まれたそのままでは未熟、というのは自然なことでしょう。それは、この段では、わるい、という範疇にないでしょう。また実際、このことが分離、という範疇にもありません。ただ人がもし、なるべくする変化を拒むとしたら、・・わるいのかも知れません。または、なるべくしない人も、・・あるかも知れません。

生まれる、つまり思考や感情を自己同一化し、他と分けることが分離です。
しかし、何度も言うように、分離は悪いことではありません。

> >そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか?
> >そして、成長とはどうなることですか?
> >終わりがあるのですか?
> ひとつには、人は、そうでなければ、迷う可能性、を秘めているからです。


迷うべくして迷うのであり、悪いこととは思えませんが?

> 世界は膨大無尽蔵の様相、なんでもありです。なんでもあり、の様相を生きる必要がなくなる、ためです。ゆらぎさんは、もしこれからの人生に組まれてるプログラムに、ゆらぎさんが思うところの、悪、を為す展開が訪れたとして、喜んで行うのでしょうか?たとえば、自分を守るために嘘をつく、とか、・・そんなことです。プログラムは選べないのでしたね。人は、そこに従うだけ、というのがゆらぎさんのこれまでの言説です。

思考や感情や行動は起こることであって、行うことではないと言ってるのですが?

> > 人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。そして、勝手に起こって消えていくのです。
> とお話しですが、すこし前のお話しで、ゆらぎさんは、
>
> > このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?
> との問いに、


> > このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。

> こうして、人の対話の展開にまで、プログラムが関与している、とお話しです。人はプログラムされてないと言われますが、人はプログラムを生きるのですね。なら、プログラムされてないという、人に、なぜ変化、変容が不可能なのでしょうか?決まって起きてくる本能や感情や思考を生きるためだけの人なら、プログラムされているのと同じことです。ある意味、動物がそうではありませんか。この場合、人ならば、この意味での成長が必要では、と考えるのは自然なことです。

変容が起こることが不可能とは言っていないと思いますが?
変容が起こったということは、そうプログラムされていたということです。
それに、「プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません」と書いています。
hatoさんが言われている成長が、変容のことであれば、理解できます。
しかし、変容するのは自分ではありません。
「人」の定義を使い分けてしまった私が悪いのですが、このスレッドの「人」とは自分のことであり、起こることは変容しても自分は変容しません。

> いま一度、今回の対話の、初めから、こちらで書いてることも含めて、じっくり、再読してみて頂くといいと思います。ゆらぎさんのお話しは、以前もすこし感じたかも知れませんが、微妙に、少しずつ、すり替わっていくところがありますよ。一貫性というのは、成長の果実です。

上記の通り一貫していると思いますが?
言葉というのは、いろんな意味を持つと共に、人によって言葉から受けるイメージが異なるため、丁寧な説明が必要だったと思います。
そこのところは、申し訳ございません。

> 死んでなくなるのに努力してどうなんだ、という、生きてもいないところの結果が欲しいでしょうか?自分はとくに、気になりません。
>   そしてどうなるのか?
> それは自身で生きてみないといけません。そうではありませんか。


別に結果が欲しいとは思いません。
hatoさんは結局どうなりたいのかな?と思った次第です。


ubik0101さん
>そのように言ってるようには聞こえませんが、そのように言ってるのだとして、もしかして気づいてる意識は、幻想ではない、ということですか?
> ところで、思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていくのでしょうか?

そうです。
思考や知覚だけではなく、人の行動、も勝手に起こって消えていきますが、気づいてる意識は、生まれてこのかた不変です。

> ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?

問題だとは言っていません。
どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
何故なら、フィクションだからです。

No.6982 - 2019/09/26(Thu) 06:28:11

Re: おいらの書くことは、皆でたらめです / 勘太郎
 おいらは何にでもくっ付いてしまいますから、なんの信頼もできません。自分でも信頼していません。

 世間が右と云えば、やや左、左と云えばやや右のへそ曲がり。
 お金が一番だと言われたら、欲しいけれど、本当はお金というモノは存在していないよ。

 14歳の少女が国連で気候変動の演説をすれば、本心は気候変動反対キャンペーンに大賛成なのに、豪華ヨットで移動したら、その実飛行機よりもエネルギー使うんでないの?という風ですこしばかりのへそ曲がりで、何にでもくっ付いてしまいますので、おいらの何ものも信頼できません。


 <<ムージが言ってるのは、「自分とは気づいている意識である」たったこれだけです。その他のものは、みんな幻想である。勝手に起こって消えていく。禅の無字の解説よりもシンプルです。>>

気づいている意識は意識なので、おいらの延長です。独参において意識を出しては、鈴がなります。
この意識は広大で、何ものにも接着しません。死の恐怖にも、肉体・精神の痛みにも不感症です。

繰り返しです。これは覚醒への道であって覚醒ではありません。ただの思考の不在。そんな風に思っています

No.6983 - 2019/09/26(Thu) 07:17:24

Re: おくじょうからの風景です。 / 勘太郎
 向うの山はスキー場のある手稲山。おらの山のはたけは、山の向うの山の向うの向うで自宅から片道65kmです。

 今朝も快晴。

No.6984 - 2019/09/26(Thu) 07:21:20

Re: 出勤にまだ早いので、完璧について / 勘太郎
 精神・肉体障害者は自分に産まれてきたくなかったと感じないと想像しています。彼らは不具で良かったとはおもわないでしょうけれども、自分であることで良いと思っていると想像します。

 作家の三浦綾子は「私は神にひいきされている」と言っています。難病に苦しみながら。

 100歳で老衰で死んでも、0歳で間引きで殺されても死ぬ事になんの違いもありませんと感じます。

 ゆらぎさん書き込みから私(おいら)の思考が明確になって行くように感じます。

No.6985 - 2019/09/26(Thu) 07:41:51

Re: / ubik0101
気づいてる意識は生まれてこのかた不変・・・それは自我だと、こちらは言います。これに反論すると、それは自我だという思考も幻想で、気づいてる意識は、ただ気づいてる意識だということになるかもしれません。

それで、気づいてる意識は生まれてこのかた不変というのが、気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついたということなのでしょう。そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変なのでしょうか?そう気づこうとしてそう気づいてるのでは?

No.6986 - 2019/09/26(Thu) 08:36:48

Re: / ubik0101
> > ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?

> 問題だとは言っていません。
> どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
> 何故なら、フィクションだからです。


フィクションの内容ではなく、その仕組に騙されてる。ということを話したのです。

No.6987 - 2019/09/26(Thu) 08:45:31

Re: / hato

お仕事や家内作業、きっとさまざまおありかと思います。時間を割いて頂いて、ありがとうございます。昨日は朝から、頭の左の表面がよくある片頭痛で、薬を沢山飲んで、帰ってきてから転がってたので、今頃、目が冴えてしまっててて。👀 どうしょう。というところです。


>生まれる、つまり思考や感情を自己同一化し、他と分けることが分離です。
>しかし、何度も言うように、分離は悪いことではありません。



そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。


>迷うべくして迷うのであり、悪いこととは思えませんが?


そうかな?

ゆらぎさんは、世界の不具合のことを、熱心に非難していらっしゃいました。人という位置から見るなら、多くの悲劇は、これは言い方ですが、迷う意識が、迷う行動を起こして成るとも言えます。迷う人の意識です。それのどこが、わるくないのでしょう?。プログラムされてるから、人がそれに則り行動する。なら、わるくない、世界は起きてるから、・・・という、総てをあるがままに見る見方
があるとして、

そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。

物事を認識する、見方は、見る位置、或いは閾値に依るとして、人が世界で生きている、水平線上の見方を一方的に逸脱してしまうと、ちょっと変です。

神がいるならそうかも、・・・と人が想像できるような、意識の位置に偏るということです。実際そこは、想像、できません。ここはただ意識、とはいえないようです。表現上ですが、人の意識の縦(神)横(人の生)、の交差点、そこは、未知です。そこは意識上の、あるない、一方に、偏ることができません。そんな言い方もできると思います。

人はこの意味で、変化、変容、成長できます。と言えます。人がしても、いいです。自分がする、といって無問題です。自ずと分かれた自分でしょう。変容して、その過程は消える・・・起きてもない・・・という不可思議、て思います。

ゆらぎさんの今の意識の座は、本当に平和で安らぐ場だから、・・それが一番いいことだから・・そうであろう。と考えられたのかな、と想像します。ゆらぎさんは、とても優しい人、と思います。

No.6988 - 2019/09/27(Fri) 01:15:41

Re: / ゆらぎ
勘太郎さん
> 気づいている意識は意識なので、おいらの延長です。独参において意識を出しては、鈴がなります。
> この意識は広大で、何ものにも接着しません。死の恐怖にも、肉体・精神の痛みにも不感症です。


勘太郎さんが言われている延長は、自我ではないでしょうか?
何ものにも接着しない意識を丸出しにすれば、鈴は鳴らないと想像します。

>  100歳で老衰で死んでも、0歳で間引きで殺されても死ぬ事になんの違いもありませんと感じます。

私も同じ思いです。


ubik0101さん
> 気づいてる意識は生まれてこのかた不変・・・それは自我だと、こちらは言います。これに反論すると、それは自我だという思考も幻想で、気づいてる意識は、ただ気づいてる意識だということになるかもしれません。

そうです。気づいてる意識は、ただ「自分がある」ことに気づいている意識です。

> それで、気づいてる意識は生まれてこのかた不変というのが、気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついたということなのでしょう。そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変なのでしょうか?そう気づこうとしてそう気づいてるのでは?

「気づいてる意識は生まれてこのかた不変に気がついた」のは、自我です。
そう気が付かなくても気づいてる意識は生まれてこのかた不変だと思います。
ただ「自分がある」ことに気づいている意識ですから。

> > > ゆらぎさんは、この世界は、出来そこないの神のつくったプログラムで、それに気が付かないのは、バカみたいに騙されてるのは、問題だ。と言ってるのでしょうか?
> > 問題だとは言っていません。
> > どんな悲惨な内容の小説でも、だれも問題だとは言はないでしょう。
> > 何故なら、フィクションだからです。
> フィクションの内容ではなく、その仕組に騙されてる。ということを話したのです。


この世界はフィクション(仮想現実)という仕組みであり、自我はそれに気が付いていないので、騙されているとも言えるでしょう。しかし、それは問題ではありません。そういう仕組みなのですから。

hatoさん
> お仕事や家内作業、きっとさまざまおありかと思います。時間を割いて頂いて、ありがとうございます。昨日は朝から、頭の左の表面がよくある片頭痛で、薬を沢山飲んで、帰ってきてから転がってたので、今頃、目が冴えてしまっててて。👀 どうしょう。というところです。

hatoさんの素敵な前書きをいつも楽しみにしています。
私は、その時間的な余裕がなく、申し訳ありません。
文才も感性も無いことの言い訳ですが。(笑)
片頭痛、早く治まるといいですね。

> そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。

生まれて生きるこの世界が、分離の世界であることは、必然だと思うのです。
hatoさんと私が分離しているので対話が生まれる、あそことここが分離しているので、空間的広がりが生まれる、現在と過去や未来が分離しているので時間的な広がりが生まれる。
それらは幻想だとは思いますが・・。

> ゆらぎさんは、世界の不具合のことを、熱心に非難していらっしゃいました。人という位置から見るなら、多くの悲劇は、これは言い方ですが、迷う意識が、迷う行動を起こして成るとも言えます。迷う人の意識です。それのどこが、わるくないのでしょう?

言われている通り、まさに、プログラムされていることが、起こるべくして起こっているからです。

> そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。

起こすと起こるは全く違うと思います。
主体があるか、無いかです。
何かを起こす自分という主体は、私には見つけられませんでした。

> 物事を認識する、見方は、見る位置、或いは閾値に依るとして、人が世界で生きている、水平線上の見方を一方的に逸脱してしまうと、ちょっと変です。
> 神がいるならそうかも、・・・(以下略)


申し訳ないのですが、ここのところは、全く理解できませんでした。

> ゆらぎさんの今の意識の座は、本当に平和で安らぐ場だから、・・それが一番いいことだから・・そうであろう。と考えられたのかな、と想像します。ゆらぎさんは、とても優しい人、と思います。

平和で安らぐ場であることは間違いなにのですが、気が付いたらそうなっていたということです。
優しくないことは自覚していますが、しょうがないと思っています。(笑)

No.6989 - 2019/09/27(Fri) 06:02:25

Re: / ubik0101
シュミレーション仮説は、なぜだか悪夢のような世界観に感じるのです。いまいち、その仕組みが解らないからかもしれません。復習を兼ねて、探ってみます。

その、たとえば錯視とか病気とか苦痛とかで、リアリティを演出、この世界がシュミレーション世界であることに気が付かないように操作してるとして、

その不完全な神は、それでも気づいてる意識の創造主なのでしょうか?あるいは贋の神で、真の神が創ったこの世界への侵入者?あるいはその変な神は、気づいてる意識と、同一?気づいてる意識は、その神と無関係?

あるいは気づいてる意識が、真の実在?基底?スクリーン?だとすると、世界はシュミレーションでも、なくてもなんでもいいけど、世界によって自分を確認できる、それが仕組み?世界がなくても、自分はある、とかは不問?

あるいは、虚構である自我・・・気づいてる意識・・・が世界に自分を投影して、世界はシュミレーション、知覚も思考も行動も、起きては消える幻だ?自分も世界も総て虚構という見方も成立する?

あるいは、対象化できることは総て幻想で、対象化できないことは幻想ではない?気づいてる意識は、言葉では対象化できるけど、実際には対象にできない、それはある。たったこれだけ、ということ?

あるいは、シュミレーションであれ、リアル?であれ、夢であれ、なんであれ、知覚、思考、感情、行動を見て、常に常に、その背後に回りこんで、気づいてる意識に、気づく。という見方は成立する?

それで・・・あるないの話は面倒ですが・・・こちらは、気づいてる意識は、それに気づいても、気づかなくても、ありようがない、ない、透明です。

No.6990 - 2019/09/27(Fri) 08:01:06

Re: / hato
片頭痛は、イブを2錠ずつ3回飲んで効かず、今朝やっと、ロキソニンを一錠飲んでみたら、半日かかって痛みはなくなりました。痛いって、なにもまともにできなくなって、困るです。


> そうなのでしょう。ただ、生まれて、その仕組みを生きることは、とくに分離ということではないと思います。お話しは、とてもわかりました。

>生まれて生きるこの世界が、分離の世界であることは、必然だと思うのです。


これはよく言われる、総てはひとつ、から推察されるのでしょうが、・・科学的にも皮膚から外と境目がないと、疑似的な現象を見ることができるといいますが、なので一応、わかるのですが、自分としては、世界は分離・・、合一・・・、どちらとも、言えません。


> そもそも、人が行う(起こす)、世界は起こる、それはどちらも言える、と思います。

> 起こすと起こるは全く違うと思います。
> 主体があるか、無いかです。
> 何かを起こす自分という主体は、私には見つけられませんでした。


起こす主体は、確認できません。それは、自我であっても、自己(真我)であっても。ですが、知覚できない自我(変容する可能性を秘めた状態の我)と、自己(真我)であるが故の無。ただ違います。変容し、その過程は消失し、なにも起きてはいない・・・と思います。

なのでこの意味でも実に、起こす、・・とも、起こる、・・とも、言えるのです。

総てが起こり、起きていないその空(くう)は、世界の側からそのことを確認しょうとすると、さまざまな仮説、似た現象として見てしまえることがあると思います。シミュレーション仮説も、そのようなことではないでしょうか。

造られた世界の側から、確認することは不可能です。不可逆です。想像されると現象として表れることもある、・・・もちろんそれだけでもなさそうな・・この世界は、膨大無尽蔵、なんでもありの様相で・・・人は愉しみながら、迷路に嵌ってしまうことがある・・・ではないでしょうか。

真実を求めた人にとっては、それは哀しい、
でも、人ゆえに、迷路に嵌ることもある。
生きてるゆえに、別の選択もできます。

だから、世界って困難ながら、ちょっと素敵。って思うのです。

勘太郎さんの、畑。片道65キロ。車をすっとばして、1時間くらい?でしょうか。おらの山の畑、山の向うの山の向うの向う・・かっこいいです。☺

No.6991 - 2019/09/28(Sat) 00:05:28

Re: / ゆらぎ
ubik0101さん
> シュミレーション仮説は、なぜだか悪夢のような世界観に感じるのです。

分かります。ですので、感情的に受け入れられないかもしれませんと書いたのです。

> その不完全な神は、それでも気づいてる意識の創造主なのでしょうか?あるいは贋の神で、真の神が創ったこの世界への侵入者?あるいはその変な神は、気づいてる意識と、同一?気づいてる意識は、その神と無関係?

何が真かは分かりません。
どう説明しても、眉唾っぽくなるのは理解していますが、挑戦してみます。
シミュレーション仮説とすると、この世はパソコンで創造されています。
自我はひとつのアプリケーションであり、人の数だけあります。メモリーは様々なことが起こる場であり、ハードディスクには、ストーリーや思考、感情、感覚、本能などが蓄えられています。自我は、ストーリーの中で様々な環境や他の自我と出会い、その刺激に応じてハードディスクにアクセスし、思考、感情、感覚から相応しいものを選択し、それに応じた行動を起こします。そして自分(自我)は、肉体とそれらを自己同一化し、自分というアイデンティティをつくり上げます。

これらは、自我というアプリケーションが起こしているように見えますが、プログラムによって起こっているだけです。そして、「気づいている意識」というのは、OSのようなものかもしれません。自我というアプリケーションの動きやメモリーの中で起こっていることに気が付いており、OS自体は最初から変化しません。
気づいている意識は、操作している人に繋がっていると想像することも可能ですが・・。

> それで・・・あるないの話は面倒ですが・・・こちらは、気づいてる意識は、それに気づいても、気づかなくても、ありようがない、ない、透明です。

OSは透明だと思います。


hatoさん 
> 片頭痛は、イブを2錠ずつ3回飲んで効かず、今朝やっと、ロキソニンを一錠飲んでみたら、半日かかって痛みはなくなりました。痛いって、なにもまともにできなくなって、困るです。

ロキソニン、私は解熱剤として数年に一度服用します。
頭痛の経験が無く、辛さを分かっていないのですが、痛みがなくなって良かったです。

> なのでこの意味でも実に、起こす、・・とも、起こる、・・とも、言えるのです。

Ubik0101さんへの返信に書いたように、私の理解は「自我というアプリケーションが起こしているように見えますが、プログラムによって起こっているだけ」ということです。
それぞれの理解があっていいと思いますし、それぞれが、自分(自我)にとっての真実です。
しかし、経験や学びによって理解は変わっていきます。それが、変容であり成長と名付けたものなのでしょう。

> 真実を求めた人にとっては、それは哀しい、
> でも、人ゆえに、迷路に嵌ることもある。
> 生きてるゆえに、別の選択もできます。


私も長い間迷路を彷徨いましたが、視界は開けてきました。
それが真なのかどうかは確かめるすべがありませんが・・。

> だから、世界って困難ながら、ちょっと素敵。って思うのです。

私もそう思います。
生きるって、素晴らしいことだと、やっと実感できるようになりました。

No.6992 - 2019/09/28(Sat) 06:43:09

百億の昼と千億の夜 / ubik0101
およそ、見る聞く触ることがあるということは、その対象/主体、が機能してるということです。もし完全に対象がなければ,たとえば死んでしまえば、世界が消えれば、それを見てる何かが、あるとかないとかもないでしょう。その主体と対象という関係は世界が総力を挙げてつくります。なんであれ、青い空が、飛ぶ鳥が、犬の糞が、見てる主体をつくってるでしょう。あるいはそれは世界と人が協力しているのです。いわゆる眼が覚めていれば気絶してないという意味で意識があるという意味での意識。これは自我とは思えないのが普通かもしれません。こいう私も、その意識がある私が自我とは気がついてもいませんでした。世界は美しく透明で、貧乏だった。困ったことはあるけど、心配したことはない、幸せであったのですが、社会的には、底辺に生き、人生を棒に振っても、探求が楽しくてしかたなかったのです。そんな東京の片隅で一人あって、私の師は・・・言葉・・・でした。とくに誰かの言ったこと書いたことではなく、言葉から学びました。もし思考をネグってしまえば、そいう経緯も失うかもしれません。なので人は、思考の領域、たとえそれが悩みであっても、それを大事にするのかもしれません。そしてもう思考は見尽くしてなくなってしまった。これからは無意識を探ろう。世界になんの特質もなくなってしまった、意味を失ってしまった木造アパートの一室で、そう思いました。誰から学んだこともないので、なんか修行をするとかは考えることもなく、こいうことしかできることがなかったのです。探求。それは、言葉で見ること・・・思考です。ずっとずっと子供のころは、死んでもなくならない、自分の中心を求めようと思ったのです。けど、それも忘れて、すでに何かを求めていたのではありません。なにかが起こるということも知りませんでした。精神の探検。ただそんな日常でも、世界と素通しになる体験、思考の裏の自分は、ない、クンダリニーの上昇、が起こったりしました。それを努力と呼ぶとして、その努力に関係なく、関係なくもなく、体験、それが起こったのです。その普通の意識、それが自我だったのです。世界は人の探求に報いてくれるのです。そして去っていくのです。この世界からの解脱・・・♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう。この日常に総てあります。
No.6993 - 2019/09/28(Sat) 08:28:23

Re: / hato

> 頭痛の経験が無く、辛さを分かっていないのですが、痛みがなくなって良かったです。

頭が大きくて、頭内がゆったりしており、神経にさし障ることがないとか、・・でしょうか。頭痛がないて、なんと羨ましいの☺。うちは、頭の大き目なubik0101さんも、小さめな自分も、頭痛はしょっちゅうで、この手の薬もしょっちゅう、使います。🙏

> しかし、経験や学びによって理解は変わっていきます。それが、変容であり成長と名付けたものなのでしょう。
> 私も長い間迷路を彷徨いましたが、視界は開けてきました。
>それが真なのかどうかは確かめるすべがありませんが・・。



視界が開ける・・て、いいですね!

体験としての経験は、人とその意識の座を、空、中道、・・未知、に据えることが起きます。それは了解であり、必ず、わかります。世界が自動的に起こしていた、(ここで言われるところの、プログラムされてる)人に、空、中道、・・未知とその理解が訪れます。理解は、圧縮された膨大なデータが、解凍される感じに似ているようです。

不可知から外れ、意識されることに偏重すると、人は頑なになり、理解することが困難になるかも知れません。けど、ドンマイ!三歩進んで二歩下がる。気を取り直してさあ進もう!未知なる道を、どんどん行こう!と思います。


>私もそう思います。
>生きるって、素晴らしいことだと、やっと実感できるようになりました。


ubik0101さんが、「どこま〜でも、行こう〜、みちは〜・・」と嬉しそうに歌ってます。ときどき、庭でじょうろに水を汲みながら、一所懸命歌ってる・・ことが、あります。👀 👀 👀

No.6994 - 2019/09/28(Sat) 23:57:43