| hatoさん
> ゆらぎさん、こんばんは☺。今日は静かな雨模様。身体を休めて、ゆっくり過ごしています。ここまでのお話しを、勘太郎さんのも含めて、読ませて頂いてました。こちらもゆらぎさんを知ろうとし、ゆらぎさんも、ここでの考え方を理解しようとしてくださいました。改めて、訪れて下さり、ありがとうございます。
私の方こそ、ありがとうございます。 私も真剣に取り組んできたので、言葉がきつくなることもありますが、ご容赦戴きたく。 今回のhatoさんの話はよく理解できました。 ただ、どうしても納得がいかないところがあります。
> 人が、その自分を、実際はないところの幻影(世界の機能としての自我)、と腹で気付いたなら、可能性を拓く一歩と思います。そして、ここでの話は、その、本来、ない、ところの自我は、変容(成長)して、ある(自己、実在)、に進む可能性がある、というところが肝要です。そのためには先ずは人に、容赦のない自己探求は不可欠です。
ここが、先ず違うところです。 瓦は磨いても玉にはなりません。自我は変容しても自我であり、幻想だと思います。 決して真我や実在に進むことはないと思っています。 なぜなら、真我も実在も変容しないものだからです。 だから、私は自我を弄ることはやめました。 > 人(自我)は成長できること。人と世界は、決定されてるだけでもないらしい、ことを認められたら幸いと思います。
私もかなり自己探求はやってきました。 結論は、何かにならなくてもいいということです。 成長する必要もないし、目覚める必要もない。 それに決定されていたとしても、私には結果が分からないのですから、決定されていないのと同じです。 人は、何もコントロール出来ない、自由意志もない、だから自由で人生も捨てたものではないのです。
|
No.7084 - 2019/10/22(Tue) 08:37:23 |