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記事No.7086に関するスレッドです

続きです 2 / ゆらぎ
ubik0101さん

> >「分離も総ては1つもあり得ないのだから、世界に依存できない」という説明をされているとのことですが、あり得ないというところが、全く理解出来ておりません。前に書きましたが、現象界もエネルギーという観点からはひとつですが、心的エネルギーと物理的エネルギーに分離されており、物理的エネルギーも超弦や素粒子に分離されています。分離も総ては1つもありますし、依存も何も、我々はその世界で生きています。
> 完全な分離も、完全なひとつもない、ということです。たとえば心的エネルギーと物理的エネルギーに、完全に分離されているなら、現象界もエネルギーという観点からはひとつ。ということは成立しないでしょう。


エネルギーという観点からは、分離されていないのです。
そこを完全に分離しているという前提に置き換えると、話が分からなくなってしまいます。

> >原因と結果は別物です。過食は肥満の原因ですが、肥満そのものではありません。
> そいうことなら、ゆらぎさんの言うようには、総てはプロブラムされてるわけではない、ということでしょう。


これも意味が分かりません。
過食と肥満が同じなのですか?
過食しても、太らない体質の人はたくさんいます。

> ここで私が言ったのは、起こることは起こることが決まってたから起こってる、ということではないよ。多様であることで自由が醸しだされてる、と説明したのです。私が事実として言えるのは、神、実在の直系が真我、というだけです。

それは、ubik0101さんの事実であって、一般化出来ません。
ubik0101さんの脳内の処理を事実だとubik0101さんの自我が認識しているだけだと思いますが?

> 「人間は神の子である」とは、キリスト教みたいです。これはなにか体験して、わかりやすく擬人化して言われたのかもしれません。ゆらぎさんに質問された誰もが、たぶん確信がないのでしょう。成長の家の創立者とかに聞けば、そうだとか違うとか説明するような気がします。

創立者はアメリカの光明思想をベースに理論構築しているだけで、体験はありません。

> シミュレーション仮説と、縁起説との違いは、誰か設定者がいるということと、総てプログラムだ。ということ以外は違わないように思います。その違いを削除してしまえばいいのに、と思います。もちろん縁起説も、ひとつの世界観で、私の根拠にはなりません。

無から有は生じません。原因と結果を一如とするか、分けるかだけの違いだと思います。

> うーん、自分は自分を知ることはない、と知れる。です。それは自分を知ることなくては、こう言えない、逆説です。あるいは、自分を知らないということは、迷悟を失った。ご飯を食べたら茶碗を洗う、ということです。

現象界に肉体を持ったのは、「神、実在の直系が真我」ということを知るためではないのでしょうか?

> たとえば剛体を想定するから、世界が非剛体であると知れる。ゆらぎさんの考えでは、違うのですが、私の場合は、

そうです。現象界の物質は非剛体であるという認識が先です。
生まれて、母に抱かれる。母の肌は柔らかい。これが最初に認識する非剛体体験です。

> ゆらぎさんは、この世界は、非剛体、と言ってたと思います。この世界に剛体があっても見えないかもしれません。

この世界にはありません。
あるとしたら別の世界です。あっても見えないということは、別の次元にあるということです。

> >この世界では、自分だけでは生きていけません。他のすべてに依存しています。他の全ても自分ならば、全ての人が自分にしか依存していません。
> 私の言う意味を、違う意味で認識しています。きっと・・・このところ同じテーマで話していますが・・・眼はその眼を見れない・・・ということを探ると判ると思います。


最初、その話なのかと思いました。
しかし、「レンズが眼だったとして、そのレンズが見える?」という質問ではなく「片方のレンズに眼があるとして、そのレンズが見える?」という質問だったため、質問に忠実にお答えしたのです。

> たとえばですが、鏡を見れば、その眼が見えると知れる(体験)。と、いうことがあって、その鏡がなければ、眼はその眼を見れない(体験の徹底)です。もちろん体験の有無にかかわらず、鏡がなければ、その眼はその眼を見れない、です。

そこは、充分検討してきました。

> >目の前に起こってくることに対して、真摯に対応していくだけであり、結果はどうでも良くなりました。
> >このあたりは、ubik0101さんやhatoさんと共通していると思います。
> たぶん、苦悩や葛藤な誰かがいるとして、そいうことで自分を楽しんでるかもしれません。


真摯に対応していくことが、「ご飯を食べたら茶碗を洗う」ということです。

> >結果的に、ubik0101さんやhatoさんと同じように体験が起こればそれでもいいし、起こらなければそれでもいいです。
> そのように決めることもないのでは?朗報を望みます。


私は何も望みません。
起こることは起こり、起こらないことは起こらない、ただそれだけです。

No.7083 - 2019/10/22(Tue) 08:36:06

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
hatoさん

> ゆらぎさん、こんばんは☺。今日は静かな雨模様。身体を休めて、ゆっくり過ごしています。ここまでのお話しを、勘太郎さんのも含めて、読ませて頂いてました。こちらもゆらぎさんを知ろうとし、ゆらぎさんも、ここでの考え方を理解しようとしてくださいました。改めて、訪れて下さり、ありがとうございます。

私の方こそ、ありがとうございます。
私も真剣に取り組んできたので、言葉がきつくなることもありますが、ご容赦戴きたく。
今回のhatoさんの話はよく理解できました。
ただ、どうしても納得がいかないところがあります。

> 人が、その自分を、実際はないところの幻影(世界の機能としての自我)、と腹で気付いたなら、可能性を拓く一歩と思います。そして、ここでの話は、その、本来、ない、ところの自我は、変容(成長)して、ある(自己、実在)、に進む可能性がある、というところが肝要です。そのためには先ずは人に、容赦のない自己探求は不可欠です。

ここが、先ず違うところです。
瓦は磨いても玉にはなりません。自我は変容しても自我であり、幻想だと思います。
決して真我や実在に進むことはないと思っています。
なぜなら、真我も実在も変容しないものだからです。
だから、私は自我を弄ることはやめました。

> 人(自我)は成長できること。人と世界は、決定されてるだけでもないらしい、ことを認められたら幸いと思います。

私もかなり自己探求はやってきました。
結論は、何かにならなくてもいいということです。
成長する必要もないし、目覚める必要もない。
それに決定されていたとしても、私には結果が分からないのですから、決定されていないのと同じです。
人は、何もコントロール出来ない、自由意志もない、だから自由で人生も捨てたものではないのです。

No.7084 - 2019/10/22(Tue) 08:37:23

Re: 続きです 2 / ubik0101
>エネルギーという観点からは、分離されていないのです。
>そこを完全に分離しているという前提に置き換えると、話が分からなくなってしまいます。


ここでゆらぎさん自身が、完全な分離はない、と言ってるのです。

こちらの言ってることは簡単です。完全な分離も、完全な1つもない・・・それなのに自我は分離だとか、ワンネスとか、非2元とか、総ては1つとか・・・そう見なすのは、どちらも世界に依存してる。解脱ではない、ということです。

ゆらぎさんが、その眼はその眼を見れない、ということを理解してるなら、こんなことは明白なはずです。なので、

もしかして、ゆらぎさんの質問の核心は・・・真我は初めから真我?それともあるとき突然に真我になる?ということでしょうか。

それなら、どちらの解釈も間尺にあわないです。体験は突然です。1/3だけ自我、2/3は無我とか真我はあり得ないからでしょう。初めから真我なら人が生まれる必要がないでしょう。また、初めから真我なら、悟りという体験がある必要もないでしょう。見えるは見える聞こえるは聞こえる思考するは思考する、これは変わりません。

この世界に埋没して生きる・・・勘太郎さんの師?が、言ったらしいのですが・・・言葉で言えない、とても微妙な感覚・・・真我であり、自我であり、無我であり、どれでもない・・・世界であり、呼吸であり、感情であり、どれでもない、あるでもないでもあるし、あるでもないでもない・・・たとえば雨の庭の見えることが、そうです。

ところで、ギターを弾けるのは、いいですね。私は、何も楽器ができません。そんな2人が並んで草むしりしてるとします。音楽のこと、将来のこと、過去のこと、ご飯のこと、なにも考えずに、同じことをしています。でもゆらぎさんは、ギターが弾けるのです。練習した、しないがあるから当然。そんなことなんでしょう。

それはまた道元の疑問だったと聞いたことがあります。とても希薄な記憶ですが・・・すでに人は悟ってるのに、なぜ修行しなくてはならないのか?だったと思います。そして身心脱落が起こって・・・そうは言っても体験しなければ、それは発現しないのだ・・・とのこと、らしいです。

>これも意味が分かりません。
>過食と肥満が同じなのですか?
>過食しても、太らない体質の人はたくさんいます。


ここで、ゆらぎさん自身が、起こることは起こるようになってるから起きたという解釈は、結果論、だよ。と言ってます。いろんなことが総て決められてるというのは、結果論でなくて何でしょう。

>それは、ubik0101さんの事実であって、一般化出来ません。

とくに一般化したいわけでも、されたいわけでもなく、人それぞれです。

>ubik0101さんの脳内の処理を事実だとubik0101さんの自我が認識しているだけだと思いますが?

私が、ゆらぎさんなら・・・ubik0101について、ゆらぎという自我が、脳内の処理を事実だと認識しているだけか?と自問します。自分の思考を自分に適応するという探求の一環です。

>無から有は生じません。原因と結果を一如とするか、分けるかだけの違いだと思います。

こちらの経緯では、原因と結果が同じなら、いわゆる即今で、因果の壊滅です。縁起の素敵なところは、順観と逆観があることです。無のゆらぎから、万物が生じたという主張をどこかで見たような、気がします。

>現象界に肉体を持ったのは、「神、実在の直系が真我」ということを知るためではないのでしょうか?

あらかじめ真我があって現象界に肉体を持った、のではありません。あくまで喩えですが、この世界、この宇宙は、子宮という感じでしょう。

と、書いたところで思いつき・・・たぶん半村良の小説で見た、胎蔵界という言葉を、ネット検索してみました。仏教でも、神、実在を感知した誰かがいるのでしょう。私だけの事実ではないかもしれません。

http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/kontaim.html

《胎蔵は大悲胎蔵生だいひたいぞうしょうのことで、子供が母親の胎内で育つように、大日如来の慈悲により、本来存在している悟りの本質が育ち生まれてくる、という意味です。》

イエス・キリストも、そのようかもしれません。神を父と呼び、種を蒔く例えで、大地、つまり世界を母としてる、そんな節があります。そして、なぜ種が芽生え、成長するのか誰も知らない・・・実ったら、すぐに収穫する。とあると思います。

No.7085 - 2019/10/22(Tue) 21:50:35

Re: 続きです 2 / hato

こんばんは☺

>私もかなり自己探求はやってきました。結論は、何かにならなくてもいいということです。成長する必要もないし、目覚める必要もない。それに決定されていたとしても、私には結果が分からないのですから、決定されていないのと同じです。人は、何もコントロール出来ない、自由意志もない、だから自由で人生も捨てたものではないのです。


わかってます、それでこそ、ゆらぎさん!ですね。そうでなくちゃ。人から言われて気が変わる、・・そんな柔な自我じゃ、育ちようもつまらなかろ。と思います。

・・たぶん、問題があるとしたら、その性根、と思います。(ああ、なんと失礼なんでしょう、)ですが探求は、検証できる明晰な頭脳(もとても大事だけど、)よりも、子供っぽいかも知れませんが、馬鹿みたいに、どこまでも無垢な精神のように思います。

(自己に、)これ以上ない素直。(自己に、)これ以上ない誠実。

ゆらぎさんの探求は、本当に、そのようにありましたか?

探求は、もし人が、その時点の自分が、安心できそうな行先を、予め隈なく調べ上げて目指すとしたなら、奇妙です。

簡単です!。精神世界や宗教の本や、ビデオが言うなにかそれら、・・それもこれもの知識を捨てて、今日その自分に向かうだけです。

なにか安心できる世界観や信条を抱えたまま、自己に正しく(正しくです、)入ることは出来ません。探求は、たまねぎを、剥くようなわけですから当然です。


>瓦は磨いても玉にはなりません。自我は変容しても自我であり、幻想だと思います。
>決して真我や実在に進むことはないと思っています。
>なぜなら、真我も実在も変容しないものだからです。



そんなことは、経験してみなければわかりませんよ。瓦の話じゃありませんし。ゆらぎ大丈夫か?と思いますよ。

なので、本当に不明なことは、放っておくこと。・・ではないですか?☺

機能は無論、残ります。けれどここは、人の変容です。思考で紡ぐ結論には、収まりかねますよ?。どこかのスレッドで、人は自我真我、いずれにしても不可思議、と書いたと思います。


さあ、夜も更けてきました。
人は違うので、学べたり、楽しいです。
うふふ!おせっかいに煩くして、すみませんでした。

自分はひとまずこの辺で。

初秋の頃、一連の台風が過ぎる頃、このメヒシバ、オヒシバが、一面に生え揃います。絹糸のように細い枝が、何千何万と風にゆらぎ、本当にうつくしいです。

ゆらぎさんの日常に、
ちょっと幸せが、たくさん、ありますように。

No.7086 - 2019/10/23(Wed) 00:01:26

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
> >エネルギーという観点からは、分離されていないのです。
> >そこを完全に分離しているという前提に置き換えると、話が分からなくなってしまいます。
> ここでゆらぎさん自身が、完全な分離はない、と言ってるのです。


エネルギーという括り方では分離されていませんが、この世界では、エネルギーも位置エネルギーや運動エネルギー、熱エネルギー、物質としては素粒子・原子・分子・・というように分離されています。
エネルギーが完全なひとつというのは、剛体と同じく概念です。この世界は、完全な分離です。何故なら、分離していないと認識出来ないし、活動自体が起こらないからです。
なお、実在や真我は完全なひとつではないのでしょうか?

> こちらの言ってることは簡単です。完全な分離も、完全な1つもない・・・それなのに自我は分離だとか、ワンネスとか、非2元とか、総ては1つとか・・・そう見なすのは、どちらも世界に依存してる。解脱ではない、ということです。

そもそも解脱していると言っておりませんが?

> ゆらぎさんが、その眼はその眼を見れない、ということを理解してるなら、こんなことは明白なはずです。なので、
> もしかして、ゆらぎさんの質問の核心は・・・真我は初めから真我?それともあるとき突然に真我になる?ということでしょうか。


真我は自性と定義していますので、あるとき突然に真我になるということはありません。
真我は初めから真我というのが、私の認識している真我です。
そこが違っていれば、話が合わないのは当然ということになります。

> それなら、どちらの解釈も間尺にあわないです。体験は突然です。1/3だけ自我、2/3は無我とか真我はあり得ないからでしょう。初めから真我なら人が生まれる必要がないでしょう。また、初めから真我なら、悟りという体験がある必要もないでしょう。見えるは見える聞こえるは聞こえる思考するは思考する、これは変わりません。

同じく、半分だけ剛体とか半分だけ分離もありません。
そして、私は悟りがあるとも必要とも思っていません。

> この世界に埋没して生きる・・・勘太郎さんの師?が、言ったらしいのですが・・・言葉で言えない、とても微妙な感覚・・・真我であり、自我であり、無我であり、どれでもない・・・世界であり、呼吸であり、感情であり、どれでもない、あるでもないでもあるし、あるでもないでもない・・・たとえば雨の庭の見えることが、そうです。

脳内でリアル化が行われているだけかもしれません。
先日、紹介した濃淡の脳内処理のように。

> ところで、ギターを弾けるのは、いいですね。私は、何も楽器ができません。そんな2人が並んで草むしりしてるとします。音楽のこと、将来のこと、過去のこと、ご飯のこと、なにも考えずに、同じことをしています。でもゆらぎさんは、ギターが弾けるのです。練習した、しないがあるから当然。そんなことなんでしょう。

ギターが弾けるは、起きたこと。
そして、体験も起きたこと。

> それはまた道元の疑問だったと聞いたことがあります。とても希薄な記憶ですが・・・すでに人は悟ってるのに、なぜ修行しなくてはならないのか?だったと思います。そして身心脱落が起こって・・・そうは言っても体験しなければ、それは発現しないのだ・・・とのこと、らしいです。

発現しないというのは、認識が起こらないということですよね?
でも悟っているなら、認識の起こる起こらないに拘ることもないのでは?

> >これも意味が分かりません。
> >過食と肥満が同じなのですか?
> >過食しても、太らない体質の人はたくさんいます。
> ここで、ゆらぎさん自身が、起こることは起こるようになってるから起きたという解釈は、結果論、だよ。と言ってます。いろんなことが総て決められてるというのは、結果論でなくて何でしょう。


起きた時点から見れば、結果論です。

> >それは、ubik0101さんの事実であって、一般化出来ません。
> とくに一般化したいわけでも、されたいわけでもなく、人それぞれです。


それは、理解しています。
主張されても一般人は理解できませんということです。

> >ubik0101さんの脳内の処理を事実だとubik0101さんの自我が認識しているだけだと思いますが?
> 私が、ゆらぎさんなら・・・ubik0101について、ゆらぎという自我が、脳内の処理を事実だと認識しているだけか?と自問します。自分の思考を自分に適応するという探求の一環です。


それは自問していて、そうだと思っています。
脳内の処理を事実だと認識することが、自我の仕事です。

> >無から有は生じません。原因と結果を一如とするか、分けるかだけの違いだと思います。
> こちらの経緯では、原因と結果が同じなら、いわゆる即今で、因果の壊滅です。縁起の素敵なところは、順観と逆観があることです。無のゆらぎから、万物が生じたという主張をどこかで見たような、気がします。


引用ですが「そこに宇宙ができていないのですから、空間も、時間もない、物質も、力もない…。そのような状態を “真空”と呼びます。初期の宇宙は、そのような状態であっただろうと。“真空”とは、即ち “無”のことです。量子論によると、無といえども、これは何もない状態のことではないようです。そこには、とてつもなく大きなエネルギーが、寄せては返す波のように現れては消える、という状態を繰り返している。つまり、結果的には相殺されていてゼロであるが、ある瞬間においては、例えば無限大のエネルギーが存在しうる、ということであるのです。これは “真空のゆらぎ”、或いは、量子論(量子力学)の考え方なので“量子的ゆらぎ”と呼ばれています」

> >現象界に肉体を持ったのは、「神、実在の直系が真我」ということを知るためではないのでしょうか?
> あらかじめ真我があって現象界に肉体を持った、のではありません。あくまで喩えですが、この世界、この宇宙は、子宮という感じでしょう。
> と、書いたところで思いつき・・・たぶん半村良の小説で見た、胎蔵界という言葉を、ネット検索してみました。仏教でも、神、実在を感知した誰かがいるのでしょう。私だけの事実ではないかもしれません。


胎蔵界と金剛界、懐かしいですね。
私は真言密教も勉強していた時期があり、真冬の滝行とか真夏の護摩焚きも経験があります。今思えば、バカですねえ。(笑)

> イエス・キリストも、そのようかもしれません。神を父と呼び、種を蒔く例えで、大地、つまり世界を母としてる、そんな節があります。そして、なぜ種が芽生え、成長するのか誰も知らない・・・実ったら、すぐに収穫する。とあると思います。

種を蒔く人の喩えも、懐かしいですね。
若かりし頃、統一教会と論戦していて、聖書もかなり勉強しました。
例えの意味は以下です。
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。/だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。/石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、/自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。/茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。/良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」

No.7087 - 2019/10/23(Wed) 08:24:49

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
hatoさん

> ・・たぶん、問題があるとしたら、その性根、と思います。(ああ、なんと失礼なんでしょう、)ですが探求は、検証できる明晰な頭脳(もとても大事だけど、)よりも、子供っぽいかも知れませんが、馬鹿みたいに、どこまでも無垢な精神のように思います。

はい、失礼です。(笑)
でも、それくらいの根性が無ければ、話になりません。

> (自己に、)これ以上ない素直。(自己に、)これ以上ない誠実。
> 簡単です!。精神世界や宗教の本や、ビデオが言うなにかそれら、・・それもこれもの知識を捨てて、今日その自分に向かうだけです。


その通りです。
ですから、探求が止み、その後はその系統の本は読んでいません。
シミュレーション仮説もそうです。
もう、かなりの時間が経過しました・・。

> >瓦は磨いても玉にはなりません。自我は変容しても自我であり、幻想だと思います。
> >決して真我や実在に進むことはないと思っています。
> >なぜなら、真我も実在も変容しないものだからです。
> そんなことは、経験してみなければわかりませんよ。瓦の話じゃありませんし。ゆらぎ大丈夫か?と思いますよ。


経験しても分かりませんよ。
その経験が、真であるとは確かめようがないですから。
私は、大丈夫です。(笑)

> なので、本当に不明なことは、放っておくこと。・・ではないですか?☺

その通りだと思います。
ですから、私は「分からない」ものは放っておいています。

> 機能は無論、残ります。けれどここは、人の変容です。思考で紡ぐ結論には、収まりかねますよ?。どこかのスレッドで、人は自我真我、いずれにしても不可思議、と書いたと思います。

思考も体験の一つであり、全ては脳内の出来事です。
それを不可思議と呼べば、不可思議です。

> 人は違うので、学べたり、楽しいです。
> うふふ!おせっかいに煩くして、すみませんでした。


いえいえ、本音でバチバチと火花を散らせば、変容もあるでしょう。

> ゆらぎさんの日常に、
> ちょっと幸せが、たくさん、ありますように。


ありがとうございます。
ubik0101さんとhatoさんのご健康とご多幸をお祈りいたします。
そして、勘太郎さんに体験が訪れんことを!

No.7088 - 2019/10/23(Wed) 12:18:07

Re: 応援ありがとうございます / 勘太郎
体験が訪れてくれると嬉しいです。

 おらは昨日より、老人と成りました。

休日で3月ぶりで小学5年生の孫が遊びに来ました。
会うなり、おらの顔をまじまじと見て「じじも老けたねえ」と言いました。この一言で、おらは老人になりました。
 一昨日までは、おらはまだ拡大の余地がある人と感じてきました。青空に投げ上げた石の、上昇スピードは落ちているけれども、頂点に達していないと感じていました。
 
 各人がどう自分を感じるか、それぞれでしょう。どの時点で自分がどう変わったと自覚するのか、面白いです。

 この次に大きく変わるのは、自分は死ぬ存在だと自覚する時と想像しています。今だに自分が死ぬと信じることができないでいます。言葉を変えれば「死ぬ覚悟ができた時」楽しみです。
 

No.7089 - 2019/10/23(Wed) 14:00:47

Re: つぶらな瞳 です / 勘太郎
 可愛いとかではなく、胸が締め付けらる感じがします。
野良猫のままで、産まれたなら、オホーツク沿岸の地ですから、もう季節は冬に近いでしょう。何かの縁でおらん家のあづかり猫となり産まれて、もらわれ先も決まっています。

 概念からくるのでしょうけれども、こんな姿を見ると生きて行く厳しさを想像してしまい、涙がこぼれそうになります。
 山の畑にキツネの子どもが現れたことがあります。この猫より少し大きい程でした。無事に育ったことか・・・・・。

 「産まれ出たのは、苦労しに世界に現れてた」とお釈迦様はおしゃいます。
爺いから申しますと「終わりに近づいてみれば、それほど大きな苦労も無かった。過ぎ去れば、産まれてくるのも悪くないかもしれません」

No.7090 - 2019/10/23(Wed) 14:46:27

Re: 続きです 2 / ubik0101
>なお、実在や真我は完全なひとつではないのでしょうか?

その眼は、その眼を見れないの、眼、です。1つだとしても比べるほかのことがないので1つだとも、認識できないのです。

その1つの外に視点を置くと仮定して、1つと、言えないことはないけど、現象界ではそのような変なこともできるそれは自我の機能です。

真我は、自分をまったく知ることができない、ということを学ぶのがこの世界ということなら、そう言えます。

真我が、自分を知ろうとして、この世界にいるということなら、それは真我でない、自我ということです。

>真我は初めから真我というのが、私の認識している真我です。

前にも同じ質問をしたと思いますが、それは、どうやって認識しましたか?これが訳の分からないことです。ここは、シミュレーション世界だから、そうでない実在があるってことでしょうか?要するに、認識できることは無自性、できないことは自性?

>発現しないというのは、認識が起こらないということですよね?
>でも悟っているなら、認識の起こる起こらないに拘ることもないのでは?


たぶん、初めから悟ってる、というのは単なる知識でしょう。真我(自性)が、この世界(無自性)に生まれるでしょうか?神(自性)が、この世界に生まれるでしょうか?

どういう寺か知りませんが、文章はよく出来ています。

《胎蔵は大悲胎蔵生だいひたいぞうしょうのことで、子供が母親の胎内で育つように、大日如来の慈悲により、本来存在している悟りの本質が育ち生まれてくる、という意味です。》

《子供が母親の胎内で育つように》、神、実在、が創ったというわけではなく、神、実在の解き解れであるこの世界で、《大日如来の慈悲により》慈悲の波動を受けて《本来存在している悟りの本質が》、悟りの本質とは不明ですが、ともあれ真我は最初から真我ではなく・・・生まれ育つと言ってるわけではなく・・・《育ち生まれてくる》その実在の解き解れである世界から生まれ出る。解脱する。

No.7091 - 2019/10/23(Wed) 21:40:24

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
> >真我は初めから真我というのが、私の認識している真我です。
> 前にも同じ質問をしたと思いますが、それは、どうやって認識しましたか?これが訳の分からないことです。ここは、シミュレーション世界だから、そうでない実在があるってことでしょうか?要するに、認識できることは無自性、できないことは自性?


認識という言葉は幅広い意味を持ち、この場合の認識は知識に近いです。
換言すると、真我は初めから真我というのが、私が知的に理解している真我です。
シミュレーション世界はつくられた世界であり、実在はつくられたものではないため、シミュレーション世界には実在は無いと思います。

> >発現しないというのは、認識が起こらないということですよね?
> >でも悟っているなら、認識の起こる起こらないに拘ることもないのでは?
> たぶん、初めから悟ってる、というのは単なる知識でしょう。真我(自性)が、この世界(無自性)に生まれるでしょうか?神(自性)が、この世界に生まれるでしょうか?


初めから悟ってるというのは、私が主張しているのではなく、「道元の疑問だったと聞いたことがあります。とても希薄な記憶ですが・・・すでに人は悟ってるのに、なぜ修行しなくてはならないのか?」を受けての質問です。
真我も神もこの世界に生まれてくることはないでしょう。

> 《子供が母親の胎内で育つように》、神、実在、が創ったというわけではなく、神、実在の解き解れであるこの世界で、《大日如来の慈悲により》慈悲の波動を受けて《本来存在している悟りの本質が》、悟りの本質とは不明ですが、ともあれ真我は最初から真我ではなく・・・生まれ育つと言ってるわけではなく・・・《育ち生まれてくる》その実在の解き解れである世界から生まれ出る。解脱する。

ここが理解出来れば、ubik0101さんの言われていることが理解出来るのでしょうが、まだまだ、全く無理ですね・・。
解き解れであるこの世界と実在との関係を具体的に説明していただけないでしょうか?
例えば、弱肉強食、戦争、暴力などによる凄惨な状況は、実在の何の解き解れでしょうか?

No.7092 - 2019/10/24(Thu) 05:35:29

Re: 弱肉強食、戦争、暴力はそれほど不条理ではないと感じる様になりました。 / 勘太郎
 人は菌のような生命の続きであるのです。生き物は飢餓の中で世代交代し発展してきたのです。

 カラスも雀もキツネも一生のなかで、飢餓でない時間は僅かでしょう。公園や山の草木も水・光・肥料の飢餓の中で育ちます。スギの木も周りの木々との競合でやっと生きているのです。

 「人だけが全員ひとりの漏れもなく、満腹・道理に叶った生活を送ることができる」という感情はだれしもありますけれども。上記の様に生命の成り立ちと現状をおもえば、戦争もサギや泥棒も不条理ではないと、おいらは感じます。

 人の歴史を30万年、文明の歴史を5千年として、多数の人が飢えずに生活できるようになったのはまだ100年経たないでしょう。おいらの祖父母の時代には、まだ子供の間引き(子消し)があったと聞いています。

 一足飛びに、不条理は解消されず、戦争や暴力で身体も心も傷つく時代はまだまだ続くでしょう。
 1000年前の平安時代から比べれば、人は確実に不条理を減らしています。飢える人の割合が減っていますし、食べてしまう牛や豚や鶏の虐待的飼育も止めようという声も出ています。

 お寺の接心の食事では必ず、自分の粥の中からテーブルの上に少量を取り出して、生き物の食事にと提供し、「生き物皆が膨満せんことを」と祈ります。願いは必ず叶いますから。
 口笛を吹きながら行こうとは、この事も含まれる、いやこれが主題かと思っております。

No.7093 - 2019/10/24(Thu) 07:22:25

Re: 続きです 2 / ubik0101
>解き解れであるこの世界と実在との関係を具体的に説明していただけないでしょうか?
>例えば、弱肉強食、戦争、暴力などによる凄惨な状況は、実在の何の解き解れでしょうか?


その解き解れ・・・世界の活動・・・ふつうは因果と呼ぶようです。その原因・・・神、実在のどこかが、弱肉強食、というわけではなく、弱肉強食はこの目の前にある事象です。

そんな弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘、生死とか・・・それを不完全と呼ぶとします。ほかにも言い方はあるかもしれませんが・・・不完全もない完全は、完全ではない、です。

No.7094 - 2019/10/24(Thu) 19:29:36

Re: 続きです 2 / ゆらぎ
> >解き解れであるこの世界と実在との関係を具体的に説明していただけないでしょうか?
> >例えば、弱肉強食、戦争、暴力などによる凄惨な状況は、実在の何の解き解れでしょうか?


> その解き解れ・・・世界の活動・・・ふつうは因果と呼ぶようです。その原因・・・神、実在のどこかが、弱肉強食、というわけではなく、弱肉強食はこの目の前にある事象です。

因果であれば、結果としての事象であるそれらの凄惨な出来事、その原因が実在にあるということですよね?

> そんな弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘、生死とか・・・それを不完全と呼ぶとします。ほかにも言い方はあるかもしれませんが・・・不完全もない完全は、完全ではない、です。

つまり、弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘が実在にあるということですよね?
そして、それらは仮想ではなく実体だということですよね?
そこが、私の最大の疑問点でありスタートでしたが、いろいろと論議した結果、スタートに戻ってしまったようです。
私には全く了解することができないのですが、ubik0101さんは体験によって、例えば飢えによって死んでいく子供たちの凄惨な状況を、どう了解出来たのでしょうか?

No.7095 - 2019/10/25(Fri) 06:05:32

Re: 続きです 2 / ubik0101
と、ゆらぎさんが言ってるそれは、思考なんです。ずっと前に話した、何をしても、それはそういうことができるようにできてるから出来るだけ・・・歩くも、走るも、笑うも、病気も、治療も、死ぬも・・・絶対不自由・・・それは思考の見る風景なのです。

ゆらぎさんは、その飢えて死ぬ子供ではないでしょう?実際に、どこかにそんな子供はいるでしょう。そんな映像を見た記憶はあるでしょう。ここでその事実に飛びつかずに、そこにとどまって自己観察です。思考は、空想と事実を峻別する機能がついてないな・・・です。

たとえば100年前に、知らない誰かが書いた空想科学小説・・・ありもしない未来の星々の物語でも、まるで事実のように目の前に展開されるでしょう。思考は問題ではなく、そんな思考の時空を超えた特性に振り回されるのは問題。このようにして思考の特性に自ら気が付きます。

ゆらぎさんは、その飢えて死ぬ子供を今、空想で創造したのです。でも。でも、現実の世界は?これを思考する必要はないのですが、ゆらぎさんは、この飢えて死ぬ子供でなくて幸運です。どこか太古の書に、人として生まれてきたことは稀有、そして生活に余裕のあることは更に稀有。修行して悟ろう。と、あるとき聞き齧った事があります。

ああ青春は短い、だから遊ばなくっちゃ・・・こんなことを叫ぶ化粧の濃い若い女性が、実際にいましたが・・・もう老婆でしょうが・・・ああ青春は短い、だから頑張ろう・・・こんな、稀有の生まれでなくても、関係なく探求しよう・・・なんでもいのですが、そのようにしてるその人がそのようにしてるというだけなのです。

その飢えて死ぬ子供。あるいは大富豪の養子として暮らしてるかもしれません。犯罪者の子供。名も知れない小市民の子供。虐められて育った子供。愛されて育った子供。それはそれぞれの人生を、懸命にやるんです。実際にそうやってるのです。ああ、なんて世界に生まれてきたのだろう。辛い苦しい、これはなんとかならないか?

すこし繰り返ります。どこかに、飢えて死ぬ子供がいる・・・それは思考です。ここで、その思考が、その思考者をつくってるのです。まず先に思考者がいて、思考してるのではありません。思考があって、その主体をつくるのです。これが自我は虚構ということです。実際、その思考以外、あるいはその思考の範疇以外の思考をすることは困難でしょう。

その思考に反対されると反発が起きるかもしれません。それは思考が思考者の生みの親だからです。もちろん、その人の知覚も、感情も、行動も、そうなのです。それこそ、人が思考に、知覚に、行動に、世界に創ってもらってる、育ててもらってるのです。自我はこのようなこと・・・弱い植物の苗をサポートする支柱・・・ということでもあります。

私の場合は、意識と無意識の融合から始まりました。ここで人の知覚、感情、意識は完全に活動し超意識状態になります。思考も、事実も、嘘も、苦しみも、悲しみも、怠惰も、生も死も、世界は・・・たとえば善悪の両極端にも、その中間にも留まれない、これが因果の、同じことですが中道の体験です。そこで、

この世界が、自我のトリックの構造を、マジックのような子育ての手の内を明らかにしてくれるのです。人が大人になったのでしょう。もちろん知的理解もいいのですが、それは信じる信じないということに帰着するかもしれませんし、信じては、あるいは信じないということは、己事究明にならない恐れが大かもしれません。

経験則ですが、なにか疑問があれば、それは必ず自分で解けます。たぶん子供の頃、誰にも降って湧いたような疑問、自分て何?なんのために生きてる?・・・私はたぶん、この疑問を捨てなかっただけだと思います。そして、その自然の公案を忘れるほど、それに没頭したのです。

No.7096 - 2019/10/25(Fri) 20:01:35

Re: 続きです 2 / ubik0101&hato

仕事場に行くために運転して木々に囲まれた庭から出ると、空に、凄い虹が出ていました。完全なアーチ状で、両端が地面からしっかりと生え、しかも完全に2重の虹でした。まるで誰かが描いたCGのように鮮明。

赤信号になったので、仕事場のhatoさんに「見て!見て!凄い虹!」と急いで電話しました。仕事場に付いてもまだ出ていて、その後一緒に車に乗って走っていると、再び大きくくっきりと、出ていました。
子供の頃、やはり夕方、長崎で鮮やかな虹を見て、その片方の元まで行こうと、ずーと電車通りを歩いたことがありました。

ubik0101

「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。 これはわたしと大地の間に立てた約束のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、その中に虹が現れると わたしはそれを見て全ての生き物との間に立てた永遠の契約を心にとめる。」

旧約聖書のノアの箱舟で、神が言われた言葉を思い出したそうです。長崎にいたubik0101さんとメールをやり取り始めた頃、屋久島旅行の虹の写真を送った返信に、虹を追いかけた話しが書かれていました。

画像にはとても収まらず、だいぶ時間がたってからの薄くなった画像ですが、見事な虹でした。

hato

No.7097 - 2019/10/25(Fri) 21:07:37