ゆらぎさん、こんばんは。待望の休日が終わるって、はやいです。
>「成長した人」になろうとしているのではないですか?hatoさんご自身が、「成長していない今の自分」はわるいと思っているからではないですか?
体験は、数十年前です。変化については既に書きました。意識は、そのことをあとから学びます。人は人生ある限り学び、理解が整備される、深まることができる、というのはなかなかよくできてる、て思います。自分にとって、頑張って生きるというのは、この意味です。出来る限り、ここを深めたいのです。人からどう思われようが、これにとっては一大事です。
さまざまな喧騒のなかにも、日常ひとりあって静かに、しあわせです。生ある限り、喧騒も混乱も、世界と人との難も喜びも、頑張って生きると決めています。
人は、生まれたそのままでは未熟、というのは自然なことでしょう。それは、この段では、わるい、という範疇にないでしょう。また実際、このことが分離、という範疇にもありません。ただ人がもし、なるべくする変化を拒むとしたら、・・わるいのかも知れません。または、なるべくしない人も、・・あるかも知れません。
>そうでないならば、なぜ成長する必要があるのですか? そして、成長とはどうなることですか? 終わりがあるのですか?
ひとつには、人は、そうでなければ、迷う可能性、を秘めているからです。
世界は膨大無尽蔵の様相、なんでもありです。なんでもあり、の様相を生きる必要がなくなる、ためです。ゆらぎさんは、もしこれからの人生に組まれてるプログラムに、ゆらぎさんが思うところの、悪、を為す展開が訪れたとして、喜んで行うのでしょうか?たとえば、自分を守るために嘘をつく、とか、・・そんなことです。プログラムは選べないのでしたね。人は、そこに従うだけ、というのがゆらぎさんのこれまでの言説です。
念のため、このスレッドで、ゆらぎさんは、
> 人はプログラムされておりません。プログラムされているのは、思考や感情や本能や感覚であり、それは人ではありません。プログラムされているから、起こすのではなく起きるのです。そして、勝手に起こって消えていくのです。
とお話しですが、すこし前のお話しで、ゆらぎさんは、
> このように話が展開されるというのは、初めからプログラムされてたのでしょうか?
との問いに、
> このようにしか展開できなかった、ほかの展開が選択できなかったということは、初めからプログラムされていたのでしょう。プログラムされていないことは、起こらないと思います。
こうして、人の対話の展開にまで、プログラムが関与している、とお話しです。人はプログラムされてないと言われますが、人はプログラムを生きるのですね。なら、プログラムされてないという、人に、なぜ変化、変容が不可能なのでしょうか?決まって起きてくる本能や感情や思考を生きるためだけの人なら、プログラムされているのと同じことです。ある意味、動物がそうではありませんか。この場合、人ならば、この意味での成長が必要では、と考えるのは自然なことです。
いま一度、今回の対話の、初めから、こちらで書いてることも含めて、じっくり、再読してみて頂くといいと思います。ゆらぎさんのお話しは、以前もすこし感じたかも知れませんが、微妙に、少しずつ、すり替わっていくところがありますよ。一貫性というのは、成長の果実です。
死んでなくなるのに努力してどうなんだ、という、生きてもいないところの結果が欲しいでしょうか?自分はとくに、気になりません。
そしてどうなるのか?
それは自身で生きてみないといけません。そうではありませんか。
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No.6979 - 2019/09/25(Wed) 23:33:53
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