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記事No.7068に関するスレッドです

続きです / ゆらぎ
> >ですから、「形而上の事は分からない」です。
> シミュレーション仮説では、この世界はリアルではなく、幻なんでしょう?形而上のことは分からないもなにも、ないと思います。シミュレーション仮説では、却って形而上のことが幻ではなく、リアルかもしれません。体験は形而上のことではなく、出来事です。


体験を形而上だとは言っておりませんが?
真我は「時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの」ですから形而上の事と言いました。
「形而上の事は分からない」のですから、幻ともリアルとも断定出来ません。

> >二度見とどんな関係があるのでしょう?
> なにか起きます。そしてこれはプログラムされてるから起きたのだ。と思考で判断して、その起きたことを二度見してませんか?あるいはそこから、その起きたことを証拠にしてシミュレーション仮説を正当化してませんか?ということです。二度見しなければ、どんな世界観も起きません。


最初の質問は「二度見の何が問題なのでしょうか?」です。
思考による解釈や判断が二度見だとのお答えだと思います。最初の質問に戻りますが、二度見の何が問題なのでしょうか?
それに仮説は仮設であって、正当化する必要などありません。私にとって、いろんな問題の説明が最も合理的に出来る説がシミュレーション仮説だというだけです。
私には「自我は幻想である」だけで十分です。シミュレーション仮説は、二次的なものです。

> このように主体と思考が分かれてるということが、プログラムとその製作者という、シミュレーション仮説として投影されて思考されてるのかもしれません。つまりシミュレーション仮説は、その人が分離していることを示している、ケースの一例では?

前にも書きましたが、シミュレーション仮説の対象は現象界のみです。そして、現象界は分離の世界です。というか、全てはひとつのエネルギーですが、心理的なエネルギーと物理的なエネルギーに分離され、物理的なエネルギーからなるこの世界も、超弦→素粒子→原子→分子→細胞→臓器→人間A,人間B・・というように分離されているのであり、分離を否定もしていなければ、悪いとも言っておりません。

> >前述しましたが、根拠はあります。
> まず最初にシミュレーション仮説という結論を立てて、論じて、しかも実証されてないので、根拠でもないと思います。たとえば二重スリット実験は、必ずシミュレーション仮説でないと説明できないというわけではないようです。


全く逆です。
先にシミュレーション仮説を、立てることは出来ません。
先に、ビッグバン、反物質、暗黒物質、量子トンネル、量子もつれ観察効果、速度の限界、時間の伸縮などがあり、それらの全部を説明するための一つの仮説としてシミュレーション仮説が登場したに過ぎません。それらの前にシミュレーション仮説があった訳ではありません。
それに、二重スリット実験(観察効果)をシミュレーション仮説以外で合理的に説明できるものがあれば、是非ご教示下さい。

> >どこが悪夢なのでしょうか?
> ゆらぎさんという真我(自性)は、シミュレーション世界(無自性)の外にいるユーザー、あるいは創造者なのですか?ゆらぎさんが、この世界を操作、あるいは創ってるのですか?私や、hatoさん、勘太郎さん、トランプ大統領は、ゆらぎさん操作、製作の、プログラムだとしたら、悪夢では?


私の想像を遥かに超えていました。
私(ゆらぎ)は自我であり、無自性です。ですから、つくられた側であり、つくった側ではありません。つくった側の真我なる存在があるかもしれませんが、私には分かりません。

> >この体験の何が重要なのでしょうか?
> 重要というより、起こったことを言ってるだけです。体験が起こらなかったら、生まれて・・・損した得した恋をした・・・死ぬだけの人生だった、と思います。それが起こらなければ知りもしなかった人たちに会うこともなく・・・こうして掲示板で話をしたりしています。


私には体験が起こっていませんが、こうして掲示板で話をしたりしています。

> >体験したことにより、ご自身の何がどのように変わったのでしょうか?
> それまで自我と気付かず自我として生きていました。体験は、真我の発現です。自我は死んで消えてしまうでしょう。世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識は使いまわされ、輪廻するでしょう。ない、もなくならないと言えますが、ある、もなくならないです。私がそんな人だというだけです。


自我はCENSOREDば消えるでしょう。しかし、生きている間は、消えないと思います。
「世界の構成要素、物質、知覚、感情、意識」はデータベースのようなものですから、使いまわされるということには同意です。

> >そして、ubik1010さんは、何を目指しているのでしょうか?
> ここがシミュレーション世界でも、因果世界でも、現象界でも、ここに帰らないつもりです。そんなことを聞かれなければ考えませんが・・・行き先は、どいうわけかわかりませんが、実在に還る、そしてその向こう、です。♫口笛を吹きながら、歩いて行こう。ほかの誰かのことは知りません。


実在に還るなら、なぜ実在から出てきたのでしょうか?
「どういうわけかわかりませんが」とのことですが、分からないのになぜ行き先が実在と分かるのでしょうか?
そして、体験によると実在とは何なのでしょうか?

No.7064 - 2019/10/19(Sat) 06:20:11

Re: 続きです / ubik0101
とくに分離は問題ではないです。この世界は、完全な分離も、完全な、ひとつ、もないということです。完全に何かと何かが分離されてると、それは分離としても認識できないでしょう。逆も同じです。問題はそこにはありません。

そのことによって、人が、自他・・・自分と誰か、自分と世界、自分と知覚、自分と感情、自分と意識を分離ではないのに分離と認識して、迷うことです。なので、総てが1つ、ということも同種の迷いです。つまり、分離も、総てが1つも、この世界に依存してるってことです。それが問題です。

この世界がシミュレーションであれ、因果であれ、実在の解き解れ、夢であれ、即今、時間はない・・・総て解釈であり特に問題ではないです。ただ、それに依存する。それを自分の拠り所にする、それを主張する、それが問題だ、ということです。誰であれ、これを問題でないということなら私が、どうすることでもないです。

>私の想像を遥かに超えていました。
>私(ゆらぎ)は自我であり、無自性です。ですから、つくられた側であり、つくった側ではありません。つくった側の真我なる存在があるかもしれませんが、私には分かりません。


ゆらぎさんは、無我だと言っていますか?それを、体験ではなく、どう了解しましたか?私は、自我もなければ、無我もない、と言います。

>そして、体験によると実在とは何なのでしょうか?

私の創造主です。

No.7065 - 2019/10/19(Sat) 07:16:40

Re: 続きです / ubik0101
>実在に還るなら、なぜ実在から出てきたのでしょうか?
>「どういうわけかわかりませんが」とのことですが、分からないのになぜ行き先が実在と分かるのでしょうか?


そうですね。放蕩息子が家に帰るのです。

No.7066 - 2019/10/19(Sat) 08:34:54

Re: 続きです / ゆらぎ
> とくに分離は問題ではないです。この世界は、完全な分離も、完全な、ひとつ、もないということです。完全に何かと何かが分離されてると、それは分離としても認識できないでしょう。逆も同じです。問題はそこにはありません。

例えば、メガネが落ちて左右のレンズが外れました。
左右のレンズは完全に分離であり、分離として認識出来ますが?

> そのことによって、人が、自他・・・自分と誰か、自分と世界、自分と知覚、自分と感情、自分と意識を分離ではないのに分離と認識して、迷うことです。なので、総てが1つ、ということも同種の迷いです。つまり、分離も、総てが1つも、この世界に依存してるってことです。それが問題です。

分離と認識するのが自我の特性であり、迷っていないと思いますが?
迷いとは何でしょうか?
この世界に依存するとはどういうことでしょうか?
そして、なぜそれが問題なのでしょうか?

> この世界がシミュレーションであれ、因果であれ、実在の解き解れ、夢であれ、即今、時間はない・・・総て解釈であり特に問題ではないです。ただ、それに依存する。それを自分の拠り所にする、それを主張する、それが問題だ、ということです。誰であれ、これを問題でないということなら私が、どうすることでもないです。

私の場合は、全く依存していないと思います。
朝が来て、新しい舞台の幕が開いて、さあ今日も頑張ろう!
それだけです。
何も依存するものなどありません。
掲示板なので主張というかたちになるかもしれませんが、それが何故どのように問題なのでしょうか?

> >私の想像を遥かに超えていました。
> >私(ゆらぎ)は自我であり、無自性です。ですから、つくられた側であり、つくった側ではありません。つくった側の真我なる存在があるかもしれませんが、私には分かりません。
> ゆらぎさんは、無我だと言っていますか?それを、体験ではなく、どう了解しましたか?私は、自我もなければ、無我もない、と言います。


無我も無自性も同じですから、無我と言ってもいいのでしょう。私は、無我という言葉は紛らわしいので使いませんが。
前にも書きましたが、思考も感情も自分が起こしているものではない、したがって自我は幻想である。つまり、実体としての自我はない。それを無我と言うのでは?


> >そして、体験によると実在とは何なのでしょうか?
> 私の創造主です。


それは、どのようにして分かったのでしょうか?

> >実在に還るなら、なぜ実在から出てきたのでしょうか?
> >「どういうわけかわかりませんが」とのことですが、分からないのになぜ行き先が実在と分かるのでしょうか?
> そうですね。放蕩息子が家に帰るのです。


なぜ放蕩の旅にでたのですか?
旅の目的は何でしょう?
そして、なぜ帰るのですか?

No.7067 - 2019/10/19(Sat) 13:19:56

Re: ゆらぎさんの書き込みでおいらの服を脱がされている様です / 勘太郎
<、思考も感情も自分が起こしているものではない、したがって自我は幻想である。つまり、実体としての自我はない。それを無我と言うのでは?>

 無我であれば、行きがかりで刺されて殺されてもアハハと笑ってしねますかね?
?@死にたくない気持ちも、私が起こすのではなく、死にたくないと感じる様にできている。
?A自然に発生する死にたくないという希望が、殺されつつある現実と摩擦を起こして、自分が有るという気持ちになる。

たぶん、体験後は、死にたくないという気持ちはおこるけれども、そこに自分が有るという気持ち(殺されると云う行為があり、殺される主体は無我だからありません)が起こりません。そこで死ぬことが楽になる。勘太郎が、覚者の気持ちを想像するとそうなります。
 勘太郎は非覚醒ですから、苦しみます。

もう少しで紅葉です。この時期の色が好きです。手前の枯れた赤い葉はウルシだとおもいます。
朴の木は葉を落とし終わり、新緑の様な樹もあれば、絡みつく葛もあります。どれだけ眺めても飽きる事はありません。

No.7068 - 2019/10/19(Sat) 19:41:17

Re: ゆらぎさんの考えの全体を掴んで感想を書けるとよいのですけども。 / 勘太郎
ひがみでなく、おらは頭が悪いので、部分を取り出してしか、感想が浮かびません。

何度も書いていますけれども、中学2年の時の国語の青柳先生の言葉がいつも頭にありますけれども、全体の把握はなかなかできません。

勘太郎君、カレーライスをジャガイモと勘違いしてはいけないよ。カレーライスの中のジャガイモだけを食べれば、それはジャガイモだ。だけどカレーライスはジャガイモではないだろう」

なかなかカレーライスを味わう事ができません。

No.7069 - 2019/10/19(Sat) 19:53:20

Re: おら / 勘太郎
勘太郎さんも、とても独特と思います。こちら三度見、できないです。見てるおらだけが残るということは、部屋、猫などの対象が消えて、意識だけが残る、ということなのでしょうか。参考になるかもしれません。どこかに投稿した覚えがある、体験談です。
No.7070 - 2019/10/19(Sat) 20:22:40

Re:Re;おらの 続きです / 勘太郎
見てるおらだけが残る。は思考が奥に引っ込んで観察がズームアップされる。という事です。

あいちゃんの踊る姿があり、見てるおいらがある。好きだと云う感情・気持ち・こっち向いての希望が奥に引っ込むという事です。

「踊るあいちゃんが消える」のを覚者は世界は無い、と言うのでしょう。自分の意識だけがある。と書いてあるのを目にします。

No.7071 - 2019/10/19(Sat) 20:30:32

Re: 続きです / ubik0101
>例えば、メガネが落ちて左右のレンズが外れました。
>左右のレンズは完全に分離であり、分離として認識出来ますが?


その壊れる前のメガネも、壊れた後の左右に完全に分離したレンズそれぞれも、人からは、両方とも見えるでしょう。

それが見えるということは、レンズと私が、完全に1つでも、完全に分離されてるわけでもないということです。

その片方のレンズに眼があるとして、そのレンズが見える?あるいは、片方のレンズがここにあって、もひとつのレンズが時空を超えた違う世界にあって、見える?

>分離と認識するのが自我の特性であり、迷っていないと思いますが?

虚構である自我がどうして正しく認識できる?レンズのところで話したように、分離を認識できてません。

>迷いとは何でしょうか?

それは,愚か、ということです。ゆらぎさんとか、私とか、トランプ大統領とか・・・誰か個人ではなく、自我が愚かという意味です。無明。

>この世界に依存するとはどういうことでしょうか?

この世界を、またその起こる事象を、根拠にできないのに、自分の根拠にしようとしてるてことです。この世界は幻と言われるでしょう。移り変わるでしょう。無常でしょう。シミュレーション仮説では、シミュレーション仮説そのことも、現象界にしか適応されない、プログラムでしょう。

それをどうやって、自我でなくて、自分の根拠にすることができるのでしょう。依存とは、依存できないのに、依存しようとしてることです。執着、倒錯とも言います。真我は、どうして執着、倒錯できるでしょう?できたら変です。つまり真我が発現してないと、執着も倒錯も問題ではないです。

>そして、なぜそれが問題なのでしょうか?

とくに問題でないなら、ほかの誰かに、どうこうできることではないです。

>前にも書きましたが、思考も感情も自分が起こしているものではない、したがって自我は幻想である。つまり、実体としての自我はない。それを無我と言うのでは?

それは、そうとも言えます。たとえば自我って、単なる世界の機能です。つまり、自我は無我です。自我の中心は、ない、です。したがって、自我は無我です。これは知的理解です。

>それは、どのようにして分かったのでしょうか?

ラジオで聞いた妙好人の話・・・父親が臨終の床で、親を探せ、と息子に言います。息子は、なぜ親がそんなことを言うのかと思ったそうです。親の親そのまた親は真の親?また息子が知らないでも実は息子は養子なら誰が親?・・・そんなことではなく親とは、私の創造主です。会って親が分からない子供は、親子ではないのでしょう。

>なぜ放蕩の旅にでたのですか?
>旅の目的は何でしょう?
>そして、なぜ帰るのですか?


可愛い子には旅をさせろ、強くなれよ、賢くなれよ、ってことかもしれません。その旅を終えると、息子は故郷に帰るのです。いや、親が息子を、笛や太鼓の、お祭り騒ぎで出迎えるのです。

補足説明です。

なんであれ人が、その愚かであることを守る理由付けも正当性も、あることないこと、いくらでも見つけることができます。そんなこの世界です。それは世界が活動して、自我を育ててるとも言えます。

たとえば、二重スリット実験(観察効果)をシミュレーション仮説以外で合理的に説明できるものがあれば、是非ご教示下さい。とか・・・シミュレーション仮説は分離した人の投影では?という質問を無視するとか・・・どうあっても、自我はその自我を守るでしょう。

これは、その人がやってるのですから、自己責任でもあります・・・この世界は自治区ですから・・・その人にしか、突き崩せないのです。自我、自我と言うと悪者扱いしてるように聞こえるかもしれませんが、自我は種で、芽吹くまでは、どうしても世界あるいはその機能という硬い殻で守るのです。

ゆらぎさん。あるとして、実在と現象界の境を、なくせませんか?それだけかも知れません。

No.7072 - 2019/10/20(Sun) 07:02:32

Re: 続きです / ubik0101
>あいちゃんの踊る姿があり、見てるおいらがある。好きだと云う感情・気持ち・こっち向いての希望が奥に引っ込むという事です。

たとえば映画を見て、ぼう然自失。仕事して、思い出しても一日が10分くらいにしか感じない忘我状態。それは観察者のない観察とは似て非なることで、扉になるかは解らないです。ただ、見えてる聞こえてるということなら、近いです。真我は意識ではないです。

No.7073 - 2019/10/20(Sun) 07:06:00

Re: 続きです / ゆらぎ
> >例えば、メガネが落ちて左右のレンズが外れました。
> >左右のレンズは完全に分離であり、分離として認識出来ますが?
> その壊れる前のメガネも、壊れた後の左右に完全に分離したレンズそれぞれも、人からは、両方とも見えるでしょう。
> それが見えるということは、レンズと私が、完全に1つでも、完全に分離されてるわけでもないということです。


同時には両方見えません。壊れた後には、壊れる前の記憶があるだけです。

> その片方のレンズに眼があるとして、そのレンズが見える?あるいは、片方のレンズがここにあって、もひとつのレンズが時空を超えた違う世界にあって、見える?

これも私への質問ですか?
目は自分の肉体が見えます。肉体をレンズに置き換えれば、レンズは見えます。
もうひとつのレンズは見えないでしょう。
何が仰りたいのでしょうか?

> >分離と認識するのが自我の特性であり、迷っていないと思いますが?
> 虚構である自我がどうして正しく認識できる?レンズのところで話したように、分離を認識できてません。


虚構であるから、正しく認識出来ないのは当たり前だと思いますが?
ただ、前回は「人が、自他・・・自分と誰か、自分と世界、自分と知覚、自分と感情、自分と意識を分離ではないのに分離と認識して、迷うことです」と言われ、今回は分離を認識できませんと言われると、???です。
そして、申し訳ありませんが、レンズの話は意味が分かりません。たぶん、私の答えもubik0101さんから見たら、頓珍漢なのでしょう。
しかし、普通の人は分からないと思いますよ。
勘太郎さん、分かります?

> >迷いとは何でしょうか?
> それは,愚か、ということです。ゆらぎさんとか、私とか、トランプ大統領とか・・・誰か個人ではなく、自我が愚かという意味です。無明。


自我が愚かということには同意です。
しかし、愚かなのは迷う原因であり、迷いそのものではないと思いますが?


> >この世界に依存するとはどういうことでしょうか?
> この世界を、またその起こる事象を、根拠にできないのに、自分の根拠にしようとしてるてことです。この世界は幻と言われるでしょう。移り変わるでしょう。無常でしょう。シミュレーション仮説では、シミュレーション仮説そのことも、現象界にしか適応されない、プログラムでしょう。
> それをどうやって、自我でなくて、自分の根拠にすることができるのでしょう。依存とは、依存できないのに、依存しようとしてることです。執着、倒錯とも言います。真我は、どうして執着、倒錯できるでしょう?できたら変です。つまり真我が発現してないと、執着も倒錯も問題ではないです。


私は、シミュレーション仮説を根拠にしておりませんが?
ましてや、依存などしておりませんが?

> >それは、どのようにして分かったのでしょうか?
> ラジオで聞いた妙好人の話・・・父親が臨終の床で、親を探せ、と息子に言います。息子は、なぜ親がそんなことを言うのかと思ったそうです。親の親そのまた親は真の親?また息子が知らないでも実は息子は養子なら誰が親?・・・そんなことではなく親とは、私の創造主です。会って親が分からない子供は、親子ではないのでしょう。


実在からつくられたということでしょうか?

> >なぜ放蕩の旅にでたのですか?
> >旅の目的は何でしょう?
> >そして、なぜ帰るのですか?
> 可愛い子には旅をさせろ、強くなれよ、賢くなれよ、ってことかもしれません。その旅を終えると、息子は故郷に帰るのです。いや、親が息子を、笛や太鼓の、お祭り騒ぎで出迎えるのです。


強くならなければならない、賢くならなければならないということは、真我は不完全だということですか?なぜ、実在は不完全な真我をつくったのですか?
そして、子は成長すると親と同質になります。猫の子は、やがて猫になります。真我は、やがて実在になるのでしょうか?そして、真我をつくり旅に出すのですか?

> たとえば、二重スリット実験(観察効果)をシミュレーション仮説以外で合理的に説明できるものがあれば、是非ご教示下さい。とか・・・シミュレーション仮説は分離した人の投影では?という質問を無視するとか・・・どうあっても、自我はその自我を守るでしょう。

自我を守る機能は、自我に備わっています。気が付いていない人も多いですが。
しかし、是非ご教示下さいと言ったのは、純粋に知的な好奇心からです。また、「シミュレーション仮説は分離した人の投影では?」というのは、ubik0101さんご自身の想像であり、私への質問とは認識しておりませんでした。私への質問であればお答えしますが、分離した人の投影とは、何を投影しているのでしょうか?それが分からなければ、答えようがありません。

> これは、その人がやってるのですから、自己責任でもあります・・・この世界は自治区ですから・・・その人にしか、突き崩せないのです。自我、自我と言うと悪者扱いしてるように聞こえるかもしれませんが、自我は種で、芽吹くまでは、どうしても世界あるいはその機能という硬い殻で守るのです。

自我が芽吹いて真我に成長するのですか?

> ゆらぎさん。あるとして、実在と現象界の境を、なくせませんか?それだけかも知れません。

あるとしてというのは、何をあるとしてでしょうか?
ubik0101さんの文には主語が省略されていることが多いので、理解が難しく、間違った解釈をしてしまう可能性があります。
私は、やっと現象界についての理解が進んだだけで、実在までは理解が及んでいません。

No.7074 - 2019/10/20(Sun) 16:17:45

Re: 主語が省略されている / 勘太郎
気づきませんでした。
なにかの、意味合い、原因があるのかもしれません。

No.7075 - 2019/10/20(Sun) 17:20:24

Re: 続きです / ubik0101
いわゆる分離も総ては1つも、どっちも、この世界に依存してる。けど、分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できないよ。という話をしてるつもりです。なんにしても、このところ同じテーマで話してるので、以下の返信でも同じことを言っています。


>自我が愚かということには同意です。
>しかし、愚かなのは迷う原因であり、迷いそのものではないと思いますが?


迷う原因があるということは、あるときには迷ってなくても、いつか迷う可能性があるということでしょう。その迷う可能性もなくなったところから見たら、迷う原因があることこそ迷いでは?

>実在からつくられたということでしょうか?

なんであれ、創られたというより、実在の解き解れの様子。というのが、順当な説明に思います。イメージするとしてですがビッグバン、第一原因の拡散です。この解き解れでないことはないという意味です。つまりこの世界の外にいて、神、実在が世界を創ったのでない、という意味です。

>強くならなければならない、賢くならなければならないということは、真我は不完全だということですか?なぜ、実在は不完全な真我をつくったのですか?

人は自我として生まれます。初めから真我としては生まれません。神はなぜ最初から完全な人や世界を作らなかったのか不満に思ったことがあるのですが、親猫からいきなり親猫は、子猫からいきなり子猫は無理というより・・・酵母は分裂して初めから酵母でしょうが・・・

多様性というか、酵母もあり、鶏と卵もあり、胎生もありでなくては、人それぞれの変化、成長というか,自由がないのかもしれません。人は変化しないでもいいのです、変化するでもいいのです。なんであれ、その人次第が可能ということです。

>そして、子は成長すると親と同質になります。猫の子は、やがて猫になります。真我は、やがて実在になるのでしょうか?そして、真我をつくり旅に出すのですか?

ここは、神は真我です。バラモン教は知りませんが、ブラフマンはアートマン、と呼ばれることと符合すると思います。この神は疑うことができません。でもあえて疑うなら、神は真我が自分を知るための自分の投影です。ここで、真我は神です。

>そして、子は成長すると親と同質になります。猫の子は、やがて猫になります。真我は、やがて実在になるのでしょうか?そして、真我をつくり旅に出すのですか?

そのように空想できます。でも、神に迎えられることが人としての限界と感じました。そこで♫どこまでも行こう、なのです。

>自我が芽吹いて真我に成長するのですか?

自我は大事です。自我なくて真我の発現は不可能なようです。自我を、世界が総力上げて守っています。その世界を超えることが、真我の発現に繋がります。世界に依存しないということです。現象界と実在の境がなくなります。

自分が自分に依存というか、自分が自分の根拠というか、世界の基底が私というか、そのことを私はない、と言います。私はあるも。あるにありきって、私はない、です。

バラモン教は主体を認めるとの話ですが、仏教はないという・・・ともに矛盾してないと思います。

>あるとしてというのは、何をあるとしてでしょうか?

これは、境があるなら、ということです。実在と現象界の境がないなら、すでに問題はなくなってるので、いま、あるとして、その境をなくせませんか?です。

No.7076 - 2019/10/20(Sun) 21:59:59

Re: 続きです / ゆらぎ
> いわゆる分離も総ては1つも、どっちも、この世界に依存してる。けど、分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できないよ。という話をしてるつもりです。なんにしても、このところ同じテーマで話してるので、以下の返信でも同じことを言っています。

「分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できない」という説明をされているとのことですが、あり得ないというところが、全く理解出来ておりません。前に書きましたが、現象界もエネルギーという観点からはひとつですが、心的エネルギーと物理的エネルギーに分離されており、物理的エネルギーも超弦や素粒子に分離されています。分離も総ては1つもありますし、依存も何も、我々はその世界で生きています。

> 迷う原因があるということは、あるときには迷ってなくても、いつか迷う可能性があるということでしょう。その迷う可能性もなくなったところから見たら、迷う原因があることこそ迷いでは?

原因と結果は別物です。過食は肥満の原因ですが、肥満そのものではありません。

> >実在からつくられたということでしょうか?
> なんであれ、創られたというより、実在の解き解れの様子。というのが、順当な説明に思います。イメージするとしてですがビッグバン、第一原因の拡散です。この解き解れでないことはないという意味です。つまりこの世界の外にいて、神、実在が世界を創ったのでない、という意味です。


ここから先は予想通りの内容でした。
随分前から予想しておりましたので、ニールの「神との対話」の話を出しましたが、聖書の放蕩息子の話が出てきましたので、確信に変わりました。
「神との対話」では、成長するのが目的ではなく、体験するのが目的になっていますが・・。

https://mugen3.com/hon10.htm


ご回答戴いた内容は、私もずっと考えてきたことです。
中学生の時から、母から成長の家の教義である「人間は神の子である」を聞いて育ちましたので。
私は、人生の目的は成長して神になることですか?と質問しましたが、誰も答えてくれませんでした。(笑)


> ここは、神は真我です。バラモン教は知りませんが、ブラフマンはアートマン、と呼ばれることと符合すると思います。この神は疑うことができません。でもあえて疑うなら、神は真我が自分を知るための自分の投影です。ここで、真我は神です。

いわゆる「梵我一如」ですね。
自分を知るためというのが、「神との対話」との共通点です。

> >自我が芽吹いて真我に成長するのですか?
> 自我は大事です。自我なくて真我の発現は不可能なようです。自我を、世界が総力上げて守っています。その世界を超えることが、真我の発現に繋がります。世界に依存しないということです。現象界と実在の境がなくなります。


自我は無自性であり、真我は自性です。
自性なるものが発現するとなると、それは自性ではありません。
自我という触媒が必要であれば、それは自性ではありません。
何も必要としないのが、自性です。

> 自分が自分に依存というか、自分が自分の根拠というか、世界の基底が私というか、そのことを私はない、と言います。私はあるも。あるにありきって、私はない、です。

この世界では、自分だけでは生きていけません。他のすべてに依存しています。他の全ても自分ならば、全ての人が自分にしか依存していません。

> >あるとしてというのは、何をあるとしてでしょうか?
> これは、境があるなら、ということです。実在と現象界の境がないなら、すでに問題はなくなってるので、いま、あるとして、その境をなくせませんか?です。


私は「分からない」のですから、あるとかないとかの問題ではありません。
神(実在)と自分との関係を、長い間模索してきましたが、今は必要なくなりました。
目の前に起こってくることに対して、真摯に対応していくだけであり、結果はどうでも良くなりました。
このあたりは、ubik0101さんやhatoさんと共通していると思います。

結果的に、ubik0101さんやhatoさんと同じように体験が起こればそれでもいいし、起こらなければそれでもいいです。
それが私の「どこまでも行こう♪」です。

No.7077 - 2019/10/21(Mon) 06:31:02

Re: 続きです / ubik0101
>「分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できない」という説明をされているとのことですが、あり得ないというところが、全く理解出来ておりません。前に書きましたが、現象界もエネルギーという観点からはひとつですが、心的エネルギーと物理的エネルギーに分離されており、物理的エネルギーも超弦や素粒子に分離されています。分離も総ては1つもありますし、依存も何も、我々はその世界で生きています。

完全な分離も、完全なひとつもない、ということです。たとえば心的エネルギーと物理的エネルギーに、完全に分離されているなら、現象界もエネルギーという観点からはひとつ。ということは成立しないでしょう。

>原因と結果は別物です。過食は肥満の原因ですが、肥満そのものではありません。

そいうことなら、ゆらぎさんの言うようには、総てはプロブラムされてるわけではない、ということでしょう。

>ここから先は予想通りの内容でした。
>随分前から予想しておりましたので、ニールの「神との対話」の話を出しましたが、聖書の放蕩息子の話が出てきましたので、確信に変わりました。
>「神との対話」では、成長するのが目的ではなく、体験するのが目的になっていますが・・。


ここで私が言ったのは、起こることは起こることが決まってたから起こってる、ということではないよ。多様であることで自由が醸しだされてる、と説明したのです。私が事実として言えるのは、神、実在の直系が真我、というだけです。

https://mugen3.com/hon10.htm


人が自分を知るのは、相対世界にあっては出来ません。たとえば背が低い高い、これは人の属性を自分と言ってるので、つまり自分でないことをもって自分を知ると言ってるので、却って迷いです。自分自身を定義するのは、ただ迷いの世界から解脱して、創造主との関係にあってです。自己は作られたときから自己というわけではありません。世界の構成要素から自我は作られます。愛は実在からの波動です。個別の被造物ではないです。感謝はとくに無用です。神が世界を創ったのではありません。神の解き解れが世界です。総てはひとつとか、引き寄せとかは、最も嫌うところです。責任についての思考は、私と近いです。

ゆらぎさんが、似てると思う眼で見てるから、似てるのでは?と思いました。また、似てたとして問題ないです。

ビデオも見ましたが、ほんとは私はこうなんだ分かってくれてる、と見る人を気分よくさせてくれるのでしょう。

>ご回答戴いた内容は、私もずっと考えてきたことです。
>中学生の時から、母から成長の家の教義である「人間は神の子である」を聞いて育ちましたので。
>私は、人生の目的は成長して神になることですか?と質問しましたが、誰も答えてくれませんでした。(笑)


「人間は神の子である」とは、キリスト教みたいです。これはなにか体験して、わかりやすく擬人化して言われたのかもしれません。ゆらぎさんに質問された誰もが、たぶん確信がないのでしょう。成長の家の創立者とかに聞けば、そうだとか違うとか説明するような気がします。

シミュレーション仮説と、縁起説との違いは、誰か設定者がいるということと、総てプログラムだ。ということ以外は違わないように思います。その違いを削除してしまえばいいのに、と思います。もちろん縁起説も、ひとつの世界観で、私の根拠にはなりません。

>いわゆる「梵我一如」ですね。

ここではその認識の経緯を言っています。たとえば「梵我一如」と言ってる誰かが、そう認識した経緯を聞いたことはありません。なので、伝統的?なことと同じかは不明です。

>自分を知るためというのが、「神との対話」との共通点です。

うーん、自分は自分を知ることはない、と知れる。です。それは自分を知ることなくては、こう言えない、逆説です。あるいは、自分を知らないということは、迷悟を失った。ご飯を食べたら茶碗を洗う、ということです。

たとえば剛体を想定するから、世界が非剛体であると知れる。ゆらぎさんの考えでは、違うのですが、私の場合は、
なんであれ思考があるなら、
それに関する思考を洗いざらい微細なところまで総て・・・まだ文字が緑色のワープロでしたが・・・連日連夜、書き出していました。
すると、思考が思考の、世界観がその世界観の破綻を見つけるのです。
眼は眼だけで、耳は耳だけであるのではありません。
これはとても面白いので、お薦めです。

なにか理解するということは、得ることではなく、失うことに似ています。そして、なくなるものは何もないです。

>自我は無自性であり、真我は自性です。
>自性なるものが発現するとなると、それは自性ではありません。
>自我という触媒が必要であれば、それは自性ではありません。
>何も必要としないのが、自性です。


ゆらぎさんは、この世界は、非剛体、と言ってたと思います。この世界に剛体があっても見えないかもしれません。

>この世界では、自分だけでは生きていけません。他のすべてに依存しています。他の全ても自分ならば、全ての人が自分にしか依存していません。

私の言う意味を、違う意味で認識しています。きっと・・・このところ同じテーマで話していますが・・・眼はその眼を見れない・・・ということを探ると判ると思います。

たとえばですが、鏡を見れば、その眼が見えると知れる(体験)。と、いうことがあって、その鏡がなければ、眼はその眼を見れない(体験の徹底)です。もちろん体験の有無にかかわらず、鏡がなければ、その眼はその眼を見れない、です。

>目の前に起こってくることに対して、真摯に対応していくだけであり、結果はどうでも良くなりました。
>このあたりは、ubik0101さんやhatoさんと共通していると思います。


たぶん、苦悩や葛藤な誰かがいるとして、そいうことで自分を楽しんでるかもしれません。

>結果的に、ubik0101さんやhatoさんと同じように体験が起こればそれでもいいし、>起こらなければそれでもいいです。

そのように決めることもないのでは?朗報を望みます。

>それが私の「どこまでも行こう♪」です。

No.7078 - 2019/10/21(Mon) 17:17:51

Re: 続きです / hato

ゆらぎさん、こんばんは☺。今日は静かな雨模様。身体を休めて、ゆっくり過ごしています。ここまでのお話しを、勘太郎さんのも含めて、読ませて頂いてました。こちらもゆらぎさんを知ろうとし、ゆらぎさんも、ここでの考え方を理解しようとしてくださいました。改めて、訪れて下さり、ありがとうございます。

人が、その自分を、実際はないところの幻影(世界の機能としての自我)、と腹で気付いたなら、可能性を拓く一歩と思います。そして、ここでの話は、その、本来、ない、ところの自我は、変容(成長)して、ある(自己、実在)、に進む可能性がある、というところが肝要です。そのためには先ずは人に、容赦のない自己探求は不可欠です。

『自我はどう転んでもその自分を守る』。なぜなら自我の変容とは、言われる通り、その死でもあるからです。また、なんであれ構造されたものは維持しようと働く、そのようにできてることは恵みです。そのようにあるからこそ、人はじっくりと経験し、思考し、学び、成長していくことができるのでしょう。

本来はないのにも係らず、いったん形成された自我の空虚な中心は、他人が付き崩すことが出来ません。それは必ず、自身によって解体変容し、失われていく必要があるからです。自我はその殻を頑なに守り、殻を割るのはその自分です。

人が生まれて、生きるために、自我は芽生えます。それは生まれてこの方ある、というその意識、その自意識のことです。変容は体験です。人はその経験にて了解します。そしてここで、変容の有無よりも、人が自己を知ろうと努める、誠実に自己探求の向きにある、ことで十分とも言えます。それが、経過が結果と同様、大切という意義です。ここはしかし、寛容且つ、厳格です。

もし人が自己探求について、自身で取り組むところを、興味本位の他人や書で見聞して済ませるならば、それは欲望、狡猾、怠惰です。その無明が、変容の可能性を秘めた自我です。よって探求するのはその自分です。というよりは、どうであっても自己探求。そこにしか、「ない」自我が、・・自己として「ある」ために、歩む道はないということです。永遠の表明であろう、汝我を知れ。と言われる、これは所以です。

この世界は真善美、魑魅魍魎、嘘や意味のすり替えから、・・ありとあらゆる総て、・・または、未だ他の生物を食して生きていくという、おぞましい、光り輝く森羅万象。素晴らしくも未発達な世界かも知れません。それ故に、人が可能性をもった自我をして、チャレンジできることがある。・・・として、おぞましさも未発達の自分もその世界も、まったく責任ないと見ぬふりをしていることも許されない、それが、世界に生きるということではないでしょうか。

人が成長して、自我がそれまでの役目を終えて、人が肉体を終えて、世界が役目を終えていくというのは、人は一旦肉体を終えるのですから、当然の成り行きと思います。しかし、もし人がその自我ならば、道が開いていたとしても、そのままであろうとし続ける、・・そのようにして、ない、ままに終わる、或いは、ない、ままに巡る・・・かも知れません。

世界は、神は、或いはなにか節理は、このこと(成長や変化)を、望んでもいない人(自我)に強いることはないと思います。先ずは自分を、「なんかしょうもない自我と不毛な世界・・」と認識することから自己探求は始まり、発心し、誠実に歩むことで、自己によって開かれる扉です。

世界の機能として、機能に従って廻り巡る人がいるかも知れません。或いは、世界のどんなところのどんな状態で生まれ落ちるか知らないが、いつまでも居続けてチャレンジする、生老病死を厭わずここで生きよう、世界を変えよう、やりたいことが沢山ある、という人もいるかも知れません。人の意志に依らないことも無論あるでしょうが、世界はどうあれ、人をサポートしてくれているでしょう。

自己探求は、自身の現状を正確に、嘘偽りなく、根深いところまで怜悧に見て認められるか、にかかっています。(自己に)これ以上ない素直。(自己に)これ以上ない誠実。どうしても必要です。他人でなく、文献でなく、その自分を探求しょう、だけです。

人(自我)は成長できること。人と世界は、決定されてるだけでもないらしい、ことを認められたら幸いと思います。

No.7079 - 2019/10/21(Mon) 17:22:25

Re: 続きです / hato

うちの金魚の金ちゃんです。むかしは5金魚いましたが、いまでは2金魚。丹頂という種類で、紅白饅頭のような模様がとても可愛いのですが、最近、加齢のせいか、1金魚の模様が、U になってしまいました。びっくりです。👀👀

そのうち、もう少し増やしたら、楽しそうかもと思っています。

No.7081 - 2019/10/21(Mon) 17:30:48

Re: 続きです / hato

もとい丹頂金ちゃんです。

No.7082 - 2019/10/21(Mon) 18:13:06