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記事No.7019に関するスレッドです

(No Subject) / hato

ゆらぎさん、こんにちは。テレビなど見ていて大した夜中ですが、こんにちは。の感じです。👀


>不確定性原理をもって決定されていないとする人もいますが、観測されている時には、粒子性を示すということが確定しているのです。それが、シミュレーション仮説の根拠にもなっています。


難しいことはわかりませんが、誰であれ、人が観測して物理学は成立しているのですね。人の意図が影響しているかも知れない結果を根拠にできるのでしょうか?とりあえず、物理あたりですと、そうせざるを得ないわけですね。自分はその辺り、脳がついていかないお陰で、とり憑かれずに済んでいる状況です。


>私は、「人」を自我と定義しています。
>ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?



人というのは、この、不可思議です。自分はこの場合、人間とはいいません。


> 絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。ですから、仮説としているのです。


というよりは、たとえ仮説であれ、人がそれを信用していればそのようになりやすいとして、どちらかといえばこの場合は、仮説が真実を隠していると言えるでしょうね。


>決まっているなら、あれこれ考える必要もありません。考えると、自分の利益に目が行き、自分のやりたかったことと違う方向に行ってしまいます。


いずれにしろ、ここでゆらぎさんが言われる状態が、「考えると自分の利益に目が行くような・・」、そのために、「やりたいこととの葛藤が起きる・・」自我、であるとするなら、成長(変容)は、自然な成り行きでしょう。と思いますね。ふつうはそうです。

真偽不明な仮説を用いてまで、その自我を守ろうとされてる、それはいったいなんでしょう。ということですね。


>「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。

とはいえ、ゆらぎさんは、強い信念に従ってご自身を律して、お仕事やその日常を、精一杯努められていられるのでは、と思います。伝わります。ゆらぎさんのお仕事で、助けられる方が多くいらっしゃるのでしょう。

No.7013 - 2019/10/07(Mon) 01:01:40

Re: / ゆらぎ
ubik0101
> もしかして自由意志がないということは、自分の意志は自分で決められない、変えられない、という意味でしょうか?それなら、因果のままにというより、因果として生きる私。ということでしょうか?それなら、誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています。

自由意志がないということは、そういうことです。
誰かと挨拶する、しない、確かに選択肢はいろいろありますが、選べるのはひとつだけです。
変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。

> また、この世界では、自由は不自由として現れる、です。こいうこと、あいうこと個別のことは不自由でしかない、それは、自由の現れだ、不自由が自由の証明だ。ということです。笑うこと、泣くこと、それはそれでしかないので、不自由だ、なんですが、そのことが自由の証明。ということです。

ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。

> ここは世界は、この瞬間に開闢したということが自性のあるないということではなく、世界と違う要素。その世界を見てる、その世界と分離した自分との関係がないと・・・その世界観に、リアリティがないという意味です。

全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?

> たとえ運命が決まってても、決まってなくても悩まないというのは、誰かのことを話してるのではなく、私はこうだよ。ということです。おそらく赤ちゃんは悩まないでしょう。でも悩む可能性があった・・・

それは承知していますし、私も悩まなくなりました。
一般論として、人が悩むのは、それが自我の特性だからということを言いたかったのです。

> なんにしても誰であれ、その人がいないと、変化するだろうと変化しないだろうと、そんなことは起きないでしょう。人と世界の共同作業ということです。分離と全体の共同作業とも言えます。変わる変わらないでもないその人は知覚され得ない、です。

全ては、その人の中で起きているのかもしれません。

hatoさん
> 難しいことはわかりませんが、誰であれ、人が観測して物理学は成立しているのですね。人の意図が影響しているかも知れない結果を根拠にできるのでしょうか?

人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。

> >私は、「人」を自我と定義しています。
> >ここが違っていると論議にならないのですが、hatoさんの「人」の定義は何でしょうか?
> 人というのは、この、不可思議です。自分はこの場合、人間とはいいません。


つまり、「本来の自己」ということですね。
そうなると、範囲が広すぎて話が噛み合わなくなるのも理解出来ました。

> > 絶対だと位置づけることにより、保護膜となって真実を隠してしまいます。ですから、仮説としているのです。
> というよりは、たとえ仮説であれ、人がそれを信用していればそのようになりやすいとして、どちらかといえばこの場合は、仮説が真実を隠していると言えるでしょうね。


信用していればそうでしょうが、信用なんかしていませんよ。
基本スタンスは、「形而上的なことは分からない」です。
シミュレーション仮説は、どんな哲学や宗教よりも私にとって合理的なので、そうかもしれないと思っているだけです。このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。

> いずれにしろ、ここでゆらぎさんが言われる状態が、「考えると自分の利益に目が行くような・・」、そのために、「やりたいこととの葛藤が起きる・・」自我、であるとするなら、成長(変容)は、自然な成り行きでしょう。と思いますね。ふつうはそうです。

自我は変容すると思いますよ。

> 真偽不明な仮説を用いてまで、その自我を守ろうとされてる、それはいったいなんでしょう。ということですね。

自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。
自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。
私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。
ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。

> とはいえ、ゆらぎさんは、強い信念に従ってご自身を律して、お仕事やその日常を、精一杯努められていられるのでは、と思います。伝わります。ゆらぎさんのお仕事で、助けられる方が多くいらっしゃるのでしょう。

律するというより、家庭でも会社でも、その人がやりたいことを出来る限りサポートしようと思っています。そういうことが起こっているということです。

No.7014 - 2019/10/07(Mon) 07:22:09

Re: / ubik0101
>変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。

なら、どちらかに断定することはできないのでしょう?これまでの主張は、どうなりました?

>ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。

それは何も説明なしでしょう?こちらが言ってことは、こちらが、こう、であることを、こうと、そこで言い得ることは隠さず言っています。

>全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?

これまでのことを説明しますと・・・生まれてこの方変わらない意識があるということが、そのシミュレーション世界観との分離ではないか?特例ではないか?と言ってるのです。

つまり・・・ゆらぎさん自身が・・・総てが関係してる、無関係でないとするなら・・・世界と意識も、おなじ成り立ちでなくては、変かな?と思うのです。

つまりプログラムされて幻のように起こってる事象、それに気づいてるプログラムされてない意識。これは分離であり、これの主張はできないのでは?

一般的に、全ては関係しており、無関係ということはない。ということは言えますが、ここで話してることと違うテーマで話されて、意味のすり替えが起きてるような気がします。

>全ては、その人の中で起きているのかもしれません。

これも説明しますと・・・これは、世界が勝手に起きてるだけ、という意見に対して、人と世界の共同作業だよ、と言ったのですが、今度は、総てがその人の中で起きてるのかもしれないとなったので。

おそらく全体の印象ですが・・・ゆらぎさんは、シミュレーション仮説というより、独我論に近いのでは?

No.7015 - 2019/10/07(Mon) 08:36:16

Re: / ゆらぎ
ubik0101さん
> >変えているのか、そうなっていたのかは、区別がつきません。
> なら、どちらかに断定することはできないのでしょう?これまでの主張は、どうなりました?


ubik0101さんが「誰かと挨拶する、しないだけでも、人は世界の運行を変えています」と言われたので、何故そのように断定できるのですか?という意味で書きました。
勿論、私は変えているのではなく起こっていると思っていますが、これも断定することは出来ません。いちいち「思っています」を付けるのが面倒なので、省いているだけです。
「形而上のことは分からない」が私のスタンスです。

> >ですから、私は自由意志が無いことが腑に落ちて、自由になったと何度も申し上げています。
> それは何も説明なしでしょう?こちらが言ってことは、こちらが、こう、であることを、こうと、そこで言い得ることは隠さず言っています。


9/30にも以下の通り説明しています。
何年か前にお邪魔したときも、説明したと思うのですが・・。
「何をやってもいい」と言っても、自由にできることはありません。自分の信念に従って選択することしか出来ないのですから、悩む必要が無くなりました。選択に悩む必要が無くなったので、逆に自由になったのです。

> >全ては関係しており、無関係ということはないと思いますが?
> これまでのことを説明しますと・・・生まれてこの方変わらない意識があるということが、そのシミュレーション世界観との分離ではないか?特例ではないか?と言ってるのです。


シミュレーション世界というのはこの現象界であり、現象界は変化する世界ですから、生まれてこの方変わらない意識と分離しています。

> つまり・・・ゆらぎさん自身が・・・総てが関係してる、無関係でないとするなら・・・世界と意識も、おなじ成り立ちでなくては、変かな?と思うのです。

なぜ変なのかが分かりません。

> つまりプログラムされて幻のように起こってる事象、それに気づいてるプログラムされてない意識。これは分離であり、これの主張はできないのでは?

分離していても無関係ということは無いと思いますが?
起こっていることに気づいているということは、関係しているということです。

> 一般的に、全ては関係しており、無関係ということはない。ということは言えますが、ここで話してることと違うテーマで話されて、意味のすり替えが起きてるような気がします。

具体的にどのようなすり替えが起きているのでしょうか?

> >全ては、その人の中で起きているのかもしれません。
> これも説明しますと・・・これは、世界が勝手に起きてるだけ、という意見に対して、人と世界の共同作業だよ、と言ったのですが、今度は、総てがその人の中で起きてるのかもしれないとなったので。


人と世界と双方に自由意志があれば、共同作業と呼べるでしょう。
私は、どちらにも自由意志が無いと思っていますので、起きているという立場を取ります。人というのは自我というアプリケーションと考えており、自我である自分は世界の中に存在しているとプログラムされていますが、実は世界が自分である自我というアプリケーションの一部かもしれないということです。

> おそらく全体の印象ですが・・・ゆらぎさんは、シミュレーション仮説というより、独我論に近いのでは?

「真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎない」とする立場を独我論とするならば、違うと思います。
自我は実在ではなく幻想だと思っていますから。
しかし、現象界において、自我は恐らくそのように(独我論に似たシステムに)プログラムされているかもしれません。

No.7016 - 2019/10/07(Mon) 21:26:10

Re: / hato

秋の夜長。休みも2日目となると、夜更かしは、早起きのようなものです。ubik0101さんも、新しく買った、高枝切鋏みの袋をしょって、「これ、長い釣り竿入れに使えるな、」と喜んだりしています。

>人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。

人が観測して、物理学 は成立していますよ。いずれにしても、世界を見ることですら、人は世界に関与しています。ゆらぎさんのお話しだけでも、十分にそれがわかります。

>つまり、「本来の自己」ということですね。
>そうなると、範囲が広すぎて話が噛み合わなくなるのも理解出来ました。


人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。

>信用していればそうでしょうが、信用なんかしていませんよ。基本スタンスは、「形而上的なことは分からない」です。シミュレーション仮説は、どんな哲学や宗教よりも私にとって合理的なので、そうかもしれないと思っているだけです。

合理的と思えるほど、信用されていたのでしょう。それを以て、自由意志がない、と腑に落ちられたのですからね。それはおいておくとして、

>このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。

いつか響くといいと思うのですが、ここは不可逆です。破たんは明らかです。人、その不可思議ということを、現象的、物理的観測の見地から、網羅するとの意味で、得ることは、不可能です。というより、そこに意義がないだけです。もちろんこれは、自己探求の上での話です。よく自己を見据えていれば、わかると思います。

>自我を守るというのは、自我がそうプログラムされているからです。自我は幻想であり、「本来の自己」とは異なります。私はそれに気が付いたので、自我に何が起きるか、見守っている状態です。ですから、感情は動きますが、悩まなくなったのです。


ゆらぎさんはおそらく、なにか利己的に働こうとする作用を、自我としてみていらっしゃるということですね。そうした衝動を、行動に起こさずやり過ごす、ということですね。として、じつはその、見守ってる状態のほうが、問題。ではないでしょうか?

まず自我は、ちょっとある、・・一部ある、・・というものではなく、その自我ならば、人が、自我です。ここで言うところの、変容の可能性を秘めてる、自我です。

その、いずれ変容するであろう自我は、現象として、と敢えて言ってみますが、変容を経て、状態が変わります。自己になるとここでは言っています。はじめの頃、書いたかも知れませんが、

人が生まれて自我が芽生えますと、通常は、「自分があって世界がある・・」という向きを主とした有り方を生きます。そこから変化を経て、「世界が起きて自分が有り、」・・また、「その双方向での有り方、」・・と、何を言ってるか不明かも知れませんが、自我の変容とは、実際はこのような、人としての意識の向きと閾値の変化を言います。とても微妙なところです。

意識のされ方が上記の、一方通行の場合(自我の場合)、意識上に於いての、ある、ない、どちらかに偏ります。これはまだ、不可知に対峙してないからと言えます。この場合はどうしても、理解の内容に、そのことが表れてきます。意識が捉えられない、未知に根差していないことが表れるのです。

また、或いは。認識されず、変容を(程度は別にしても)経験されていることがあります。これはすこし困難です。意識がそのことを学んでいないために、おかしな状態、理解になってしまう、妙な信仰に入ってしまう、人がいます。そうであれば、ここは一歩一歩、真実を理解する意志を持って進む、必要があると思います。でないととても、混乱した人生になります。

意識は、そのことを理解するまでに時間がかかります。なにか別のことに意識が捕らわれることも、多くあるかも知れません。大変に微妙で、困難なところでもあると思います。

人の状態はさまざまにあるようで、一概には言えません。それでも、もし人が、「正しい悪いはない・・・」との理解で済ませてしまうなら、もしかしたら、チャレンジしてみるのは、いいかも知れません。善悪どちらか・・・でない、善い。こんな表現もできます。そのことを経験されていても、理解されていなければ、健全に生きるのは困難です。なので、経験の有無、いずれにしても、口笛を吹いてさあ、進もう!という・・

これはチャレンジ、と思います。

No.7017 - 2019/10/08(Tue) 03:37:41

Re: / ubik0101
なんであれ、起こってる事象も、自我も、真我も、神も、ない、ということも、だだ気づいてる意識が自分、ということも、そう設定されてるのだ。ということなら、その世界観に破綻はないと思うのです。気づいてる意識も、それを自分で変えるという意味では自由にはならないのでしょう?

そこで、シミュレーション仮説で、その設定者は不在、ない、としたら、不整合でしょうか?これはこれで、どこにも拠り所がなく、面白いように感じます。また、その設定者は、実在、ある、というより、その解き解れ・・・もちろん説明概念です・・・わりと世界の現状に近いように思います。

ずーと、ずーと昔。黒幕がいて政治家を操ってるかもしれないと思い勝手に憤慨しました。でも、なんだ、そうじゃなくて・・・ただ人が愚か(失礼)なだけなんだ。それがこの混迷の現状なんだ。そう気がついて、スッキリし、思想とか主義、そんなことに興味を失いました。

たとえば挨拶するだけで・・・とは、形而上なことではなく、具体的なことに思います。それで人間関係が変化し、不仲になり、また誰かの捨てたタバコの火で山火事になったりします。これも、ただ起きてると言えば、起きてることなのでしょう。人が起こしてると言えば、そうなのでしょう。どうして同じことが解釈が分かれるのでしょう。責任の所在でしょうか?

また繰り返しますが・・・なにか起こった事実を二度見してるように思えます。そして、ああこれは、そう決定されていたから起きたのだ。と判断してるのではないでしょうか。これも繰り返しますが・・・そして、その思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。

というのも、二度見しないと、いかなる世界観も起きないです。この世界は現象界とします。すると、自由意志はあるでもないでもない、というのが普通と思います。プログラムされても、されてないでもない・・・なんでもありなんですが、それでもある程度の秩序はある。見える聞こえる思考できる・・・不思議です。

そいえばユーチューブで、私は悟った。だから仏陀だ。世界は1つしかない。ほかのこととの比較ができない。だから世界は空だ。とか言ってるのがありました。自性を空だ、と言ってるようにも思えますが・・・いくたの世界観があり得るというのは、なんか世界の透明性を感じます。いかなる個別の世界観がないというのが、自分にとっては簡単で美しいのです。

ところで、素粒子の振る舞いは、観察されるまで分からない・・・観察されるされないで、変わるとします。この場合、観察者は観察されるのでしょうか?観察者とは何?それが問題にされないと、なんか研究のような気がしないのです。これは物理学?ではどう考えられてるか、知っていますか?

全ては関係しており、無関係ということはない・・・と言っても、ただ気づいてる意識は、シミュレーションされてない・・・とかのテーマで話してたのですから・・・シミュレーション仮説でなくても、ふつうに事象に気づいてる意識は全ては関係しており、無関係ではない、でしょうから、シミュレーション仮説とは関係ない話を持ちだした?と感じました。

いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。

No.7018 - 2019/10/08(Tue) 06:30:23

Re: 二度見と / 勘太郎
思考も起きるように起きてるだけ・・・ということは思考を二度見してませんか?・・こちらは、その意識がなくて、思考したり働いたりしています。

> というのも、二度見しないと、いかなる世界観も起きないです。
二度見とは、自分の心を振り返って眺めることでしょうか。
ふむふむ・・・。おらの日常です。
これをしないで、おくと無思考になりますと書いたけれども、この無思考になると解ることは、すでに二度見しています。  ああ、さてどうしたものか・・・・。です。

無思考を探るっているのが、おら。2枚向き合った鏡の中心で鏡を眺める自分。自分の鼻先に結んだ人参を追いかける馬。


> いろんな定義がありでしょうが、自我には自性がないのに、自性があると見なすのが、独我論とも言えると思います。

自性がない=シュミレーションとも感じられます・・・
自性がないから、自由意志で動き成り行き任せ。出たとこ勝負。シュミレーションではなく、でたらめーしよん、とも思えます。

カボチャの出来が悪かったです。100個以上採れる計画が20個くらいでしょうか?それでもほくほくして美味しいです。トウモロコシは、昔の品種で8列キビ。馬に食べさせたので馬キビとも言います。いまのところ害獣にも捕られずなんとか収穫できています。それだけ美味しくないということなんでしょう。粒を剥がして煮て昔の人の生活をしのんでみたいと思っています。本来は粉にしてたべるのでしょう。

No.7019 - 2019/10/08(Tue) 15:37:21

Re: / ubik0101
そうです。二度見しなければ即今もないです。即今も説明概念です。無思考もないです。あたりまえの日常です。これが神秘です。その神秘もなくて、万歳です。どうしても合わせ鏡にはならないのですが、なるとすれば、自分の根拠が自分ではないからかもしれません。自分が自分に距離があるかもしれません。

おなじことですが、自分が自分の根拠、背景なら、自分は自分で知覚されないので、私はない、です。私がないということは、私が私であるということです。この世界の背景、基底は私です。その基底がない、です。世界が、森羅万象が虚空に浮いてる感覚です。もちろん、これもなくても、万歳。見てる聞いてる話してる普通の日常がそうです。

こんな細いトウモロコシは初めて見ます。かぼちゃ、適当な大きさに切って、鍋に重ならないように皮を下にして並べ、かぼちゃの高さの半分くらいになるように煮汁を加えて蓋をします。着火。ぐつぐつ沸騰を始めたら5分で消火・・・予熱で火を通します。冷めてる間に味がしみます。まったく煮崩れせず、ホクホク感ありです。

No.7020 - 2019/10/08(Tue) 17:53:21

Re: 私は無いで、私は私である。 / 勘太郎
「私は在る」ですかね。

これもなくても、万歳。実ってる聞いてる話してる普通の日常がそうです。・・・これから逆算すると。

 二度見していないで生きて行く、でしょうか。

そうなんです。おいらでも、起きている時間の多くを二度見しないで、過ごしています。あれどうだったと過去を振り返れば、過去は記憶に在りません。情景の記憶はありますけれども、その時の自分の記憶はありません。 後から情景を想像しているだけです。
 自分が無いまま、安心して、暮らして行きます。

 先ほど、禅のページに時間は未来から過去に流れるという方が適正なのではないか」とありました。
過去は未来(現在)により上書きされるから、未来から過去に移動する。理性においてもなっとくできます。毎度おなじみの喩です。今ある人を好きになれば過去未来全て好きになり。気移りして嫌いになれば、全時間共に嫌いになる。

カボチャ今蒸らしています。楽しみ・・・うふふ

No.7021 - 2019/10/08(Tue) 19:48:52

Re: うふふ ・・・美味しく煮えました。 / 勘太郎
 明日のお弁当兼おやつ。

苦しみが無くっなったら、苦しみは無くってないです。忘れてるだけです。二度見しない限り、苦しみは無いと云えないですから。ここには分離がありますから、鈴がなります。

さて、苦しみを無くすには・・・どうしたものか・・・。
眠ったら、無いのですけれども。目が覚めたらまた苦しみます。

              おやすみなさい。

眠るのは楽しみです。

No.7022 - 2019/10/08(Tue) 20:49:03

Re: / ubik0101
こちらも時間は前から後ろです。過去から未来というのは思ったことさえありません。たしか歴史の教科書などでは、古代、近代、現代だったような気がします。それは積み重ねとか、進化、変化、因果の順を説明するためなのでしょうか?そんなことより、これから事実として、どうするか?だけが大事と思います。

そいえば・・・スーフィーでは、たとえば今日、昨日、一昨日、一ヶ月前、一年前、十年前・・・というように現在から順に過去に向って記憶を点検する訓練があると聞いたことがあります。

悩まないのは簡単です。愚かでなくあればいいだけです。というのも、自分が愚かだったから、悩みになるような言動をしてきたのだから、悩んでるのではないでしょうか?その原因がなくなれば、オールクリアです。悟りとか呼ばれる体験が、劇的に効果あります。過去を振り返らない強さも求められるかもしれません。

No.7023 - 2019/10/08(Tue) 23:03:44

Re: / hato

うちの2描です。

No.7024 - 2019/10/08(Tue) 23:23:34

Re: / hato

裏の小さな丘に咲くノアサガオです。夕方にはピンク色に変わります。

No.7025 - 2019/10/08(Tue) 23:25:37

Re: / ゆらぎ
hatoさん
> >人が観測して物理学が成立しているのでなく、観察効果という現象を発見したということです。RPGと同じで、人が見ている場面しかリアルに描かれていないかもしれないということです。もしかすると、触感があるところだけ粒子化されていて、見ているところは波動、つまり色だけで成り立っているのかもしれません。
> 人が観測して、物理学 は成立していますよ。いずれにしても、世界を見ることですら、人は世界に関与しています。ゆらぎさんのお話しだけでも、十分にそれがわかります。


失礼しました。「観測されている時には、粒子性を示す」という話のレスだったので、hatoさんの言われる観測とは観察効果のことだと勘違いしました。物理学が観測により確証を得てきたのは間違いないと思いますが、理論物理学など、最近は観測できないものが主流だと思います。

> 人、という不可思議については、自我・真我、どちらでも。人は人。でいいと思います。

自我と真我は全く違うのですが?
自我は認識出来ますが、真我は認識できません。

> 合理的と思えるほど、信用されていたのでしょう。それを以て、自由意志がない、と腑に落ちられたのですからね。それはおいておくとして、

申し訳ありませんが、全く信用していません。形而上の問題は、「分からない」です。そして、それを以って自由意志が無いことが腑に落ちたのではありません。自由意志が無いことが腑に落ちたのが先です。私の日常からは、問題はあっても苦しみはなくなりましたが、シミュレーション仮説に出会った時には、既にそうなっていました。「自由意志が無い」ということは信じていますよ。自分で認識出来ますから。

> >このように論議していて、破綻が明らかになれば、いつでも捨てます。
> いつか響くといいと思うのですが、ここは不可逆です。破たんは明らかです。人、その不可思議ということを、現象的、物理的観測の見地から、網羅するとの意味で、得ることは、不可能です。というより、そこに意義がないだけです。もちろんこれは、自己探求の上での話です。よく自己を見据えていれば、わかると思います。


何が不可逆なのでしょうか?
どうして、破綻が明らかなのでしょうか?
不可思議であるならば、そもそも得ることなど出来ないのでは?
なぜ、意義がないのでしょうか?
申し訳ありませんが、説明して戴かないと全く分かりません。

時間が無いので、続きは別途とさせて下さい。

No.7030 - 2019/10/10(Thu) 05:59:13

Re: / ゆらぎ
hatoさん

続きです。

> ゆらぎさんはおそらく、なにか利己的に働こうとする作用を、自我としてみていらっしゃるということですね。そうした衝動を、行動に起こさずやり過ごす、ということですね。として、じつはその、見守ってる状態のほうが、問題。ではないでしょうか?

これも全く違います。自我とは、肉体と自然に起こる思考や感情を自己同一化しようとするアプリケーションです。そして、考えるより前に決断するということが起こるようになってからは、衝動もわいて来なくなりましたので、やりすごす必要もなくなりました。見守ることなどせず、どんどん進んで行きます。ですから、hatoさんの言われる問題は起こりようがありません。

> その、いずれ変容するであろう自我は、現象として、と敢えて言ってみますが、変容を経て、状態が変わります。自己になるとここでは言っています。

自我の状態がどう変わると自己になるのでしょうか?


> 人が生まれて自我が芽生えますと、通常は、「自分があって世界がある・・」という向きを主とした有り方を生きます。そこから変化を経て、「世界が起きて自分が有り、」・・また、「その双方向での有り方、」・・と、何を言ってるか不明かも知れませんが、自我の変容とは、実際はこのような、人としての意識の向きと閾値の変化を言います。とても微妙なところです。

意識の向きとは何でしょうか?
閾値とは、何の閾値でしょうか?

> 意識のされ方が上記の、一方通行の場合(自我の場合)、意識上に於いての、ある、ない、どちらかに偏ります。これはまだ、不可知に対峙してないからと言えます。この場合はどうしても、理解の内容に、そのことが表れてきます。意識が捉えられない、未知に根差していないことが表れるのです。

上記の一方通行とは、何を指しているのでしょう?
意識上に於いての、ある、ないの対象は何でしょうか?
なぜ、偏るのでしょうか?
意識が未知に根差すとは、具体的にどういうことでしょうか?

> また、或いは。認識されず、変容を(程度は別にしても)経験されていることがあります。これはすこし困難です。意識がそのことを学んでいないために、おかしな状態、理解になってしまう、妙な信仰に入ってしまう、人がいます。そうであれば、ここは一歩一歩、真実を理解する意志を持って進む、必要があると思います。でないととても、混乱した人生になります。

意識がそのことを学んでいないの、そのこととは何でしょうか?
おかしな状態や理解とは、どんな状態や理解でしょうか?
妙な信仰とは、具体的にどのような信仰でしょうか?
真実を理解する意志を持って進んでも、何が真実か分からないと思いますが?

> 人の状態はさまざまにあるようで、一概には言えません。それでも、もし人が、「正しい悪いはない・・・」との理解で済ませてしまうなら、もしかしたら、チャレンジしてみるのは、いいかも知れません。善悪どちらか・・・でない、善い。こんな表現もできます。そのことを経験されていても、理解されていなければ、健全に生きるのは困難です。なので、経験の有無、いずれにしても、口笛を吹いてさあ、進もう!という・・
> これはチャレンジ、と思います。


健全に生きるということは、どう生きることでしょうか?
私は冒険という言葉を使います。
毎朝、目が覚めれば冒険の始まりです。

質問ばかりで申し訳ありませんが、私はhatoさんの言われることを理解したいのです。以前も書きましたが、今のままでは、全くのお手上げです。

No.7033 - 2019/10/10(Thu) 18:35:27