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記事No.7007に関するスレッドです

口笛を吹きながら / ゆらぎ
>いわゆる眼が覚めていれば気絶してないという意味で意識があるという意味での意識。これは自我とは思えないのが普通かもしれません。こいう私も、その意識がある私が自我とは気がついてもいませんでした。

そうなんです。
「気づいている意識」に気づいているのも自我です。
そして、それは脳の一つの機能であり、そのようにプログラミングされているのかもしれません。

>この世界からの解脱・・・♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう。この日常に総てあります。

考え方や表現は違いますが、この日常を肯定し、全てを受け入れて、目の前の起こったことに対して真摯に一所懸命に取り組み、結果はさほど気にしないという点において、ubik0101さん、hatoさん、勘太郎さんと共通していると思います。

そして、それが「♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう」ということだと思うのです。


hatoさん
> 頭が大きくて、頭内がゆったりしており、神経にさし障ることがないとか、・・でしょうか。頭痛がないて、なんと羨ましいの☺。うちは、頭の大き目なubik0101さんも、小さめな自分も、頭痛はしょっちゅうで、この手の薬もしょっちゅう、使います。🙏

確かに、私の頭は大きいです。(笑)
家内は小さいのですが、二人とも頭痛がないのです。

>ドンマイ!三歩進んで二歩下がる。気を取り直してさあ進もう!未知なる道を、どんどん行こう!と思います。

私も全く同じ思いです。

> ubik0101さんが、「どこま〜でも、行こう〜、みちは〜・・」と嬉しそうに歌ってます。ときどき、庭でじょうろに水を汲みながら、一所懸命歌ってる・・ことが、あります。👀 👀 👀

私もギターを弾きながら、時々歌います。(笑)

No.6995 - 2019/09/29(Sun) 07:43:06

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
たぶん・・・意識のありさまは自我ではなく、世界の構成要素であり、問題なくて・・・その人が実は自我そのことで・・・たとえば、意識のありさまが自我だとしていうことにして了解し・・・自我が完成される。のかもしれません。
No.6996 - 2019/09/29(Sun) 08:54:32

Re: 口笛を吹きながら / hato

虫の声がちょっといい夜です。秋、いい時期ですね。

>考え方や表現は違いますが、この日常を肯定し、全てを受け入れて、目の前の起こったことに対して真摯に一所懸命に取り組み、結果はさほど気にしないという点において、ubik0101さん、hatoさん、勘太郎さんと共通していると思います。
>そして、それが「♫どこまでも行こう。道は果てしなくても、口笛を吹きながら歩いて行こう」ということだと思うのです。



ゆらぎさんは既に、世界は決定されたもの、と観念されていますね。お話しを通して、そこは頑なに死守されているように感じます。そこから世界を確認して、心の安定が生まれてる・・感じがします。

なにか人が安心できる、精神性。宗教でも、信条でも、船を漕ぐオールは、あってもいい。・・けれど、掴んだら手放し、いったん掴んで、手放し、大きく放って・・・どこまでも、行こう。果てしなくとも、・・・それが、探求の有り様です。決定されたなにかに、安堵しない・・できない・・・道はけわしくとも、口笛を吹きながら・・歩いていこう。です。

>変容が起こったということは、そうプログラムされていたということです。

人は、自分から発心、努力します。世界は起こるとして、人も、起こしていく、です。ですので、正しい発心、はとても大切です。世界に意志を発信する、そんなことです。人から閉ざしてしまったら、・・・というよりは、自己を探求しようとした人ならとしか言えませんが、残念なことではないでしょうか。そうでないなら、・・とくに。問題ないのでしょう。

蛙が鳴いてます。すこし、雨が降るのでしょう。

No.6998 - 2019/09/30(Mon) 00:46:49

Re: 口笛を吹きながら / ゆらぎ
ubik0101さん
> たぶん・・・意識のありさまは自我ではなく、世界の構成要素であり、問題なくて・・・その人が実は自我そのことで・・・たとえば、意識のありさまが自我だとしていうことにして了解し・・・自我が完成される。のかもしれません。

自我は、どうなれば完成されたと言えるのでしょうか?


hatoさん
> ゆらぎさんは既に、世界は決定されたもの、と観念されていますね。お話しを通して、そこは頑なに死守されているように感じます。そこから世界を確認して、心の安定が生まれてる・・感じがします。

「ある時点において特定の原子の位置と速度がわかれば、情報を分析することでその原子の未来の運動を予測することができる」、つまり世界が数学的に記述できるということは、ビッグバンの時から世界は決定していることです。決定論を私が肯定し、hatoさんが否定することが起こることが決まっていたということです。
それに、私は「すべきものは何もない」という立場であり、死守するものもなければ、死守する必要もないのです。
そういう類の重荷が、なくなって楽になったのです。

心の安定が生まれているのは、その通りです。
小説にしても映画にしても、そしてRPGにしても、決まっていないものはなにひとつありません。それらが面白く、ワクワクするのは、どう決まっているかを知らないからです。RPGの同じキャラクターを私とhatoさんが操作すると、必ず違うストーリーになるように、決まってはいても多様性はあります。

決まっているなら、あれこれ考える必要もありません。考えると、自分の利益に目が行き、自分のやりたかったことと違う方向に行ってしまいます。
「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。

> なにか人が安心できる、精神性。宗教でも、信条でも、船を漕ぐオールは、あってもいい。・・けれど、掴んだら手放し、いったん掴んで、手放し、大きく放って・・・どこまでも、行こう。果てしなくとも、・・・それが、探求の有り様です。決定されたなにかに、安堵しない・・できない・・・道はけわしくとも、口笛を吹きながら・・歩いていこう。です。

私には、hatoさんの方が「成長したい」「成長しなければならない」という重荷を手放していないように見えます。

> 人は、自分から発心、努力します。世界は起こるとして、人も、起こしていく、です。ですので、正しい発心、はとても大切です。

発心も自分が起こしているのではなく、起こっています。
全てのものを比較検討し、決めたのではありません。
自分の心に浮かんで来たものしか、選択出来ません。
そして、それは自分という自我の特性から選択が起こっているのであり、正しいも間違いもないのです。

No.6999 - 2019/09/30(Mon) 06:14:28

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
自我は虚構です。世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識によって作られる、仮の自己です。その中心は、ない、です。ない、が、どうなる、こうなる。というのではないです。

そこで、たとえば。初めから、ない、のだから、そのままでいいいんだよ。という意見も成立します。それはそれで、そう言い得ることができるのですし、そうありえることができるのですから、そんな世界なので、そのことに何の問題も見いだせません。もっと簡単に言うと、いろんな人がいるね、です。

こちらも、いろんな人のひとりです。たとえばですが・・・学ぶことはない、そのままでいい、悟りはない・・・それは、自己の言うことではなく、世界の構成要素の言うことであり、自我の言うことです。と、言います。

どんな世界観、意見だって、それに突っ込むことはできるでしょうし、また逆、それが間違ってないという、理由も説明も、そうできなくても、ただ言い張ることもできるのではないでしょうか。誰と誰であれ、意見の違いで対立しても、しかたないでしょう。

ここで探ろうとしてることがあります。なにか体験が起こります。瞬間的な、突然の成長、変化に思えます。そして一方、なにも変わらない、ということも言えるかもしれません。

どっちでもない、です。どっちでも、間尺に合わない、整合性がないのです。この掲示板の表題ですが・・・世界は触媒、です。まあ、このことを上手く言えたらいい・・・ぼつぼつ探っているのです。

No.7000 - 2019/09/30(Mon) 07:08:47

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
うまく言えるかどうか、説明してみます。

あくまで喩えですが、交通事故を起こした。それは車の性能、交通状況、いろいろあるでしょう。でも一般的には、運転者が、問題です。私は車を運転しない、私の乗ってるのは自動運転だから、私には問題ない、でもいいのですが・・・順列組み合わせで、車が問題、人が問題、ともに問題。ともに完璧・・・ともに完璧、なら事故は起きないかもしれません。それ以外は事故になる可能性があるでしょう。

実際には事故が起きても心理的な問題にする必要は無いです。病気、不愉快な出来事、できるだけのことをやればいいだけです。そうなのですが、完璧な人が、この世界に生まれるでしょうか?人が自我でなくて、この世界に生まれるでしょうか?また逆に世界が不完全でないなら、なにか人が暮らす必要があるでしょうか?人/世界、ともに完璧なら、それはある意味シュミレーション世界かもしれません。

解脱とは喩えではないです。この世界から解かれて、この世界を解いて、脱することです。それには世界の総ての活動が必要、ということです。病気も健康も、貧乏も、善悪も、怠惰も努力も、総てが活動してるから、総ての光の色が重なると透明なように、世界は透明。そんな構成要素の活動で、それ事態は変わらない、けど、あれかこれかどれかではなく、総活動で・・・違うかもしれませんが、仏教では、無字、隻手と言われてることかもしれませんが・・・世界は人を覚醒させる触媒です。

No.7001 - 2019/09/30(Mon) 18:36:26

Re: 僭越ではありますが、触媒をてこ / 勘太郎
バネ・不満の圧縮・鍵の無い金庫と言い換えてみました。
、鼻先にぶら下がった人参を追いかける馬が走り廻る馬場・絵が描かれていない透明の字で書かれているレシピ本の図書館。(「「@:又猫が足で打ちました)

 昨日はにんにくを植えました。食べるのはそんなにすきではありませんけれども、ニンニクを縛って干してある風景が好きです。
 砂糖漬けにしたニンニクがそろそろ食べられるかもしれません。

No.7002 - 2019/09/30(Mon) 20:49:03

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
こちら、にんにくは不可欠です。とくにパスタ・・・フライパンを使って、サラダオイルで刻みニンニクを軽く焦がして、そこに固めに茹でたパスタを投入します。さらに、おたま一杯(二人分なら、おたま二杯)の茹で汁を加えて、昆布茶(コンソメなどでも可)、サラダオイルまたはオリーブオイルを回し掛け加熱しながら・・・菜箸などで素早く掻き混ぜ、とろとろに乳化させます。これだけで美味。アラビアータ、イカスミソース、トマトレモンソースなどで供します。

ニンニクは水に浸けると皮が剥きやすいことを発見しました。ニンニクの砂糖漬け、それは初めて聞きました。

No.7003 - 2019/09/30(Mon) 22:20:30

Re: 口笛を吹きながら / hato

さあ!相容れないことがあるとしても、なぜかここで出会って分かち合う、それがいい、て思います。

変化、変容、成長、は自分には、既に必然で害もない、・・どちらかといえば、世界でそれを生きるための、ある種体力作りのような、人生そのものが負荷であり、ちょっと楽しみ、との感じです。

自分は、世界は起こり、・・人は起こす、・・という、その未知を生きる、です。

涼しい秋の夜長。仕事をしたり、お茶を飲み、2人ともゆっくり過ごしてます。こちら、うちの2描です。

No.7004 - 2019/10/01(Tue) 01:21:44

Re: 口笛を吹きながら / 勘太郎
おいらの段階でも、心探しは、どんどん進むように感じられます。加速度的に深まっている様に感じます。ベルトコンベアの上で走っている様なもので進んでいないのかもしれません。
 ではあっても、どこまでも行こうです。

 ニンニクの砂糖漬け
本当ははちみつ漬けです。はちみつと称して売っている水飴に浸けて66666666666666みました。はじめ浮かんでいたニンニクが沈んできましたので、そろそろ食べてみます。

No.7005 - 2019/10/01(Tue) 15:19:06

Re: 口笛を吹きながら / hato

66666666666666・・・も猫っちの仕業なのでしょうか。勘太郎さんのそばにいるのが、嬉しいんでしょうね。

ニンニクの蜂蜜漬け、贅沢な漬物ですね、とっても美味しそうです。ニンニク、なかなかいい値段ですが、よく使います。黒ニンニクを、使わなくなった炊飯器で(一カ月くらい保温するらしいですね、、)、見た目も臭いも凄いけど、美味しくて身体にいいといって、この辺りの人たちは自分で作るという話をよく聞きます。

爽やかな季節に入って、庭に曼珠沙華が咲き乱れてます。スズメバチがまだ多く、猫の庭散歩は注意してます。

No.7006 - 2019/10/01(Tue) 21:01:33

Re: ゆらぎさんの感じ方は運命決定論 / 勘太郎
 の様におもえるのです。違いはありますか?

 猫に子供が産まれました。
2匹。あづかりねこ、獣医さんで保護後の健康診断で妊娠が疑われたので、経過観察の結果。お腹が膨らみ。ご懐妊!!!!

 おとつい2匹産まれて、最初は親猫があまり授乳行為をしなかったので、おいらが、昨日乳首に子猫の口をあてがい、親猫が動かない様に撫で続けた結果授乳の仕方が解かったようで、落ち着いて子育てしているという感じです。

子猫の1匹の貰い手は決まっています。クリスマスころまで家で育てて、引き渡し。
今は猫がぶーむですから、貰い手はすぐに見つかるでしょう。

No.7007 - 2019/10/04(Fri) 13:22:41

ほかの誰かのことを考えても空想ですが、 / ubik0101
ああでもないこうでもない、あああればいいこうあればいいという、いわゆる心理的思考は、空想の因果関係ではないでしょうか。

そこで、運命が決まってるなら、ほかの道筋はないのですから、もともと悩みようがないでしょう。

シミュレーション仮説を方便として、空想の因果関係を打ち消した、脱した。ということかもしれません。

たとえば・・・塩の味がなぜ塩の味なのか?そもそも味がなぜ味なのか?見えるということは、考えるということは?それはなぜそれ?感情が、意識が、素粒子が、重力が、自我が、自己が、神が、なぜそれなのか?・・・知らない・・・答えは簡単、そう設定されてるからだ。あるいは、世界はこの瞬間に開闢した。とかも、それだけなら、なにも破綻はないと思います。でも、それだけだとリアリティがないかもしれません。

しかし。気づいてる意識、自分は、設定されてないと特例にすると、その世界観が分裂し真実味を帯びるけど、複雑になるようです。

ところで。運命が決まってなければ悩む?と言えば、まったく悩まないです。決まってても、悩む必要がないです。たとえば人間関係と、なにか不快なことと、悩みが、因果関係にある必然はないのです。たぶん因果には、物事が決まってるも、決まってないも、共に問題外でしょう。

ところで貧乏、病気、過去の出来事、未来の出来事とか・・・状況は変わらなくてもその同じことに悩んだり悩まなくなることもあるでしょう。ということは問題は、状況、出来事、世界にあるのではなく、その人の変化・・・それは透明で見えないけど・・・ということも考えられます。

しかし、ここで、自分が変わった、変わらない、どちらを掴むのも、NGと思います。悩まないことに理由は不要です。

No.7008 - 2019/10/05(Sat) 18:53:26

Re: 口笛を吹きながら / hato

運命決定論、初めて少しだけ調べました。自然科学者の間でも、論議が分かれているのですね。

そうとして、既に仮である仮説を以て、空想の因果を脱する?、・・・ことが、本来的に可能かはわからないと思います。起きてくる、思考や想念、感覚、現象、それをその人、足ることにしているその「人」がいての世界として、その世界(感覚、思考、・・現象・・)も、その人がそうある故にそのような世界とも言えるかも知れません。

また、そうでない、そもそも「人」などない、・・にただ偏向、であれば、なにか脱する必要もないでしょうが、実際人は、そのようなものではないと思います。

なにか絶対的な安心を与える信念、この意味での科学、宗教、信条・・・は、なにか保護膜のような・・感じになるのかな・・と思いました。

ご懐妊で2描増えてる!?可愛いでしょうが、大変ですね。勘太郎さんご家族の情の深さに、脱帽です。

No.7009 - 2019/10/05(Sat) 21:53:34

Re: 口笛を吹きながら / ゆらぎ
仕事が忙しくて、暫くお休みしておりました。

勘太郎さん
> ゆらぎさんの感じ方は運命決定論の様におもえるのです。違いはありますか?

運命論と決定論は定義に若干の違いはありますが、同じようなものですね。
シミュレーション仮説もシミュレーションされているのですから、決定論と同じでしょう。
しかし、決定論も非決定論も、どちらも、未来を知ることが出来ないのですから、生きることにおいては同じです。決まっているなんて面白くないと思っても、予測不能ですから、日々はドキドキ・ワクワクの冒険の連続であり、結構面白いです。
また、決まっているということは自由意志が無いということだから、自分に責任はない。だったら、悪いことでも何でもやってやる!と息巻いてみても、悲しいかなそんな思いは浮かんできません。これまでのように、真面目に生きるだけです。(笑)

ubik0101さん
> シミュレーション仮説を方便として、空想の因果関係を打ち消した、脱した。ということかもしれません。

確かにそうですね。あーだ、こーだ考えなくなりました。
今は、直感に従って素直に行動するだけです。
私の場合は、シミュレーション仮説を方便としてというより、自由意志が無いことが腑に落ちたから考えなくなったということです。

> 答えは簡単、そう設定されてるからだ。あるいは、世界はこの瞬間に開闢した。とかも、それだけなら、なにも破綻はないと思います。でも、それだけだとリアリティがないかもしれません。

自性が無いとした時点で、リアリティはありません。

> ところで。運命が決まってなければ悩む?と言えば、まったく悩まないです。決まってても、悩む必要がないです。

自分の意志で運命が決まるのであれば、悩む人もいるでしょう。
逆に、決定論を支持する人でも、悩む人はいるでしょう。

> ところで貧乏、病気、過去の出来事、未来の出来事とか・・・状況は変わらなくてもその同じことに悩んだり悩まなくなることもあるでしょう。ということは問題は、状況、出来事、世界にあるのではなく、その人の変化・・・それは透明で見えないけど・・・ということも考えられます。

その人の変化は、その人に何かがインプットされて内部処理が行われ、変化したのだと思います。そして、そのインプットは、状況、出来事によってもたらされたのだと思います。

hatoさん
> 運命決定論、初めて少しだけ調べました。自然科学者の間でも、論議が分かれているのですね。

不確定性原理をもって決定されていないとする人もいますが、観測されている時には、粒子性を示すということが確定しているのです。それが、シミュレーション仮説の根拠にもなっています。

> また、そうでない、そもそも「人」などない、・・にただ偏向、であれば、なにか脱する必要もないでしょうが、実際人は、そのようなものではないと思います。

それは、偏向ではないです。
自我は仮想であるとしていますが、真我を否定している訳ではありません。
私は、「人」を自我と定義しています。
ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?

> なにか絶対的な安心を与える信念、この意味での科学、宗教、信条・・・は、なにか保護膜のような・・感じになるのかな・・と思いました。

絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。
ですから、仮説としているのです。

No.7010 - 2019/10/06(Sun) 06:23:09

Re: 口笛を吹きながら / 勘太郎
スマホから初めての投稿です。
自由意志とは、今のありように載って、不満が無いこと。
自由意志があると言っても、無いと言っても同じ結果
時間が無いと、そうなるのでしょうが、おらには解りません。

世界は、べた.のっぺらぼうで、同時にすべての体験がある。その中をブラウン運動、花粉が電子に押し飛ばされて勝手に動く、のように自由に動いているのかなあ?

No.7011 - 2019/10/06(Sun) 18:54:27

Re: 口笛を吹きながら / ubik0101
>確かにそうですね。あーだ、こーだ考えなくなりました。
>今は、直感に従って素直に行動するだけです。
>私の場合は、シミュレーション仮説を方便としてというより、自由意志が無いことが>腑に落ちたから考えなくなったということです。


もしかして自由意志がないということは、自分の意志は自分で決められない、変えられない、という意味でしょうか?それなら、因果のままにというより、因果として生きる私。ということでしょうか?それなら、誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています。

また、この世界では、自由は不自由として現れる、です。こいうこと、あいうこと個別のことは不自由でしかない、それは、自由の現れだ、不自由が自由の証明だ。ということです。笑うこと、泣くこと、それはそれでしかないので、不自由だ、なんですが、そのことが自由の証明。ということです。

>自性が無いとした時点で、リアリティはありません。

ここは世界は、この瞬間に開闢したということが自性のあるないということではなく、世界と違う要素。その世界を見てる、その世界と分離した自分との関係がないと・・・その世界観に、リアリティがないという意味です。

> 自分の意志で運命が決まるのであれば、悩む人もいるでしょう。
> 逆に、決定論を支持する人でも、悩む人はいるでしょう。


たとえ運命が決まってても、決まってなくても悩まないというのは、誰かのことを話してるのではなく、私はこうだよ。ということです。おそらく赤ちゃんは悩まないでしょう。でも悩む可能性があった・・・

・・・そして悩まなくなった。悩む可能性もなくなった。架空の因果関係は、架空の人間関係です。その人が1人あれば、そもそも葛藤になる思考とかは知覚されないです。人が変わったと言っては違うし、変わらないとしても違うでしょう。

> その人の変化は、その人に何かがインプットされて内部処理が行われ、変化したのだと思います。そして、そのインプットは、状況、出来事によってもたらされたのだと思います。

なんにしても誰であれ、その人がいないと、変化するだろうと変化しないだろうと、そんなことは起きないでしょう。人と世界の共同作業ということです。分離と全体の共同作業とも言えます。変わる変わらないでもないその人は知覚され得ない、です。

No.7012 - 2019/10/06(Sun) 20:45:40